muse-A-muse 2nd: 捕鯨問題の知られざる歴史でガイジンにwhale面かかせてやればいいです
駒沢亭日乗: 捕鯨についてのまとめ
捕鯨問題について。ぼく自身はそれほど関心がなくて、「漁業の問題がなぜ環境問題とか人道的問題みたいな感じになってるんだろう?」、ぐらいの違和感しかないです。
そういうのに対して、一部の急進的なクジラ愛護団体は「クジラさまは歌うのよ! (卵を生むんじゃなくて哺乳類なの! だからサカナじゃないの!!)」っておっしゃるわけですが、その辺の感覚がよくわかんないのです。
TBいただいた先のコメント欄でも書いたとおり、ぼく自身は漁業問題の一種としてしか捉えてないので。あと、希少動物保護の問題が絡むかなぁ、と。
なので、話し合いにおいては希少性と商業的インセンティブの間のところを模索し、そこに妥協点を見出すべきだと思ってるのですが、その手のギロンを見たことないんですね。(不勉強なので)
で、なんとなく思うのは、「やはり反捕鯨派の根っこにあるのはクジラ様は偉大だからとってはイカン!!」、感情なのかなぁ、と。
論理的に通らない部分なので感情的な議論なのかなぁ、と思うわけです。
かといって、別に感情論を否定するわけではなく、ぼくとしては「感情を起点としつつ問題により深くコミットしていくことは可能なはず(感情と論理は争わない)。感情は関心の起点であって、論理的整合性とは関係ない。むしろ関心のケイゾクのためには必要な資源では?」、と思っています。
ですが、やはりよく分からない論理を展開する人というのは感情論に終始する人が多いように感じます。
んで、まぁ、自分なりに、この問題に関心を払う人の分布図のようなものを想定したわけですが、
「バカ捕鯨反対派 / 論理的捕鯨反対派 / 論理的捕鯨賛成派 / バカ捕鯨賛成派」
みたいな感じになっているのではないか、と。
「バカサヨク / バカウヨク」と同じ図式なわけですが...やっぱこんな感じなのかなぁ。
「バカ捕鯨反対派」というのは上述したように感情論で史料や各種データをゆがめる(恣意的に利用する)人々のことです。「バカ捕鯨賛成派」も同様。
ただ、バカ捕鯨反対派の感情としては、「大きくて偉大でかわいらしいクジラさまは偉大 (←同語反復)」、的なインプリンティングがあるのでしょうけど、バカ捕鯨賛成派のほうはどうか?
こちらは、「わしらが小さいときはクジラなんかふつーに食えたんじゃい」、的なご老人衆の戦中派みたいなゴリ押しがあるのではないか、と思います。
で、両方ともわけわかんない気持ちのみで話すのでギロンが進まないのでしょうね。
たとえば、バカ捕鯨賛成派の典型的なダメ議論と思われるものに「クジラで食料自給率を上げる」みたいな言説があるようですが、自給率とクジラの問題なんか関係あるわけないじゃないですか...。
日本の食糧自給にとってむしろ重要なのはお米ちゃんの問題であり、その米でさえ「コストを考えるとムダ(食の安全保障を考えるなら日本の市場経済全体の安定性を保つことに注力すべき)」って考えられてるぐらいですよ?
クジラで自給って......(ありえねー。養殖でもするのか?)
そんな感じで両者とも「つかえねー議論(子供の言い訳?)」って感じがします。
んで、この問題に対するぼくの立場としては「クジラ問題関心ない派」もしくは「論理的捕鯨賛成派」って感じになると思います。後者はあまりにもバカ捕鯨反対派の意見が目立つので。それへの苛立ちのようなものからそういう立場をとるのかなぁ、と思ってます (カウンターイデオロギー)。
で、それに対してTBいただいた駒沢さんは「論理的捕鯨反対派」(もしくはそれほど興味がない)って感じなんですが、コメント欄最後の「この問題で日本が強硬な立場をとってIWCを脱退することになるのが心配」というところがちょっと気になりました。
この問題について、あまり知らないので「そもそもIWCという組織がどのような経緯から作られたものなのか」、「組織として期待される機能とは何か」ということについて分からないのですが、てきとーにググってたら「IWCとは元来、持続的に捕鯨をするために鯨の生産量をコントロールする機関である」みたいな言説を見ました。
その言説自体一定のバイアスを含む感じがするので全面的に信じてるわけではないのですが、「まぁ、そういうのもありかなぁ」、と。
んで、IWCについてちょっと調べたのですが
国際捕鯨委員会 - Wikipedia
事務局はイギリスのケンブリッジにあり、クジラ資源の保存および利用に関しての規則を採択したり、クジラの研究・調査を行う。科学・技術・財政運営の3つの小委員会を持つ。
って感じであながち間違いではないみたいですね。
あと、こちらとか
IWCとは:鯨ポータルサイト
IWCは1948年に,大規模な母船式捕鯨によって乱獲されたクジラ資源を国際的に管理するための条約“ICRW(国際捕鯨取締条約:1946年に締結)”を執行する機関として結成されました。その目的は“鯨類資源の保存と有効利用,そして商業捕鯨の秩序ある発展”となっています(日本がIWCに加盟したのは1951年です)。
ポイントはこの機関の執行力や拘束力、影響力だと思うのですが、その辺については触れてませんでした。
なので、ぼくとしてはこの団体を脱退したからといってどのような不利益が生じるのかよく分からないのですが....「鯨さんが獲れなくなる」ってことなのかなぁ..。でも、拘束力のない機関であるならば無視してとっちゃえばいいと思うけど....「そうすると漁業全体の外交問題みたいになる」?
でも、上述してきたように鯨問題なんか食料問題全体からすればほんの一端なことだし、食の安全保障関連でも経済的な影響力(日本という市場の巨大さ・安定性)を保つことが第一に優先されると思うんですね。
要は「鯨問題以外の部分で友好を保っていれば諸外国も認めるだろうなぁ」って感じです。
なので「IWC脱退」と言ってもそれほど切迫感はありません。脱退して鯨食べられなくなってもそんなに困らないし。(ぼくが鯨問題に違和感を表明するのはバカ捕鯨反対派の意見があまりにもアレげだからです)
痛いニュース(ノ∀`):【捕鯨】豪州人「調査目的で日本人を2、3人殺していいか?」
以上が鯨問題に対するぼくの個人的な考えです。
で、
それとは別にクジラさんやイルカさんは好きなんですね。
大きくてツルツルしてかわいいし。知能高いのでびみょーにコミュニケーションできそうだし。イルカに乗った少年みたい感じでいっしょに泳ぎたいし、クジラさんにも間近で会ってみたい。
そういう感情はあります。
個人的にはそういう感情とネコを思う気持ちというのは自分の中で異なるものなのかなぁ、というところがちょっと疑問だったり。
muse-A-muse 2nd: ネコと生きる
坂東ネコ問題のときにネコに特別な感情を持っていない人の論理にある種の冷たさや違和感を覚えたのですが、同様の感覚を捕鯨反対派の人たちはぼくに向けるのかなぁ、と。
というより、
「自分がクジラをネコと同じぐらい好きだった場合どうなのか?」、「ネコとクジラとの違いは何か?」って感じなんですが。
ネコとクジラとの違い........やっぱ身近か身近じゃないか、ってことですかね。大げさに言えば「自由・平等・博愛の博愛があまねく愛ではなく、隣人愛をさしていた」(参照)のと同じように、やはり愛情というのは近くのものへのそれから始まるのではないか、と。
それは「ネコと生きる」で引用した保坂さんの記述にも対応しますね。
人間の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない。
ぼくにとっての「自分が立ち合っている現実」の中にクジラさんは含まれない、ということなのかなぁ...。
同様のことを格差社会に関する意識の断絶の中にも思ったり...。
ぼくはそういうのに興味があるけど、興味がない人からすればそういう現実というのは「あちら側」の問題なのでしょうね。(ぼくがクジラ問題に対して思ったのと同じぐらいに)
でも、格差社会の問題というのは日本経済全体というか..労働意欲にもかかわってくることだと思うのでびみょーだと思うのですが..。(保守派の人たちは「だったら日本経済をまず立て直して、全体を引き上げればいいじゃん?」って言うだろうけど)
.....びみょーだ
あと、「現実としてのクジラ」関連でアイヌとクマのことをちょっと思ったり。
アイヌとクマの関係は、「カムイの使いとしての偉大なクマ」なのに「それを殺す」というアンビバレンツを含んでいるわけです。
でも、アイヌの人々からするとそれは生活のために必要なことであり、神聖な儀式のひとつのような感覚もあったのかもしれません。(「神を殺すことで神と同化する - 神を生きる責任を負う」、みたいなの?)
そう考えると、昔の日本人とクジラの関係にも似たようなものがあったのかもしれないな、とか思うわけだけど、現代ッコ達はそういう感覚は忘れているだろうからその辺引き合いに出しても説得の要素にはならないでしょうね。(第一、相手にその感覚が伝わりにくいだろうし)
そういやクジラ獲り映画ってないな。「白鯨」とかはあるのだろうけど、日本人による鯨獲りロマンな映画って見たことない。
ぼくが知らないだけなのかもしれないけど。