2007年06月30日

日本的コンテンツの可能性と限界について論じる際の論点とは?:製品開発環境・マーケティング・商品の質・リテラシー

 一部でコンテンツ関連のギロンが少し盛り上がってるようでほほえましい。

 で、TBでも送ろうかと思ったんだけど、この人たちは仲間内での雑駁な居酒屋談義を楽しみたいだけなのだろうからまぁほっとこうかなぁ、と。(ダンス@シリコンバレリーナ島)


 なまぬる〜く見守っとこう(ちゅーちゅー言ってはイカン!!) 

   

 それとは別に、これ系のギロンは個人的に関心がある領域なので勝手に引き取らせてもらう。



 彼・彼女たちのギロンを見ているとどうも問題の位相を一点でしか捉えていないようなのでまずこの問題におけるレイヤを整理すると


 「送り手の送り方(マーケティングなど) - コンテンツの質(製品創造環境) - 「受け手のリテラシー」


 の三段階に分けて論じる必要があるように思う。


 
 マーケティングの問題については広告手法やそのタイミング、それにかけるコストとリターンの算定、広告を送るのに効果的なメディアチャネルの選定などがそれに当たると思う。

 この辺はまぁ、それ関連の本でも読めば載ってる話題なので特に触れない。(ゴロゴロ転がってるだろうし)


 
 コンテンツの質について。「アメリカでは日本のコンテンツは通用しない」みたいな言説があって少し気になった。

 まぁ、たしかにそうなんだけどその辺りの論点はけっこう既出だったりする。


ITmedia News:「日本のドラマは論外」 希薄なテレビ業界の意識


 ここでデーブ・スペクター氏も言ってるように、「ドラマなんかでも資金力の差が質の差にそのままつながってる」ってのはその通りだと思う。でも、それができる(できない)のは当該コンテンツ業界の歴史にもかかわる問題なので。

 簡単に説明すると、アメリカの場合はフィンシンルールの関係でドラマ制作に映画と同じぐらいの資金をかけられる土壌ができた。なので、アメリカドラマというのは少なくとも資金面ではアメリカの映画に見劣りするものではなくなっている。

(歴史を話し出すと長くなるんだけどちょっとだけ言うと)日本の同部門の経緯としては五社協定なんかで「アメリカ映画締め出し〜」なんてアホなことやってるうちに映画産業は競争力を失ったし、映画業界はTVのことをバカにして俳優貸し出し規制なんかも行っていたので、ドラマが育つ土壌もできなかった。

 そういうわけでこの部門に関してはアメリカと日本では構造的に開始地点が違うのだ。



 それとは別に、「金をかければよいコンテンツができるのか?」、という問題がある。ってか、「アメリカのコンテンツは金がかかってるからって良いコンテンツだといえるのか?」、って問題。


 正直、ぼくはアメコミとかアメドラマ、洋楽なんかは苦手で摂取しないのだけれど、その理由として考えられるのは彼らの作るものにバタ臭さを感じるからだと思う。「バタ臭い」っていうか過剰な大人性みたいなの。もうちょっと言うと、「大人」と「子供」の中間的なものがない気がする。

 こちらでも少し触れたが


muse-A-muse 2nd: 小さきもの、カワユスかな


 アメコミ的なキャラ設定してるSecond Lifeなんか、いままでの日本のコアなゲーマーに受けるわけがない。(実際、SLのユーザーの多くはゲーマーではなくそれまでゲームをしたことがないようなライトユーザーのはず)


 そういうのはもうちょっと言うと「子供文化と大人文化の違い」ともいえるかもしれない。


 どっちが「優れている」とかそういうことではなく、すくなくともマンガやゲームといった若者文化と親和性の高い領域においては、若者文化的なところを「お子様文化」としてバカにせずに商品の機微を研ぎ澄まさせていった日本的なコンテンツのほうが質が高いように感じる。

 それは自国びいきというかそういう面も少しはあるのかもしれないが、客観的に見て、欧米文化よりも日本の若者向けコンテンツのほうがかゆいところに手が届くような商品開発をしているのだから仕方がない。


(重複するが)欧米の人たちはそれを「お子様文化」として軽んじて作り上げていっているので、大人向けじゃないものを作るときにはどうやってもお子様的な価値観、形象から抜けきれないところがあるように思う。

 なので、物語的には「善悪二元論」がデフォルトで、キャラクター的にはいかにも「お子様向け」な商品しか開発できない。(っつっても、「善悪二元論」の部分はシンプソンズほかに見られるように少しは変わったのだろうが)


 形象(キャラクター)開発関連で言えば日本という国がどれだけキャラクターに囲まれた国か、日本人はあまり意識できないのだろけどガイジンなんかはよくびっくりするみたい。(あまりいい意味ではないのだろうけど)

 たとえばドラッグストアで売られてる大人向けの薬にもキャラクターが設定されていることに驚いたり。「そんなことしたら”お子様向け”ってことで欧米では売れない」、って感じだけど日本ではデフォルトだしなぁ。


 それだけ「キャラ」というものが生活に染み込んでいるということだし、生活の中にキャラがあふれているということは「キャラクター」(あるいは「かわいい」ということ)の多様性に関する開発が進んでいるということの証左ともいえるだろう。



 あと、バタ臭さ関連でこの辺とか



muse-A-muse 2nd: 「ここ10年でAV女優のレベルは上がった」のか? (+ エロコンテンツ周辺情報まとめ)



 洋ピン的なコンテンツと日本的なコンテンツでは明らかに機微が違う。この部分にも当該コンテンツに関する差別意識が絡んでいるのかもしれないけど、やっぱ全般的に「日本的ロリ意識」ってやつが絡んでくるのだろう。

 「ロリ」っていうと語弊があるか。「小さきもの〜」のとこでも扱ったような「バロック的なゆがみ」といったほうがいいかもしれない。


 バロック-ロココが絶対王政の豊穣を基盤にした「ゆがみ」であったように、オタク的なもの(あるいは各コンテンツ業界における既存商品の亜種)は「バブルの文化的豊穣(飽和)を受けた変化だった」といえるだろう。


 私見ではアメリカの当該コンテンツ(アニメ・ゲーム・AVなど)は「飽和」というほどの発達を遂げていないように思う。ポルノは別にしても、特に若者文化にかかわる部分は。再三言っているように、彼らはそれを「子供文化」として舐めているので、商品開発としては「子供用」の域を脱していないだろう。そしてその域でコモデティティ化し大量生産されて済まされる。

 こちらで関連の考察があったが


想像力はベッドルームと路上から - 「日本人のコンテンツ制作能力」が注目されるのは、単に特定のジャンルにおける「先行者利益」に過ぎないんじゃないかな。


 「一部の日本マニアがジャパニメーションを消費している」関連ではこの指摘に納得


これって、「オリコンチャートの商売臭さに馴染めず、でも日本のインディーバンドも安っぽくて好きになれないからUKロックを聞いている人(←俺)」とどう違うんだって話。



 こんな感じなのだろう。



 それと同じように、「商売臭い既成コンテンツに飽いた消費者がオタク(同人)マーケットに向かう」、ってことなのかも。


 あと先行者優位というかそれって比較優位ってことなんだけどまぁその部分の説明とか。

 面倒なのでジャーゴン使ってすっとばして説明すると、歴史的な必然性から生じた比較優位によって経路依存性やらロックイン効果が発生し、デファクトが決まってくってやつだろう。

 んで、この比較優位を成り立たせる歴史的経緯も大きく分けて2つの理由があるように思う。


 1つは風土と文化の関係。もうひとつは(本エントリ前段でも少し触れた)製作環境が作られる経緯。



 風土と文化の関係については、「小さきもの〜」のほうでも少し触れたので今回は特に触れない。(簡単に言うと「国土の小ささと借景的な技術、あるいは細やかな技術の開発力が関連してるのでは?」って話)

 製作環境と歴史の関係についてもう少し。


 inumashさんのとこで音楽の話が出てたので音楽関連でいうと、日本の若者文化の場合は「大戦による文化的リセット」ってのが大きいので。その後、アメリカからコンテンツそのものを輸入したり、その過程でフォーマットを真似たりしたんだけどなかなか自分のものにできなかった、って問題がある。


muse-A-muse 2nd: J-POP、J文学とはなんだったか?


 それに対して、アメリカはアメリカで「音楽的にすぐれている」っていうのはびみょーな感じがする。(inumashさんの場合はUKファンってことだけど)


 「Dream Girls」なんかでも少し触れていたように、彼の国の文化開発のけっこうな部分は黒人ほかマイノリティが担ってきたものだろう(cf.ユダヤ人と映画産業)。白人も初期には開発に貢献したかもしれないけど、エスタブった後には弱いものの文化をかっさらってコモデティティ化することに専念してたし。


(関連で言えば芸能の大部分は元々「賎業」として扱われていたもの。網野善彦本とか「出雲の阿国」なんかを想起してもらえば分かるだろうけど、道から外れた「公」的なところにすむ人々が生きるための術として編み出した川原乞食的な芸が芸能ってこと。なので、「芸」ってのは元々反骨の限界芸術って趣が強いのだと思う。その部分をなくした芸能は単なる複製劣化にすぎない。「反骨心とコンテンツ開発」については日本のアニメ・ゲーム業界にも共通するはず)

 

 なので、「アメリカのほうがコンテンツ的に優位」なんて胸を張っていえるのか?、って気持ちはぬぐえない。彼らの大部分は消費者のはず。


 そして、「大部分が(カウチポテトな)消費者」と仮定されるが故に受け手のリテラシーに対して懐疑が生じる。


 そう考えると「日本のコンテンツはアメリカでは受けない」ではなく「アメリカ人の頭では未だ理解できない」のほうが適切なのではないか?
 
 
 もっとはっきり言えば、「(アニメやゲームなどの商品の質については日本のほうが優れているが、アメリカ人がその質を理解できるリテラシーを持ち合わせていないので)アメリカでは受けない」、のほうが適切だ、ってこと。


 だって、彼らは旨味も理解できないような国民性だしなぁ..。いろんな部分に対してじゃがいも舌なんだよなぁ..。


 「ハリウッドがあるじゃないか!」っつっても、前述したようにユダヤ人が作ったものだし、音楽も黒人のパクリが大半だったり...。そんな人たちにコンテンツの優劣について語って欲しくないわなぁ。


 それでも差が出ているのは比較優位というか、コンテンツの質以外の面での資本のたくわえとhypeの問題だろう。つまり「潤沢な資本を利用したマーケティングの成果」ってやつ。あと、コンテンツなんか元々、内需産業的なものだからじゃがいも舌な人々にはちょうど良かったのかもしれないし。


 ここで疑問なのが、「ふつーだったら同じようなコンテンツ(お子様コンテンツ)ばかり受けていたら飽きるのではないか?」、ってことだけど.....じゃがいも舌だから飽きないのかなぁ...(じっさい、彼らはずーっとジャガイモと肉をメインに食べてるわけだし)



 この辺の話は「文化的商品開発」ってことで福耳さんに聞いてみるとおもしろそうだけど......まぁ、いいや。(もし見てて「ちょっと言っとくか」って思ったらコメントください)





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関連:
日本文化 続・妄想的日常

※日本文化の特殊性と優位性について


OLだった頃、会社で働いていた日本に超詳しいベルギー人が言ったことに納得してた。
日本文化は身内受けの凝り性文化だそう。
外国文化に負けまいとしているのではなく、
世に意図的にインパクトを与えようとしているのでもなく、
今ここにいる同じ価値観を共有する仲間からの喝采を浴びたいと考える。
その結果、同じものを志す者同士の「これすごいだろ、おもしろいだろ」合戦が始まり、
そこで生み出される物が自然と研ぎ澄まされていく。
でもその競争は、敵対的なものではなく、お互いを尊敬しあいながら、静かに深く進行していく。

そしてある日、偶然目撃した異文化出身の人間(外国人)から、
それがすごいものであることを知らされる。
ほとんどの日本人はその日が来るまで、自分たちが作り上げた物がすごいものとは知らない。



そういうわけで日本のある分野に関する商品開発力は「すごい」といえるのだと思う。問題はその「すごい」部分をつぶさず、パクらせず、どのようにユーザーのリテラシーを教化していくか、というところなのだろうけど。(そういや最近のガイジン@秋葉原トレンドはウォシュレットだそうですね)



かさぶた。 ゲーム業界は「パラダイス鎖国」ならぬ「パラダイス開国」

かさぶた。 今こそ本当の「戦略」を


※ゲーム分野における日本の比較優位は日本的開発環境に依るもので、それをグローバリゼーション(フラット化)仕様にあわせるのはどうなの?、ってエントリで同意。

ところで、フラット化の要件としてフォーマット統合を通じたモジュール化があるわけだけど、ウェブでは誰もきちんと説明してない..。(池田センセあたりがしてたっけな?)


cf.
フラット化するゲーム産業 デジタル家電&エンタメ-新清士のゲームスクランブル:IT-PLUS

任天堂は日本のゲームメーカーを滅ぼす



HPO:機密日誌 - なぜ日本に市場主義経済が根付かないか?

※日本の開発環境の特殊性、あるいは日本的なコンテンツ市場の性格を考える際には「日本的なもの」を考える必要がある。そうするとやっぱ「暗黙知」とか「山本七平」とか関連してくるのだろうけど.....まぁ、まだ課題です。とりあえずこのエントリ自体は別件で考える材料にさせてもらいます(拝)。
 
  

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追記:
それで、特にゲームとアニメというコンテンツに絞って話をすると、ゲームの場合はDakiniさんとこで説明されていた製作環境の違い(特殊性)があるわけだし、それを成り立たせた歴史的経緯の話もしつつ日米の違いを浮き上がらせないとダメな感じがします。

日本の場合はいわずと知れた「任天堂帝国」によるコモデティティ化の成果が強く表れたわけだし、それが世界的に通用することになった。(いろいろ弊害はあったけど。3rdパーティ方向で)

アメリカの場合はよくわかんないのでパスします。ゲーム産業論系の人が知ってるかな?


 
アニメの場合は例の手塚治虫システムの確立がひとつのメルクマールだし、それによる弊害なんかもあったり。(誤解だったっていわれてるけど)

あと、「ジャパニメーション」ということに関して言えば押井守周辺とか、それが生まれるまでのGAINAXとかとの絡みとか、そんなのの経緯を踏まえることが必要っすよね。

んで、最終的にスタジオジブリのDisney提携、と。


あと、エントリ本論でも触れたけど、「アメリカで受けない」というよりは「アメリカ人が理解できていないのだろう」ということをもうちょっと考えてみる必要があるでしょうね。それもマーケティングといえばマーケティングなのかもしれないけど。
 



posted by m_um_u at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(1) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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