2007年06月15日

ネコの神様 (reprise)

 東良さんの新潮社出向blogが今日で最後とのこと。フィナーレを前にこのエントリが気になった。


奇跡の猫|猫の神様


 前のエントリでも引かせてもらったけど、なんか..じわじわっと来るエントリ。


 「猫の神様を恨んでいたぼくのところに神様の使いが来て....それでぼくは神様(世界)と和解したんだ」


 そんな感じがする



 以下、猫の神様とセレンディピティと最後の瞬間について。



 猫の神様というのは日本だと招き猫なんかが挙げられるけど、世界的に有名な猫神はエジプトのネコ女神バステトだったりする

古代エジプトの猫崇拝


 これはネコがネズミをとってくれる益獣だったことに由来する。特にエジプトのような過酷な土地では「作物は人の命よりも重い」という認識があって、作物を荒らすネズミの害獣は忌み嫌われていた。

 ネズミは伝染病も運んでくるしね。


 ネコはもっとも効率よくネズミを捕ってくれるハンターだし、家畜化することも可能。そういうわけで世界最初のイエネコはエジプト起源であり、そこから「ネコを飼う」という習慣が広がって行ったらしい。


 そういうわけでネズミ対策が発達してないころはネコは人間の暮らし(財産)を守るために本当に必要な動物だったわけで、各地域で大切にされてたんだけど

 「ネコを神様にする」という地域はエジプトぐらいしかない。(というか少なくともぼくは知らない)



 この理由は上述したように「過酷な地域」ということもあったのだろうけど、「獣を神にする」ということにそれほど違和感がなかった土地だったからかなぁ、とかなんとなく思ったり。

 死を司る神(アヌビス)は犬だし、月と太陽と天空を統べる神(ホルス)はフクロウ(ハヤブサ?)だし..。

ChaosPanic-エジプトの神々



 エジプトでは智慧の神はフクロウじゃないのか..。(ちょい「へぇー」)


 そういえば智慧の神ってなんでフクロウなんだろう?

 「ミネルヴァの梟は夜羽ばたく」とかなんとか...


 「夜のほうがお勉強しやすい」とかそんなのだろうか?



 あまり関係ないけど、インドのポスト中流(下層中流から上層中流に上がろうとしている)人々は夕方6時ぐらいから八時間労働して、昼に専門的な教育を受けるのがふつーなんだそうです。

 夜は電話オペレーターみたいな仕事をして外国人(アメリカ人)の相手をしてそれから昼もお勉強、と。


 この人たちの場合、梟は昼に羽ばたくのかなぁ..。






 セレンディピティについて。


以前に書いた日記の通り


「奇跡に遭遇する能力」って感じのもの

 あるいは「おもろいこと」でもいい。



 猫の神様の場合はどうか..?



 上述してきたように、猫の神様というのは元々「倉庫の番人」が転じて「財の守護者」という性格が与えられているように思う。

 なので日本の場合「招き猫」って造形(icon)がされているのだろう。



 東良さんの出会ったのが、ほんとうに猫の神様の使いであったのなら、東良さんにはこれから幸運が訪れるのかもしれない。

(そしてそういった幸運(奇跡)をつかめるかどうかは本人のアンテナ次第、と)



 と、同時に「猫」と「死」、「猫」と「冥界」との関連でちょこちょこと思うことがあったり...。


 ひとつは「銀河鉄道の夜」、もうひとつは「因幡山」。


 「銀河鉄道の夜」はいわずと知れた宮沢賢治の猫鉄道物語なわけだけど、物語的には冥界への旅を意味している。

 そこでは、ジョバンニは親友のカンパネルラと一緒に冥界旅行に旅立つわけだけど途中で追い返されてしまう。


「きみはまだやることがあるだろう..?」


って。



 基本的な構造としてはヨモツヒラサカからのイザナミ奪還物語と同じなわけだけど、こちらの物語にはなにかさわやかさのようなものを感じる。それはなぜか?


 おそらく「銀河鉄道の夜」は死への旅であると同時にジョバンニの内面へと深く降りていく物語でもあったからだろう。


 列車の車窓から見えていた風景はジョバンニの心象であり、ジョバンニの潜在意識を通して見た世界(あるいは生命と死、人生)の投影だったのだろう。


 いじめられっ子のジョバンニ少年(宮沢少年?)が自らの立ち位置を振り返るために見た白昼夢のようなもの。


 それを通じて少年は深い内省を試み、世界と(自らの内に閉じられた)セカイとの接点を見出していく。


 その意味でこの物語は死と再生の物語とも言える。




 東良さんの体験もそれに少し似ているように思う。



 自らの心をギリギリまで追い詰めることを通じて、自分と猫(外界の世界)との関係を再確認し、最終的には世界とセカイを融和させている。


 東良さんはこの本を「私小説の形式をとった」とおっしゃっていたがおそらくは限りなくノンフィクション的な緊張をはらんだつくりになっているのだろう。

 そうしないとみャ太に申し訳ないので。


 それによって主観と客観の間に架け橋がかかる。

 それこそセカイと世界を繋ぐための形式と言ってもいいかもしれない。




 最後に現れた太った猫はその架け橋を通って来たのかも。





 そして因幡山。




たちわかれ いなばの山の峰に生ふる

松とし聞かば 今帰り来む







 因幡山は鳥取にあるそうだ


百人一首ゆかりの地:鳥取県

稲葉山は国府跡から約2kmの位置にある標高249mの山。山麓には130基あまりの古墳がある。

宇部神社の背後に見える。

* 【所在地】鳥取県国府町
* 【アクセス】JR山陰本線「鳥取」駅下車、「中河原・栃本方面」行きバスで15分、「宮ノ下」下車




 歌的には「別れを惜しむ」(「あなたを待つ」)という歌なわけだけど、もうひとつの意味があるらしい




もっけ(勿怪) 3 (3)
もっけ(勿怪) 3 (3)
posted with amazlet on 07.06.15
熊倉 隆敏
講談社 (2004/03/23)




によると、猫は御山に修行や奉公をしに行くことがあるらしい。その奉公を終えると霊性(霊格)が高まり仲間内での位が上がる。

 因幡(稲葉)山もそんな山の一つ、と。



(ネコが時々いなくなるのはこれと関連しているとか何とか)




 と、同時に因幡山は「去なば山」でもあるらしい


 「去(い)ぬ」 =「その場所から去る」=「(どこかへ)行く」


 去ぬるための場が「山」である、と。



 「去ぬる」とはどういうことなのか?



 端的に言えば「人の前から姿を消す」(= 死んで存在を亡くす)ということだろう



 「ネコは死ぬ姿を人に見せない」とも言われるけど、山というのはそういう場所なのかもしれない。

(民俗学的には山は異界への入り口だったっけ?)




 「もっけ」でもその辺りのことが描かれていて、「山(あるいはネコの集会所)はネコの癒しの場所であると同時に、人間にとっての異界を表す」、と示されていた。


 そこでのネコはいつも見るネコとは違った、自分達の知らないネコなのだろう。


というより、


 自分達の知っているネコとはなんだったか?、ということが改めて問われる。



(東良さんも書かれていたが)ネコがほんとになにを考えているのかなんか分からないので。そういう意味では永遠の他者といってもいいのかもしれない。



(犬よりもネコのほうが「人になつかない」=「なに考えてんだか分からない」=「他者」性が強いように思う)






 そういえば「もっけ」にも東良さんのところででてきたようなやけに大きなネコが出てきた。


 東良さんが見たのはほんとに異界との通信使のような存在だったのかもしれない。





あと蛇足的に


 日本においてネコ神さまと言えばこれがありますね

セブンアンドワイ - 本 - ねこ神さま   1


 ねこぢるさんは残念だったけれど、もしかしたら異界に旅立った(ずれた)だけで、けっこう面白おかしく暮らしているのかもしれない。(@因幡山)



タグ:ネコ
posted by m_um_u at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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