2007年06月19日

小さきもの、カワユスかな

 カワイイもの好きなおっさんはコモノが好きで
 カワイクないおっさんはハコモノが好き




 そういう傾向があるように感じられるのはワタシだけでしょうか?(まぁ、そうでしょうね)


 で、ぼくとしては前者に当たるわけですが、その辺のところはこの辺見ていただければ分かります。



はてなブックマーク - morutan@はて部 / これはかわいい


 おっさんはかわいいものが好きです。

 ってか、

 かわいいものがすきなおっさんもけっこういます。



 その「かわいさ」というのは渋谷発なギャルどもが発する「こぉれかぁ〜わぁ〜いぃ〜いぃいぃ〜」的なかわいさおしつけ型のかわいさとは一線を画すように思います。

 やつらの発するそれに違和感を覚えるのは、対象のかわいさではなく「それをかわいいと思う私ってかわいい?」的な押し付けがあるからなんでしょう。


 そういう意味では前段エントリともちょっと関連するように思います。


muse-A-muse 2nd: 「テイシュクナツマ」から「カワイイワタシ」へ (「女性」意識の構造転換?)


 ただ、前段エントリで対象とされている「カワイイワタシ」とこの渋谷系かわいさゴリ押しな人たちとはまた違うのでしょうが。

 かわいさゴリ押し系の人たちのイメージとしては、例の変異体少女文字とか、「あいうえお」+「わ」などを小文字化することによって無理やりかわいさを演出している人々って感じがします。



.....かわいくない、かわいくないぞそれは

(ってか、むしろ文がみにくい)



 そういった例は極端かもしれないけど、それとは別に女性の使う「かわいい」と自分の思う「かわいい」ものとの間にちょっと隔たりを感じていて....今回はその辺のところをまとめてみようかと思った次第です。


 ちょうどネタもたまっていたもので。


 んじゃ、まずここから始めましょう


Read the Runes:「かわいい」論: 本: 四方田 犬彦


 ちょっと前にでた四方田さんのほんのちょっとした感想エントリです。この本の狙いとして、やはり特定女史の発する「かわいい」への違和感の表明というものがあるようです。そして、その違和感とはなんなのか?、ということを突き詰めていく。

 エントリ主的にも違和感はあったようです


女子の発言する「かわいい」と自分の感じる「かわいい」に乖離を感じたのがきっかけ。

特にキャラクターグッズ。ディズニー、キティちゃん、ドラえもん、etc.

どこもかわいくない!

でも「かわいいよね〜」とか適当に相槌を打つおれは大人(というよりエロいだけか)。



 以下、ポイントだと思ったところをてきとーに抜粋


★「かわいいと呼ばれたことありますか」に対する男子の回答

「高校生のとき、英会話教室の会話練習でペアを組んだ年上の女性に。その人が着ていた上着について聞こうと思っていたときに、それがジャンパーなのかコートなのかよくわからなくて、思わず聞くと、なぜか『かわいい』と言われ…」



 「年上→年下」、「知識→知識のなさ」という非対称性の上に成り立つ「かわいい」って感じですかね。(あと、異性ということもあるだろうけど)
 

 「かわいいと呼ばれたことがない人」について

四方田氏が同年齢の知人友人にこの事実を話すと、男女区別なく一瞬だが驚き、暗い表情を見せ、女性のなかには「若いときに『かわいい』と呼ばれなかったら、中年になってどうやって生きてゆけるのでしょう」と真面目に同情する者もいた。男女ともこの一割を不幸で同情すべき女性だと暗黙のうちにみなすことでも共通していた、そうだ。


 びみょーな話だけど、そういう人ってほんとにいるのだろうか..?

 今言っても誰も信じないけど、ぼくも子供のときは「かわいい」と呼ばれたものだった。そんな感じで、少なくとも子供の時には親戚・近所から「かわいい」扱いを受けるものではないのだろうか...?


.....びみょーだ (深くつっこむまい)
 

 それに対して、いま現在「かわいい」と呼ばれたくないということについて

女子の「呼ばれたくない」回答

「もう大学生です。かわいいよりきれいとかかっこいいと呼ばれたいから」「自分をかわいいと思ってないから」「もうかわいいと呼ばれる年ではないから」

否定的な面に自覚的な回答(少数派だが本質と向き合っている)

「自分が下に見られているような気がするから」「ほめられているから、バカにされているのか、わからないから」「なんとなくバカというイメージがあるから」「自分の世話を必要とするモノ(ヒト)をかわいいと呼んでいるだけだと思うから」「かわいいがあまりに連発されすぎて無意味な挨拶になってしまっているから」



 逆にここから「かわいい」に対するイメージがうかがい知れますね。つまり、「幼児性」、「非成長性」(あるいは力関係における劣位)、「保護の必要性」、「特定の人が使っているよくわからない言葉」、などなど。


 最後の「定義がよくわかんない」は「かわいいのインフレ」という言葉にもつながっています。


 んで最後に、「かわいいについてどう思いますか?自由に書いてください」、に対して

「かわいとは少しバカにして手玉にとってやったという感じ。このヒトは手の平で扱えると思っている傲慢があると思います」「かわいいと呼ばれたいヒトは基本的にM」「かわいいの語をヒトに対して使いたくなったときは、やはりその人を支配したいとき」



 で、「その言葉が発っせられることによって政治性、権力性が生まれる」、と
(文化政治学の領域かな?)



 これだけだと良くわかんないのでこちらも参考にしてみました。


かわいいとクール (book review)


 渡辺センセの書評なので分かりやすかった。(以下、例のごとく気になったところをてきとーに抜粋)


はやりことばはその都度気になる。けれども消えていくスピードが速いから、なぜと考える機会を逃すことも少なくない。そんな中で「かわいい」は、例外的に長生きしていることばである。ただし、ぼくは「かわいい」におもしろさは感じなかった。使われ方に「なぜ」と疑問を持つものがない気がしたし、ことば以前に「かわいいもの」自体が氾濫していて、ことば以上にうんざりしていたからだ。



 やはり、「過剰性を帯びた"かわいい”がインフレを起こしている」、と。

「キレイをふりまけ!」ならぬ「カワイイをふりまけ!」ですかね?

 でも、四方田センセの分析を見て「ほほぅ」と思ったり


四方田犬彦の『かわいい論』には大学生にしたアンケートの分析がある。「かわいいの反対語は何ですか?」という質問に対する回答には、1)同義反復(かわいくない)、2)肯定的形容詞(美しい、など)、3)否定的形容詞(醜い、など)、4)希薄さの形容詞(ふつう、など)があって、「かわいい」もなかなか含蓄のある使い方をされているのだ、ということに気づかされた。



 具体的には、


「かわいい」は単に不細工なものや醜いものの反対というだけでなく、「美しい」や「きれい」、あるいは「賢い」といった肯定的な意味をもつはずのことばとも対照される。さらには、それは良くも悪くもない「普通」の状態とも区別されている




 「ギャル言葉、若者言葉なんかが意外な合理性を持っている」っていう例のアレですね。関連で、「若者が語彙を少なくしているのは語彙が多くなることによって生まれる複雑性のミスリード(ディスコミュニケーション)を避けるため」、みたいなのが思い浮かびます。言葉を少なくして、その代わりに間とかでコミュニケーションをとるってやつ。


 閑話休題


 けっきょく「かわいい」とはどういうことなのか?


「かわいい」と感じる対象は「保護を必要とする、無防備で無力な存在」であり、そこには「対象を自分より下の劣等な存在と見なして支配したい欲求」が認められる。さらには、支配できないものを無力化させることで「かわいい」ものに変形させてしまうといった工夫もある。それは、著者によれば、「ノスタルジア」と「ミニュアチュール」で、それを仲立ちするのは「スーヴニール」だということになる。



 やっぱ「保護を必要とする」、「対象が自分よりも劣位」なんかが出てきますね。つまり「支配 / 被支配」の関係。

 この辺は先日の「萌え」の指向性にも関連するように思います。(これに対して、腐女子の対象はかわいさを必要としないんですね)



 んで、「ミニチュアール」だの「スーヴニール」だのとは何なのか?(以下、孫引き)

われわれの消費社会を形成しているのは、ノスタルジア、スーヴニール、ミニアチュールという三位一体である。「かわいさ」とは、こうした三点を連結させ、その地政学に入りきれない美学的雑音を排除するために、社会が戦略的に用いることになる美学である。p.120



 これに対する渡辺センセの解説


「かわいい」は「ノスタルジア」として「歴史」を隠蔽し、「ミニュアチュール」として「実物」を歪曲させる。それは現代の消費文化のエネルギー源であり、また日本人の感覚に古くから根づいてきたものでもある。それはきわめて日本的なものでありながら、同時に「文化的無臭性」を特徴とする新しい文化商品としてグローバルに輸出されている。



 「歴史を隠蔽し」ってのは文脈切除ってことでしょうか? とりあえず、その言葉が発せられた瞬間、発話者の主観的な価値観(「かわいい」)によって対象の価値が措定されてしまう、と。

 それは逆に言うと、対象の価値は発話者の認めるかわいさの中でしか認められなくなる、ということなんだけど、上述してきたように「かわいさ」なんてのはあいまいな主観的権力のもとに築かれているわけだから、いつ「かわいくない」って切られてもおかしくないんですよね。

 「ミニチュアール」というのも「対象の過小化」って感じで似たようなもののように思うんですが、ここで別の文脈が加わってくるように思います。


 日本人伝統のコモノ嗜好ってやつ。


『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン) 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇


 日本人ってのはコモノ細工がやたら好きだし、枯山水に代表されるような「縮景」でいろんなものをコモノ化するのが好きなんですよね。なんか万葉集のころから好きらしいです。


 それは国土の大きさとの関連もあるのかもしれないけど、なんか知らないけど好き、と。

 んで、その辺について松岡さんとこの本の著者が探っていってるわけだけど.....導入としてはこんな感じで


 極小主義。日本にはこれがあるのではないか。ミニアチュアリズム。日本人はこれが好きなのだ。日本には極端ともいうほどの「縮み志向」があるようなのである。本書はこんな推理をものしたのである。



 とりあえずの理由としてはこんなのがあるかな、と


 理由を考えてみた。イー・オリョンは、とりあえず6つにおよぶ「縮み志向」の型を分類した。入籠(いれこ)型、扇型、姉さま人形型、折詰弁当型、能面型、紋章型である。必ずしもぴったりこないものもあるが、何を言いたいのか、わかるだろうか。



 「入籠」というのは「入れ子」ということで例のマトリョーシカな感じなんだけど、なんか「いろんなものをそこに込めれるから」どうとかって説明がされてます。

 「込めれる」ってとこがポイントなんだろうけど..まぁ、よくわかんないので割愛。

 以下、それぞれの説明部だけてきとーに引用

次の【扇型】とは、扇子のように折りたためるものを日本人が好むことをさしている。


【折詰弁当型】については説明はいらないだろう。日本には王朝期に貴族たちが野遊びをしていたころからからずっと、また農民が野良仕事をしていたころからずっと、行器(ほかい)、曲げわっぱ、破籠(わりご)、提げ重、重箱などの弁当型の纏め方が目立ってきた。

かつて栄久庵憲司が「幕の内弁当の美学」とよんだのもこのことだ。



ここで能面型というのは、日本には「動きを止める美意識」が徹底しているというのだ。いいかえれば「動きを縮めている」と言いたいのである。




【紋章型】とは「凝る」ということだ。日本人は凝り性なのだ。それをなぜ紋章型というのかというと、イー・オリョンには家紋や旗印や馬印がおもしろいらしい。日本酒のラベルもヨーロッパのワインにくらべてずっと多様で豊饒に見えるのだという。とくに韓国の社会文化とくらべると、日本の紋章には特徴があるらしい。





 これだけ見てもいまひとつピンと来るものがないのですが、その辺については松岡さんもごにょごにょと


ともかくも以上が日本の縮み志向6型なのである。さまざまな特徴を総合的に並べたて、それを系統に分けて文化人類学的に分類したとは思えないが、かといって気まぐれな思いつきでもなく、日本を知る外国人研究者独特の勘のようなものがはたらいている。



 ピンとこないのは「ミニチュアリズム」についての説明がないからかな、ってことで以降はその辺についてフィーチャーしてます。(『本書の後半では日本の側から「縮み」の検証をするようになっていく。』)



 松岡さん的には、「引き寄せ」と縮景における「見立て」なんかがポイントではないか、と。

万葉古今このかた雪月花を愛でるにあたって日本人は、花は手折り、雪は少量を盆に活け、月も外で眺めるよりも蔀戸(しとみど)や御簾(みす)ごしに見ることを好んだ。
 自然と全面的に対峙して観照するのではなくて、その美の一部をスクリーニングして引き寄せた。イー・オリョンは書いていないけれど、これを「いけどり」とも「寄物陳思」ともいう。日本に借景の慣習があるのも「引き寄せ」や「いけどり」による。



このことはさらに次のことを生んだとも説明できるだろう。それが枯山水の石立てなどに象徴される石庭の美につながっていく。いくつもの石を持ってきて(引き寄せて)、それを巧みに配置して、それをもって庭とする。しかもそれらを巨山や大海とみなしてしまう。小さくしながら、大きなイメージを思い浮かばせる。
 このことを日本文化に詳しいイー・オリョンが「見立て」という言葉で説明しなかったのは意外だが、これはまさに「見立て」という方法なのである。




 んで、まぁ、「縮み」とか「見立て」なんてのは「限られた資源の中で想像力を駆使して美を楽しむための工夫」って感じなんだけど、そういう嗜好性(志向性)を持った日本人がなぜ極大主義というか...経済大国みたいな大きなものを目指すようになったのか、って指摘がされてます。

これほどに「縮み」を愛した日本人が、いったいなぜ「軍事大国」や「経済大国」をめざしたのかということだ。多くのジャパノロジストが疑問をもつのは、この点なのである。



それをいまは暗示的に言っておけば、日本がおかしくなるときは、結局「取り合わせ」の方法や「数寄の方法」を見失ったときなのである。ひたすら海外のサイズをそのまま呑みこもうとしているときなのだ。そのままにロールとルールとツールをまるごと鵜呑みしようとしているときなのだ。



 この辺の指摘は先日の内田センセのエントリにも通じますね。


辺境で何か問題でも? (内田樹の研究室)

日本人がバカになり、世界に侮られるようになったのは、80年代のバブル以降であるが、それは日本人が「オレたちはもう辺境人じゃない。オレたちがトレンディで、オレたちが中心なんだ」という夜郎自大な思い上がりにのぼせあがった時期と同期している。
学力低下もモラルの低下も、みんな日本人が「辺境人」根性(「いつかみてろよ、おいらだって」)を失ったことにリンクしている。
だから私が申し上げているのは、属国でいいじゃないか、辺境でいいじゃないか、ということである。

 

 まぁ、たぶんもうちょっとしたら資源最適化しないといけないので嫌でも縮小傾向にならざるを得ないのだろうけど....それには夜郎自大(オレサマハコモノ)なお年寄りに納得してもらうというか、席を譲ってもらうことも必要かなぁ、と。


muse-A-muse 2nd: 夜を越えて


切込隊長BLOG(ブログ): 酔っ払って帰社したので書きたいことを書く


白田先生、なんで国会議員に話をしないのですか? | bewaad institute@kasumigaseki




 ってか、話を戻すと、「かわいげを失ってから日本はおかしくなったのでは..?」、という指摘はカトラーさんのところでも上がってましたね。


カトラー:katolerのマーケティング言論: 「美しい」国より「おとな。but カワイイ。」国

「美しい国」に対して「カワイイ国」あるいは「おとな。but カワイイ国」という国家イメージを対立軸として設定したら、この国の行く末に、ひょっとすると別の姿が見えてくるかもしれない。「美しい国」だとか「国家の品格」というインチキな言葉に素直に反応する人々にとっては、自分の国を「カワイイ」と表現することは耐えられないことかもしれないが、「美しい」とか「品格」という言葉に耽って、酷い現実を隠蔽するよりも、余程カワイゲがあるというものだ。




 「そのためにはかわいい政治家が必要」....ってことにはならないか。


 とりあえず、これは間違ってると思うよ


痛いニュース(ノ∀`):【民主党】 新キャラ「民主くん」


 なんだかピングーに似てるけど、ピングーってのは....(自主規制




 で、そういった間違った方向の「かわいさ」とは別に、「かわいい」という価値観は日本独自のものとして注目されてたり...。

 諸外国にはそれに当てはまる概念がないので、該当する言葉もなくて、「かわいい」が「kawaii」として公用語となっている、というのは以前お伝えした通りなんですが


 再びカトラーさんのエントリを見ながら、 この「かわいさ」というのはどういうものなのかなぁ、っとちょっと考えたり。


カトラー:katolerのマーケティング言論: 美しい国の日本文化礼賛とカワイイ革命


このように文化的な辺境(フロンティア)を設定し、常に見知らぬモノ、異国の情報を取り込み、それを洗練させて、世界商品としてアウトプットするというのが、文化装置としてのフランスの真骨頂であり、ソフト・パワー戦略の要諦であった。
ところが、アニメに代表されるオタク文化やカワイイ価値観は、鳥インフルエンザのように一方的に感染するが、宿主と折り合う(フランス化)ことをしない。日本のゴスロリ少女のファッションを、そのままコピーすることで嬉々としているようなフランスの若者たちの姿を見て、旧世代は、苛立ちや危機感を抱いている。



 こんな感じで、「かわいさ」は取り込めないみたいなんだけど。それは上述してきた文脈から言えば、<「かわいい」に通呈する日本文化的なミニマリズムというものが分かってないから>、ってことになると思います。 でも、一部のフランス人に受けてる「kawaii」ってそういう「かわいい」ともちょっと違うみたいなんですよね。


 フランスというのは諸外国の中でも日本のオタク文化への関心が強い国みたいなんだけど、


フランス人少女2人の日本旅行、あえなく御用

当方ロンドン在住で、個人的な趣味で英国および欧州の日本オタクカルチャの調査をしているけど、フランスの日本の好きは抜きに出ている模様。(時点はイタリアかな)



 そこでのオタク文化への憧れっていうの、なんというか...日本的なオタクをそのまま着てしまうところに楽しみを見出しているみたいなんですね。フランス風にアレンジするんじゃなくて。


 知っての通り、ロリータなんてのは元々フランス系な概念なわけで、ロリコン系の嗜好って言ったらあっちのほうが元祖なはずなんです。


 でも、敢えて日本的なものを面白く感じてそれを逆輸入している。例のゴスロリとかそんな感じですね。

 んで、そういうファッションをガイジンがするとそのまんまというかシャレにならなくなっちゃうわけですよね。元々あっち用の文化(装束)なわけだし

 具体的にはこんな感じです。


[ エロイ外人レイヤーの画像を貼るスレ4 ] by PINKなちゃんねる


 一部2チャンネルの人たちが喜ぶようなエロさはあるのかもしれないけど、かわいくはないな、と。(個人的に)


 日本的なゴスロリのかわいさというか特徴というのは、その不揃いさというかいびつさというか....七五三的に借りてきた衣装を着ているところにあるように思うんですね。

 なんつーか、「なんちゃって感」みたいなのがある。


 福耳さんは「ロココの復権では?」と言ってたけど、そういう意味ではむしろ「バロック」(いびつ / 「ゆがんだ貝」? → 「ゆがんだ真珠」でした)ではないかと思うんです。


福耳コラム - 工業力過剰世界の未来



 いびつなものに宿る淫靡さのようなものですね。んで、本人たち的には「なんちゃって」な「かわいさ」をまとっているのでガイジンレイヤーのような過剰なエロさはない、と。

 要するにチビっこが七五三的に衣装を着ている、ってところがポイントだと思うんです。それで、そこがミニチュアリズムにもつながるのかなぁ、とかちょっと思ったり...。



 まぁ、そんなこと言いながらも自分的にもあまりピンと来てないのでよくわかんないんですが(ロリ系わかんないので)。やっぱバロックかなぁ、って感じはあります。(下妻的にはロココだったけど)




 あと、蛇足的に



 例の「Second Lifeのアバターかわいくねぇよ」問題もこれに通じるように思います。


 渡辺千賀さんのエントリにもあったけど、あれは元々アメリカのgeekなおっさん用のものみたいです


On Off and Beyond: Second Life分析シリーズ2:割と年季の入った世界のオタクのコミュニティ


 geekなおっさん達が仮想世界でヘンタイ行為をするためのもの、と。なのでキャラもgeekなおっさん達の好みのものに仕立て上げられてます。その好みとは、こんな感じです


Passion For The Future: オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史



 リンク先カバーイラストに象徴されるように、バタ臭いエロ本の表紙みたいなのがあっちの好みなんすね。(まぁ、アメコミってやつですが)


 そういう世界観には、ニポンジンはついてけないでしょうねぇ...。(すくなくともぼくは無理)

 
 
--
蛇足:
ちなみに、最近購入したかわいいものはこれです


【楽天市場】せちがらい世の中だねぇ・・・よっぱらいおやじストラップ(吐くおやじ):携帯グッズ専門店のストラップヤ!


「おっさんがおっさん買ってどうすんだ」って言われそうだけどw
 
 









posted by m_um_u at 19:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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