2007年06月25日

life「運動」から(2):持続的運動に必要なものと「自由」のための設計図 (国家・市場・情報)(仮)

 こんな時間に更新したくないのだけれど、ちょっとメモ的に。できるだけ簡単に。

(※ほんとは書き留めたメモの字が汚すぎて、後から見返しても何かいてたか分からなくなる危険性があるのでw)



 ↓を再び聞いた


「運動」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


「運動」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)



 で、自分的にポイントの整理。


 まず、運動的なものの目的として


 外山さんと松本さんは「管理に対する反発」というようなことを行っていたように思う。

 その部分への違和感とか、その違和感を前提として楽しむことが第一義的な目的だ、と。



 で、



 そういった運動が一度きりのお祭り的なもので終わらず持続し、体制側に対してなんらかの効果を持つためには「お勉強が必要」、と。


 この「お勉強」に関して、各人の意見が分かれていたように思った。


 外山さん的には「ファシスト的な哲人政治(オピニオンリーダーによる一元管理)」のために「ファシストとなるためのお勉強が必要」、と。


 松本さんの場合は、「お勉強じゃなくてノリでいいじゃん」、って感じ。


 鈴木さん的には、「<運動>って感じで花火あげなくていいから、日ごろの小さいけれど重要な選択の中で間違わないためにもお勉強が必要」 と。


 だいたいこんな感じだろうか。



 鈴木さんの「小さな選択」について、具体例としては選挙の投票とか、森山さんの話(※podcast:「ラジオ版 学問ノススメ」)の中に出てきた「日々の消費行動における投票」みたいなのが考えられると思う。

 後者はたとえば「この企業は環境問題に対してイカンな態度を示しているので不買しよう」とか「この企業は軍需に加担したから不買しよう」とかそういうの。


 狭義の投票が「政治的投票」だとすると、後者は「経済的投票」といえるかもしれない。

 <そういう形で小さな運動(意思表明)はできる>、と。


 そういうのはぼくが「小さな革命」と呼んでいるもので共感できるものがあった。そういう意味で鈴木さん的な立ち位置(<ムリに運動的なものに参加しなくても、生活の場で意思表明や運動的なものを実践し、問題意識を持ち続けることはできる>?)に共感。

 そして、その意思決定の有効性を保つために「勉強が必要だ」、ということも。


 「運動」みたいなのに団体で参加すると自分の意見と違う意見にも流れ的に従わなくちゃいけなくなったりすることが多々あるけど、生活における個人的な選択であればそういうのからは自由だったりする。



 
 でも、lifeのギロンとしては「お勉強」(教養)というところを境に立場が分かれてくる。



 「お勉強できる人は少数だし、お勉強できる人の言葉を理解できる人は少数だ」、って問題。


 平たく言えば、<少数rエリートによる大衆支配ですか?>、と。

 んで、そういう「エリート」ってやつはしばしば観念的な教条主義に陥ったりする危険性があるということだろう。(かつてのサヨクのように)


sjs7のブログ - 21世紀における政治活動の困難さと展望

本当は増田に書くようなことじゃないのかもしれないけれど

大学の自治会を偽装していた極左暴力セクトの実態




 そして、世間は「大衆」によって作られているものだし、そういう人々のリアリティというのは「偉い人たち」からすると動物的なものに見えるのかもしれないけど、リアルな生活の意識だったりする。


 「そういう人々の声が反映されない意見形成というのはなんなのですか?」、と。


 この辺のところは番組後半に森山さんが訴えていたように思う。(「おっぱいパブのにーちゃんも理解できるのか?その声も反映されるのか?」)


 この意識というのはもうちょっと進めるとこの辺に当たるだろう。


外山恒一さんと三度接触、匿名的権力と管理なき管理(@ish)

わたしはヤンキーおよび広義の「元ヤン」こそが無名の群れとして日本を作っており(東京人の多くも所詮はヤンキー的地方人が気取っているだけ)、ヤンキー的精神への訴求力と覇権には深い関係がある、と考えている


 
 要するに日本社会というのはけっこうな割合でDQNなのだろう。


 って、この辺ちょっと語幣があるかもしれないけど、いまはメモということでとりあえずすっ飛ばす。

(※ishさんのエントリ主旨もきちんと要約したほうがいいのだけれど、そこも省略)


 で、


 そういった大衆(DQN)の身体性(肌で感じる生活の実感)にこそ本来の人間的な要求というか実感というものがあり、「そこから生まれる要求・思考こそがホンモノ」としたのが吉本隆明って感じだったのだろうけど、あの人の言説は未チェックなのでその辺も保留。


 ただ、感覚的に、「やっぱノリが重要」ってのと「身体に訴えるものが必要」みたいなのが近いように思う。


 要するに「共感」の問題。



 「どんなに正しいと思われることを言っていても聞いてくれる人(共感してくれる人)がいなければ言ってないも同じ」、だし、「正しいことなんてその時代情況や気分によってコロコロ変わるもの」だったりする危険性もある。



 で、


 そういった問題に対して外山さんは、「正義を理由に運動に参加するのは下品だと思うんですよ」、みたいなことを言い、「自分のための訴え、あるいは自分の同胞のための訴えにとどまる運動こそ本来の運動」、みたいなことを言う。

 つまりパトリであり愛郷心ってことで、ファッショってやつなのだろうけど。


 それに対して、「それって自分たちだけがよければよいってことですか? だったら結局椅子とりゲームの椅子主がすげ変わっただけじゃないですか?」、って鈴木さんが批判してまったくその通りだな、って思ったり。


 外山さん的には「正義」と「同情」を振りかざす偽善的なものよりも「少なくとも自分の問題」に終始する運動のほうが潔いということで、その気持ちも分からんでもないのだけれど...


 やはり、鈴木さん的な意見のほうに共感する。


 未だその理由についてうまくいえないが、「(直接的に)自分の問題ではない」ことにもコミットすることは必要だし、コミットするための理由づけとして「善(正義)」あるいは「他者への共感」が設定されるように思うから。社会というのはそういうものを必要とするように思う。(cf.関係性



 問題は「正義」や「大義」が教条化するかどうか、というところなのだろう。


 あるいは


 「正義的な意識から発する呼びかけが共感を呼ぶかどうか」、というところ。



 それは決して偽善的で欺瞞的な上から目線の同情心というわけではないのだけれど......そういった気持ちが伝わるためにはどうしたらよいのか..?


 そして、そういった意識が観念的な固定化に陥らずに社会全体にとって便益を維持する視点と接合するためにはどうしたらよいか...?




 ここで合理性と自由の問題が絡んでくる。あるいは、「教条的になりがちな"正義”を多数決で裁いてもらう」、ということ。その意味では「投票と自由」ともいえるか。(投票による「自由」の評価)




 個人による自由の拡張に対して、多様性の暴走を統制するために国家は物理的暴力を後ろ盾に行き過ぎた自由を統制する。

 もしくは行き過ぎてなくても「目障りなハエ」はたたき落とす。(あるいは「蝿の王」の象徴をたたく)


私が手を染めた恐るべき犯罪の全容 (前衛政治家・外山恒一 ブログ)


外山陣営はすべてがトロすぎる


 

 そういった暴力性というものは国家(リヴァイアサン)が持つ先天的な性格なのだろうけど、それを抑制するために政治的投票権だけでは間に合わない。


 ここで登場するのが市場(ベヒーモス)。


グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について


 鈴木さんはsteve jobsの例を挙げて説明していたけど、あんな感じで、「行き過ぎた自由(ワガママ)」でも「市場的な力」を背景にすれば通るようになる。


 ベヒーモスを召還してリヴァイアサンと争わせる、ってことなのだろう。



 
 そして、ベヒーモスを統制するためのちくちくとした攻撃が経済的投票権ということになる。


 「グリゴリの捕縛」的にはグリゴリ(情報の力)が第三の力として絡んでくるということだったけど、ぼく的には「情報」というのは前二者のような具現的な力というよりは、両者を繋ぐ(増幅させる)間接材的な役割を果たすように思う。

 
 つまり、<メディウムとはinputを増大させたoutputに変えるもの>、ってことなのだろう。



 「ネットの力」なんていわれるのも「直接的な力」というよりはそんな感じの間接的なもの(繋ぐ役割)の性格が強いように思う。


 バックアップとかロジスティクスって感じ。



 その意味ではこちらのエントリ


荻上式BLOG - 「バックラッシュ」についてマスコミ学会で喋ったこと。


 の後段(ウェブ上で建設的な議論は可能か」について)で出てくる、設計思想というのはすこしエリート主義的な感じがする。(単なる印象だけど)


 って、ぼくも似たような考えを持ってしまうだろうけど....もうちょっと「共感」というところをうまくつなげないだろうか..。


 あるいはマーケティング的には「共感も設計できる」ってことなのかもしれないけど


muse-A-muse 2nd: カスケード的支援と持続的運動 (情報普及における質的投入の可能性 (仮))





 ってか、「共感」という意味ではやはり「人」か..


muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)

 
 

--
メモ:
この辺、「アナーキー・国家・ユートピア」も絡むか..。
 
 




タグ:運動
posted by m_um_u at 00:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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