例の光市母子殺害事件を巡って、ネットから電凸スクラムが生じ問題になったみたいです。
Baatarismの溜息通信 - ネットからの弁護士懲戒請求は違法か?
要約すれば、<あまりにもアレげな弁護士団に対して「アホ弁護士は解任しろ!」的な電話要求が殺到して難儀した>、とのこと。
んで、司法の独立性みたいなのを巡って云々ってなってる(...のかな?)
このような電話スクラム(あるいはサイバーカスケード)として、最近あったものとしてはこれが思い出されます。
muse-A-muse 2nd: 平和資料館で「原爆投下=植民地解放」展 ?
たしかに、こういう形で「ガッ!!」とたたかなければならない面もあるのだろうけど、「やり過ぎ」ということですよね。
やりすぎると担当者も聞く耳持たないし、下手すると以降は窓口を閉じてしまうかもしれない。
よく言われるように、「そういうスクラムをする人はお祭りに乗りたいだけであって、本当に情況を変えようとしているかどうかはびみょー」、って感じがあります。
もちろん中には本気で情況を憂えて、勇気を振り絞って電話とかメールしたりする人もいるのでしょうが、祭りが佳境にさしかかってくれば来るほど単なる「お祭り(流行)だから乗っとけ!」感が強くなっていく面もあるのではないでしょうか?
まぁ、「おぼれてる犬に石をぶつける」、ってやつなのでしょうけど...。
あるいは、古くは死刑囚への礫投げみたいなのかな。「悪い」というレッテルを貼られている相手になら心置きなくストレスを発散できるので「とりあえず石投げとけ」、と。
大衆心理って感じですね。
関連でこんなエントリを見ました。
macska dot org » Blog Archive » 社会運動におけるネット利用と「運動マニュアル」
北海道の自衛官(女性)へのセクハラに対して、有志がネットを通じて支援活動をしようとしているようです。その際、「要求をじっくりと相手に届けるにはどうしたらよいのか?」という視点からエントリが進めてあります。
ポイントとしてはこの辺かな
そりゃ原告の立場に立てば、憎き被告のことなんて悪く言いたいだろうけど、その愚痴を聞いてなだめて落ち着かせてあげるのが支援者の役割でしょ。なのに、支援者が一緒になって言いたい放題被告側の悪口だとか自分たちの主張だけ書き連ねている。「誰に何と思われようと構わない、自分たちの怒りをぶちまけたいのだ」という運動があっても悪くはないけど、支持者を集めて裁判に勝とうという運動としてはとっても疑問。てゆーかそもそも、「非正規職員の雇用と生活を守れ」と主張するんじゃなくて「バックラッシュ裁判」をはじめてしまった時点で、戦略的にはもう負けてるんだけどさ。
「バックラッシュ裁判」がなにを意味するのか良く分かりませんが、「教条的で固定的な旧来型の要求」って感じでしょうか?
で、
macskaさんとしては「そういった運動の進め方のまずさはあるのだけど」としつつも、kalliklesさんが進めようとしている運動のマニュアル化について疑問を呈しています。
「マニュアルって言ったら一番有効なのはコンサル雇ってマーケって感じでっ展開することだと思うけど、それってびみょーだよ?」
その理由として、コンサル的な視点では短期的な勝利を最優先するのでそれ用に戦術を練ることはできるし、有効なtipsは使えるのだけれど、そういった勝利が果たして運動にとって長期的な利益をもたらすのか、と。
具体的には、同性愛者の権利を守るための運動の際の住民投票において、コンサルがとった手法というのは「この法案が通ったら教育にとって不利益だよ?」って感じで、「同性愛」から焦点をずらすことだったみたいです。
でも、それで成功した。
「勝ったんだからいいじゃないか」ってなりそうだけど、騙して勝ったようなものなので、同性愛について住民の意識は変わってなかったらしいんですね。
で、「それって勝利なの?」、と。
エントリ後段でも触れてありますが、マーケ的な手法(論理ではなく欲望や恐怖心を刺激する手法)というのは「それってホントに民主主義なの?」って感じがしますね。
「inputを決めてブラックボックスに入れれば定まったoutputが期待される」って感じなのだろうけど..
具体的にはこんな感じですが
ロリコンファル - 残酷な企業が支配する −バイラルマーケティング−
で、先日のエントリ(SEOからSMOへ)にもつながってくるわけです。
muse-A-muse 2nd: スモーとってもまわしはとるな! (SocialMedia時代のサイト最適化関連)
本エントリと絡めて考えると、
<旧来のマーケ的な手法が「量的な情報投入」を中心とし「伝える」というよりは「だます」(あるいはスイッチを押させる)というところを中心としていたのに対して、これからのマーケは「質的な情報」への転換が可能(...かも)>
って感じになると思います。
っつっても、「それは理想論であって」みたいに言われるかもしれないけど、マーケ自体が量ではなく質に転換してきてるみたいなんですよね。
それには例の情報の非対称性の解消が絡むのだろうけど。(要するに賢い消費者(ユーザー)ってやつ)
muse-A-muse 2nd: システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)
情報が過多になると肩こりも生じる...。(ってか、処理しきれないほど膨大な情報の渦の中に実存が埋もれてしまう)
ということで、この手の問題というのは「送り手 / 受け手双方のさらなる技術開発が必要」、って感じになると思います。
技術開発っていうか意識変革みたいなのかな。
一部で「情報の非対称性の解消による完全合理性の実現は失敗した」なんていわれてますが、おそらくこんな感じで双方が歩み寄っていくことによってだんだんと見えてくるものなのではないでしょうか..?
あとは合理性にかかわる要素を増やしていくとか
そうでなければ経済学の意味なんてないですよね?
以上、とりあえずメモってことで。本サイトの関連エントリはこちら
muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)
muse-A-muse 2nd: 情報共有時代のコンテンツ
muse-A-muse 2nd: システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)
「まれびと〜」は「情報化時代の運動のあり方」について、lifeの放送内容をもう一度確認した後に再エントリを試みようかと思っています。
「情報共有時代のコンテンツ」は「マーケにおける質的なものの復権」関連って感じで。
「システムにおける多様性の必要性」は「ノードを高度情報化しつつシステムのガバナンスを保つには (あるいはガバナンスを保ちつつ多様性を導入するには)」ということについて。
いづれもケイゾク中です。


