2007年06月30日

当て逃げ事件を巡る言論活動からraw journalismのあり方について再考してみた

 ちょっと前のエントリ関連で、bewaadさんのところの話がリンクしたのでもうちょっと考えてみようかと思います。


muse-A-muse 2nd: ウェブ社会の民主主義:スケールフリーなネット社会に対応する設計とは?


Apemanさんの当て逃げ事件に関するご見解への疑問 | bewaad institute@kasumigaseki


続・Apemanさんの当て逃げ事件に関するご見解への疑問 | bewaad institute@kasumigaseki


 起点としてはこちらのエントリのほうが分かりやすいですね。(動画リンクもあるし)


雑種路線でいこう - Youtubeと地上波が逆転した日


 要約すれば、「ふつーに運転してた人がなんだかしらないけど嫌がらせされて車に当て逃げされた現場を偶然動画に撮っていたので、youtubeにアップしてネットの共感を得た」、みたいな話です。

 「ネットの共感」っていうか、「カスケード的支援を呼んだ」、ってことみたいです。


 で、bewaadさんとしては主にデュープロセス(法律の定める正統な手続きが行われたかどうか)に着目されていたようですが、ぼくとしては「正しさの過剰さ」のほうが気になりました。

 前者が手続き的な関心なのに対して後者は倫理的課題ってやつです。

 具体的には、「それってやりすぎなんじゃないの?」、ってこと。



 で、ネット的な正しさの具現であるカスケード的支援のことが気になったり...。(※カスケード的支援のびみょーさについてはこちら↓)
 

muse-A-muse 2nd: カスケード的支援と持続的運動 (情報普及における質的投入の可能性 (仮))




 上記エントリのところでも少し問題になってましたが、「正しい」からといってなにをやってもいいわけじゃないんですよね。

 でも、ネット的な支援というのはそういう傾向が強いように思います。端的に言えばメディアスクラムならぬネットスクラムってやつなのでしょうけど。


 で、


 その危うさってのはこのあたりに集約されるかなぁ、と。


秋月瑛二の「団塊」つぶやき日記−FC2版 | 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)を読んで。


 「学級会的正しさ」ってやつです。

 「正しさ」ってのは時代環境や当人の生育環境、もっといえばそのときの気分なんかにも左右されるぐらい危ういものですよね? でも、「正しさ」のスクラムをする人たちはそれを疑わない...。

 疑っている人もいるのかもしれないけれど、「運動的なものの勢いのためには一時の疑念は胸にしまっておけ」、ということになっているのでしょうか?


 で、びみょーな「正しさ」ののっぺらぼうができあがるわけですが


ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」



 外山恒一さんも言ってたけど、「正しい」という行動から参加する運動というのは卑しさをもつように思うんですね。そこに自分的なコミットメントの理由がないと。つまり「自分のため」という理由がないとどうもギゼン的なものになりやすいし、流されていても気づかないことがある。

 
 ある流れに参加する人はその辺に自覚的であるべきだと思うんですが、昨今というか日本的気質なのかもしれないけど、カスケード的支援にはそういうのが見えないんですよね。

 逆にカスケード的私怨(ネットイナゴ)のほうにしてもそうなんだけど。

 両方とも過剰なんですよね




 
 本来、「正しさ」というのは訳わかんないものから当事者のエゴの妥協点を探るために「法」というものが設定されているはずだけど、その部分も機能してなかった....(のかな?)


 ってか、「警察の対応が遅いのが悪い」って言葉に集約されそうですが。



 じゃあ、まぁ、手続きプロセスとしてはそっち方向で任せるとして、ネット的な民主主義のあり方についてもうちょっと考えてみたいと思います。


 ネット的な民主主義というか、youtube的ジャーナリズムのあり方について。


muse-A-muse 2nd: ネット時代のジャーナリズムの可能性 (raw journalismについて)



 上記エントリは武田さんのネタ記事「ウィニーこそ史上最強の「ジャーナリスト」? 」を受けてもそもそと考えたものですが、今回の一連の事例では上記エントリ後段で出てきたP2Pジャーナリズムという概念がもうちょっと進んだ形で現出したようですね。

 前のエントリではちょっと詰めが甘くて、「P2Pジャーナリズムの担い手は記者個々人(これによって検閲を超え、ジャーナリストの内部的自由が確立できる)」、みたいな結論を出してしまいましたが、P2Pやらオープンソースってことだと市井の人々も含まれると考えるほうが妥当ですよね。


 で、「それはジャーナリズムといえるのか?」ってことなんだけど...。



 今回の事件から考えると、youtubeに動画をアップした人の行動は「特に言評をつけず(no edit)、情報をそのままアップする」ということでraw journalismの一例といえると思います。


 no editとは言っても、客観報道を巡るギロンにもあるように完全に客観な情報発信なんかないわけで、人間が発する場合、そこになんらかの恣意性が含まれることになると思います。


 件の動画も「客観的な状況説明」という体裁を保ってテロップの構成をしているように見えますが、それによって「この動画は客観的だ(恣意性がない)。 → この人はなんの印象操作もしようとしていない」って好印象を持たせることはできるわけですよね。


 そして、情報を発表する場所、タイミング、情報を伝播する経路の選定などに関しても恣意性が働いてくると思います。(見えない形で)



 って、こういうとこの当事者の人を批判しているようで心苦しいのですが、いちお断っておくとぼく自身は当て逃げされた被害者の人に対して同情的というかある種の共感を持っています。

 その上で、「<動画=raw>って定式で信頼が集まったのかなぁ」とか思ってるわけです。



 今回の動画はedit的なことはなかった(と思うので)すが、これにほんのちょっとeditが加えられるようになるとどうなるのかなぁ、とか思ったり。


 たぶん、大部分の人は気づかないでしょうね。そして「善意の支援」をする。(mixiでウィルス警報日記が流行ったように)



 その辺のところどうなんだろうなぁ、とか思うわけです。





 もうひとつ思うのは従来のジャーナリズムと比べて、今回のそれは支援までを含んでひとつの言論活動といえるのかなぁ、と思ったり。ってか、この「支援」の部分こそがメインなんですよね。



 そういうのは民主主義とジャーナリズムとの関係を考え直すきっかけになるように思います。



 ハーバーマス的定式を借りれば、政治・経済システムの論理と生活圏の論理を繋ぐのがジャーナリズムの役割ってことになるのですが、raw journalismにおいてはそこにショートカットが生じるのかなぁ、と。

 今回の事例では「生活圏 vs. 生活圏」って感じになったので、上記のような定式は当てはまらないのですが、これが「政 vs. 生活圏」「経済 vs. 生活圏」という図式になったときにどうなるのか...?


 そんなことを少し思います。


 
 「界」と「界」がクッション(公共圏)もなく直接ぶつかり合うことになるわけですが、そうなると本来力を持たない生活圏の側のリスクが高くなりますよね?(Apemanさんが「もしも当事者責任がなかった場合にはどうするんだ?」とおっしゃっていたように)


 その責任を担保するために専門的職能集団というものが構成されているわけだけれど、その部分が機能していないのでネットの力が使われる、と。


 白田さん流に言えば、「リヴァイアサン(国家な力)やベヒーモス(市場的な力)に対してグリゴリ(情報、あるいはネットの力)が飛び立とうとしている」ってところなのでしょうけど...グリゴリってのはそこまでの力....というか、防御力を持つものなのでしょうか?
(※ぼくの脳内イメージではクリオネです)



 もしもraw journalismが本格化するのであればなんらかのクッションが必要になるかもしれません。


 市井の人々が言論的活動をした場合のリスクを補填するサービス(保険)を行う会社みたいなものとか。あるいは、raw journalism的な素材を集約、必要に応じて配布する情報センターのようなものとか..(イメージとしては通信社から新聞社にわたっている情報を市井の人々も使えるようになる感じ)。あと、関心が似ている人々やギロンのマッチングサービスとか..。

 そういうものを統合したサービスとしてのraw journalismセンターのようなものが必要なのかも。


 イメージとしては下記social mass-media ecosystemの中でもsocila mediaに近い位置にあってblogosphereを回転させるためのハブみたいな機能をするものです。


Social Media: Social media goes mainstream

(日本語解説はこちら


 
 センターの必要性についてはこの辺

muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)



 つまり、「公共圏の再設定・再構築」って感じです。



 さて、そういう感じのものがうまく回りだしたとき、それはジャーナリズムっていえる....のかなぁ(あるいは、「それこそがジャーナリズム」、か?)








posted by m_um_u at 18:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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