池田信夫 blog はてなの逆淘汰
naoyaのはてなダイアリー - はてなブックマークのコミュニティについて
ギロン自体は論理の妥当性から測る姿勢が必要なんだけど、どうしても「お前が言うな!」感が付きまとう。だって池田センセってこういう人でしょ?
池田信夫氏のブログの問題点 LAW and SANCTION/ウェブリブログ
要約すれば、「論理的に妥当なことを言っても相手にしない人」、って感じなのだ。そして、「自分に都合の良い意見しか取り入れない」、ってタイプ。もしくはそのときの気分でしょ?
そういう人がなにをいってもムダなような気がするが....ご本人は一生気がつかないのだろうから仕方ないかなぁ、とは思う。(その鈍さも才能のひとつなのだろうし)
で、
「また言ってますねぇ。それってあなたの大っ嫌いなisedで既出な議論じゃないんですかぁ? そういやisedは参照してませんよねぇ。やっぱGlocom絡みだから?」、
とかなんとか思ってなまぬる〜く見守っていたのだけれどBaatarismさんが真摯に受け止めておられたのでちょっと考えてみることにした。
(※また長くなったので論点はエントリ最後にまとめてあります。分かりにくいだろうからそちらから参照してください)
Baatarismの溜息通信 - はてなブックマークは逆選択か?
ポイントはご多分に漏れずここなわけだが
作者によっては、自説に都合の良い事実だけをブログで取り上げて、都合の悪い事実は隠そうとする人もいるでしょう
Baatarismさんのスパイスがどの程度効くか....見ものですな(TB送ったのかなぁ)
んで、お話の中身としては
「情報の非対称性」の話を恣意的に捻じ曲げた池田センセの論旨に対して、「それって違うんじゃない?(ふつーに考えて)」って感じのエントリ。
ふつー「情報の非対称性」というキーワードが出てくるのは、
「ネットなどによってユーザーが情報面でエンパワーされ、それまでクライアント(もしくはディーラー)にだけ集まっていた情報特権が分散化したので、ユーザーはより合理的な判断をできるようになった(あるいは「できるようになる」)」
という文脈のはず。
それがスタンダードな中古車市場(レモン市場)の例を引いた説明だと思うけど.............池田センセとぼくとでは見ている風景が違うのだろう。
そういや、うちのblogでもそれ関連のエントリあったな。ちょっと振り返ってみよう
muse-A-muse 2nd: 機構の公開性について(参加型の可能性とワナ)
いちお説明しとくと「情報の非対称性」とは、専門家と素人では情報量に差が出る状態(情報量が非対称になる状態)のことを言う。その結果、<需要と供給の合理的判断に従えばユーザーは安くてもっとも機能が高いものを買うはず>という完全合理性を前提とした市場が成り立たないことになる。たとえば中古車(レモン)市場の例なんかが有名。
ここではディーラーのほうが情報量が多いので購買者にてきとーな品をつかませてうまいこと儲けたり・・ちなみに、あまり質の高くない中古車がでこぼこしててレモンに似てるから「粗悪品の中古車」=「レモン」っていう(んだっけな?)
んで、このエントリでは、<情報の非対称性が解消されたからといってシステムを開放系に移すのは拙速なんじゃないの?>、って問題提起をしていたわけだけど、そういやこのギロンは進めてなかったな (ワスレテマシタ)
まぁ、とりあえず後で考えるとして、Baatarismさんのエントリに戻ると、
全体の論旨としては、<「論理性を保った有効な批判」と「単なる誹謗中傷的なゴミコメント」は分けるべきでは?>、という感じ。
理由としては特に書いてないけど、システムの恒常性との関係だと思う。
「水の入れ替えをしない池は濁りやすい」って感じで、外部からの批判意見をとりいれない王様は裸になって風邪を引きやすい。
TRiCK FiSH blog. - だれか裸の王様を止めてやれ
でも、それはblog主だけじゃなくてネガコメの人も同じだね、と
finalventの日記 - ある種のネガコメっていうのもなんというのか親近感の歪んだ幻想なんだろうな
「なにそれ? わたしと仲良くなりたいの?」(ファックコミュニケーションってやつなの、ぼうや?)って感じ
Ohno blog(2007-05-27):一日一回ファック
そんなの「芸」でもなんでもなく単なるスカートめくりって感じの幼児性の表れに過ぎないのだが...「ああいうのは構えば構うだけつけあがるだけだから。無視したほうがいいよ」とかなんとか言われないと分からないのだろうか..。(砂場の原体験がない、ってことなのかな)
通りがかった幼稚園で見た光景
あるいはエクリチュールとネットという2つのメディア増幅によって過速化した自我に自制が追いつかない、ということなのだろう...(たぶんこういうタイプは自省しないので)
田口ランディ公式ブログ : 自我肥大
「場所」と「社会」 (book review)
こういうタイプは「車が速い」ということを「自分が優れている」と勘違いしてわがままな運転をする..。
んで、そういうのは過剰な情報量(input)に耐え切れずに内部システムが飽和状態を起こしているということなのだろうから、システムを分散するか、自省し、再帰的に自己を確認 → 再構築するようにプログラム変更すればいいと思うのだけれど.....それは池田センセも分かっておられるようなんですよねぇ....。
....いや、ちょっと待てよ
池田信夫 blog Moral Sentiments And Material Interests
ここではアダム・スミス問題が挙げられて、<経済合理性的なシステムからはムダ(余剰・多様性)とされる公共善への志向性がなぜうまれるのか?>、ということが問題にされていた。
で、
結論としては、「文化的要因(後天的要因)では?」、って感じだったんだけど....。
ここで前提とされている「善」の設定が硬直性を帯びているのか。
<なにが「善」でなにが「悪」かを決めるのはオレ様だ>、と。
まぁ、この辺の善設定はこの人と近い牧歌的なものなのでしょう。
muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」
まぁ、それでも、表層的な成功はつかめるのでしょうしね。
いいんじゃないでしょうか (ただし正しくはないけど)
んで、「多様性をシステムに取り入れることの必要性 (意義)」についてですが.....めんどうなので人のかりちゃおうw
finalventの日記 - とても簡単な構造主義入門
上記のような感じでシステムの基本構造が措定され、そこからもれるものを「多様性」として設定します。
finalventの日記 - ソーシュールが近代言語学の父である理由
で、システムとして記述できないものは「多様性」ということで外部化、外側に仮置き。超越的意味とかはゴミとして扱う。
それによってとりあえず数学的に記述可能な記号の関係性(システムの体系)はできあがります。
それは厳密な意味での「input - output」の系なわけで、そこには恣意性は介在しません。
これを基本構造として、それぞれの「界」ごとに要素を置き換えてシステムズを組み立てていく。
で、「完全に予測可能なシステムが出来上がる」、って感じなんだけど...
finalventさんもちょこっと書いてたけど、これって静態としてのシステムを見ているわけであって、動態としてのシステムには対応してないんですよね。
なんつーか....
そういう系(歯車)が組みあがっていてもそれを超えた変化が生じるのが人間界、って感じなので。
あるいは、「そういった系ができあがればできあがるほど壊したくなるのが人間」、って感じなんですね。
んで、この「壊す」ってのはシステム内部にいるもの(システムの統制者)側からすると「ゴミ」であり「ノイズ」であるわけだけど、システム全体でみれば新たな生まれ変わりのために必要な情報でもあるわけです。
っつーか、この説明だとそういった多様性自体がシステムにとっての予定調和って感じなんだけど、それを通り越した部分での変化ってのもあるでしょうね。
で、
そういった変化というのは常に外部からやってくる。あるいは、システムと同程度のシステムを内部に抱えるもの(主体)によってもたらされる。
そんな感じだと思います。
んで、まぁ、宮台さんなんかも「ゴミは減らして有効な多様性だけ抽出できないかねぇ」って問題提起してるわけだけど..
天才アーキテクト神成淳司氏との共著本『計算不可能性を設計する』まもなく上梓! - MIYADAI.com Blog
...どうなんですかねぇ
さっきも言ったように、システムが固まれば固まるほどそれに対する主体の業みたいなのも増えてく感じがするので。
(まぁ、この辺はセンチメンタリズムかもしれないけど)
とりあえず、研究者や設計者としては「ゴミは減らして多様性だけ抽出する方法はないかなぁ」って思わざるを得ないでしょうね。
でも、こちらのエントリでも触れたように、その際の鍵はやはり人だと思うんですね。
muse-A-muse 2nd: まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)
つまり「主体」であり、「インフルエンサー」というか「人的ハブ」というかそういうもの。
それがフレキシブルな多様性抽出マシーンとなって起動する(....のかなぁ)
まぁ、この辺は厳密に証明したことないので良く分かりません。
ただ、言えるのは、
「恣意的に構成されたシステムってのは可能性の限界は見えてる」ってことだし、「システムが完璧でもけっきょく使うのは人だよ」ってことです。こんな感じで
スラッシュドット ジャパン | 戦争の帰趨を統計で判断
その時点でどんなに完璧と思われるシステムでも穴はあるし、完璧な結論(あるいは妥当性をもった結論)を出しても採用する人間の側がアレげでは汲み取ってもらえないですよね。
池田センセのとこの話はその一言に尽きると思います。
で、それとは別に、「そもそも系を組んでいく意味とは何か?」、という問題があります。
「完全な予測性を実現するため」ってのが一義的に挙げられるだろうけど、上記してきたように「完全な予測可能性」なんてのはあやふやなものなんですね。
観測者自身のコンディションとか時代状況とか外部要因とかもろもろの影響も受けるし...
そういうわけで、システムというか学術的な成果というのは「完全な予測」ではなく、常にその時点での暫時的な蓋然性の域を出ないものだと思います。
それを考慮したうえで、それ自体を大きな投網として使えばいい。
こんな感じで
『街場の中国論』を読む。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)
投網が破れているなら、そこから漏れるものを計算して利用すればいい (むしろ追い込み漁のために投網を使用する)、ということではないでしょうか?
なんだかずいぶん遠くまでお話が離れてしまった感があるので、今回の論点をいちおまとめときましょう。
(1) ゴミコメント関連の「S/N比」な話で「情報の非対称性」というキーワードが挙げられているが、「情報の非対称性」の文脈はもともと完全合理性の文脈で使われるものではないか?
(2)「S/N」比以前に、N(ノイズ)は「単なるゴミ」と「有効な批判」とで性格が分かれるのではないか? (後者を「多様性」として設定する)
(3) システムにおいて多様性を受け入れる必要性とはなにか? また、 完全なシステムなどというものは完成するのか?
(4) 完全なシステムが可能ではないとして、不完全なシステムで得られるものとは何か?
..こんな感じですかね。
流れを書いただけなので特に新しい知見もないんだけど、(あと数字とか学説とか引いてないので某筋から「お粗末」だの「とど松」だの言われるのでしょうが)、今回は素描って感じで。 (十四松)
--
関連:
muse-A-muse 2nd: blogの可能性とblogセンターの必要性について (reprise)
※「玉石混交」の「玉」のみ抽出する、関連で。「有意義なギロン」を継続的に見ていくシステムの必要性について。この辺も関連↓
踊る新聞屋−。: [SBS]はてブを「Memeorandum化」する
読むべき記事を推薦してくれるRSSリーダー「SocialFeed」、リアルコムがグローバルで公開 - CNET Japan
はて部の「S/N」比関連は・・べたにNGワードとかですかねぇ...。(でもそれはそれで硬直的だよなぁ)。あとCGM的な人気投票(申告システム)とか。多数決的危険性も孕むか...(「せんせぇー、やまだくんがエロいんですー!」)
じゃあ、やっぱベタにIP bangとか ID bangとかじゃないですかねぇ。各ユーザー側にその裁量を持たせるとか。でもそうすると、「..あら、あの人あんなことでID bangしましたよ。意外と沸点低いんですね (あらヤダ)」って言われたらどうしようぅぅぅ...、的な乙女心問題があるので、その辺は是非ともシステムが自動的にはじいた設定にして欲しい....(のかな?)
オレはよゆーではじくが
(※特定ID非表示は既に実装とのこと。ってか、「語尾変換」ってちょっといいかもしれない(にゃー))



普段は、池田先生にはあまり関わらないようにしているのですが、今回は思わずマジレスしてしまいました。w
まあ、あの逆淘汰の話は明らかに間違っていると思ったので、自分のところで取り上げるだけでも情報の非対称性の緩和にはなるだろうと思い、取り上げてみたんですけどね。
ちなみにTBは送ったのですが、無視されているようですね。まあ、こんなもんじゃないかとは思ってましたが。w
池田センセは「情報経済、アーキテクチャ論周辺の経営論、通信・放送系、著作権系」は専門領域なはずなんですが.....今回はものすごかったですね。(あんなのぶタン は・じ・め・て)
なにか血気はやることでもあったのでしょうか?(GLOCOMから父の日の祝いが来ないとか)
そして、現在もエンペラーモードって感じで聞く耳もたずのようですね
Mっ気がある人にはそこがたまらないのでしょうが、ぼくはそういう趣味ないのであの人気が良く分かりません。
でも、傍から見る分にはおもろいからいいけどw