以下、特に時限系エントリで気になっているものを中心にご紹介です。
まずはこれから
Same Shit Different Day - 『大相撲ダイジェスト』は遠い昔
某業界では枕投げがはやっていたようですが、こちらでは札束投げというか、札束に釣られてお相撲さんが舞い踊るというか..。(宝生舞?)
てか、上手出し投げならぬモロ出しって感じですね。
具体的にはリンク先で見て(聴いて)いただくとして、
気配が危うくなったら、エントリーごと消す予定。
とのことですので、「ご利用はお早めに!」
内容としては「もってけ!セーラー服」ならぬ「もってけ! 化粧廻し」って感じです。
そういうわけで上記のエントリについてはこちらをテーマ音楽としてお送りします
てきとーに力士編に脳内変換してお楽しみください (ちょうど4力士いるし)
次に、同じく時限系で
以前お伝えした東良さんの新潮社blog「猫の神様」が明日で終了とのこと。んで、終了を前にこんなエントリをアップされていて気になりました。
奇跡の猫|猫の神様
内容としてはみャ太との最後の日々について。そして、その瞬間を迎えたときの心象などを中心にお話されています。
ネコ人間としては共感するところの多い内容なんですが、中でも気になったのは後段の記述。
みャ太を看取って呆然としていた東良さんのところにそれまで見たこともないような巨大なネコが現れ、なにげにひざの上に乗った、というところ。
東良さんはそれまでみャ太をあんなにも苦しめた猫の神様を恨んでいたらしいのですが、この猫が現れひざの上に乗ったときに「これは神様の使いなんじゃないか..?」と思ったのだそうです。
そして僕は思ったのです。この猫は、猫の神様のもとへと続く、天国への階段の門番なのだ。そして猫の神様の使いなのだと。だから、恨み呪い続けた僕を、猫の神様は赦してくださったのかもしれない──と。
これはともすると荒唐無稽な過剰なセンチメンタリズムのように受け取られるかもしれませんが、こういう奇跡はありえるのではないかと思います。
...なんというか....人にはそれぞれ奇跡のような瞬間があって...そういものは他人に話しても荒唐無稽だったり、「よくあることよ(あなたの思い込み)」、とか言われるかもしれないんだけど、そういった奇跡を奇跡と感じられるからこそ奇跡が近づいてきてくれるというようなことがあるように思うのです。
そしてそれは「神のご利益」とかそういった類のものではなく、人それぞれになにかじんわりとした意味をもたらしてくれるというか...
大げさに言えば、「世界はまだ閉じられていないんだ」、と思わせてくれるような..そんな体験のように思います。
そして、ネコはそれを感じ取れる生き物のように思う。不思議とネコはそういう場面に居合わせてくれるので。
...なんか長くなりそうなので次のエントリに移ります。こちらも時限もの
kikulog: 敵の敵が味方とは限らない
『「敵味方概念」にとらわれると、冷静な議論ができなくなります』ということでいろいろと思い当たる節が多い人もいるのではないでしょうか?(自分も含めて)
「敵の敵は味方」と思いこむのか、ニセ科学を擁護するために「もっとニセなもの」を仲間にしようとする人がいます。だから「敵味方概念」にとらわれてはだめなんですが、とにかく、それは自分の主張の信憑性を「弱める」効果しかありません。たとえば、菊池を批判しているからといって、あの人のサイトなんかを肯定的に引用するのは戦略的に損だと思います。
二分法ではだめですよね。「敵の敵だけど、自分にとってもやっぱり敵」ということなどいくらでもあるわけです。
「一緒になって石を投げるな」というか「一緒になって石を投げてるからといって信用するな」というか...
てか、それ以前に
「多数派的な動員を得られるからといって違和感を感じる言説に自らを落とし込むのは却って不利だよ」、ってことですよね。
これは科学的な議論..というか、議論そのものの前提条件のように思います。
「人格や経歴、集団を問わずにその人のその時点での論理に対して論理を闘わす(応えていく)」ということですね。
そういえばもうちょっとしたら福耳さんところでもなんか議論が始まりそうですね。
福耳コラム - fromdusktildawnさんとの対論
中心的な議題としては、「経営学は後付けの学問ではないのか?」、ということで経営学のみならず学問(学術)全体に共通する課題のように思います。
関連としてこの辺とか
『街場の中国論』を読む。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)
「専門知があったとしてもすべてを見通せるわけではない。むしろ分かるところと分からないところを判別できるようになるところにこそ専門知の意義がある (その意味では「ない」を知ることが重要)」、という感じのエントリ。ソクラテスっぽいですね
で、対戦相手のfromdusktildawnさんは今週末あたりのエントリに向けて力をためている、ってことなのかな? (「ふろむだすくてぃるどーんはちからをためている」)
どちらにせよ興味深い議論なので見守っていこうか、と。
その際、前述したように「どちらかの敵・味方」という視点・立場ではなく、議論を冷静に見つめ、その有効性を自分なりに吸収できるように努めたいと思います。
ってか、なにか興味があったら合いの手入れるかもしれないけど、その際に「どちらかの味方」って形にならないように気をつけたい。
そんなことを思います。
んで、ギロンといえば.....はてなの某所でもなにか論争っぽいものが沸きあがってるみたいですね。
詳しくは触れませんが、関連でyomoyomoさんがこんなエントリあげててちょっと気になりました。
YAMDAS現更新履歴 - ブロガーの行動規範、はやはり無理なのだろうか
例の「bloggerの行動規範」関連ということですが..
これらの前段階としてblogosphereとpublic sphereの関係があるように思います。
以前にも少し触れましたが、blogosphereという考え方は元々はハーバーマスに代表されるpublic sphereの考えからきているものです。
代表的テキストの場所はちょっといま失念してますが(※必要があれば検索します。ログはとってあるので)
アメリカの批判理論系の研究者(もしくは院生)がblogの意義を考える際にハーバーマスの概念を援用したんですね。
「blogは現代の公共圏(public sphere)だからそれに見合ったルールを採用してギロンやコミュニケーションを深めていく必要がある」、って感じで。
なので「ブロガーの行動規範」として上げられているものもそれに準じているように思います。
「そんなの学術の話で一般人のblog倫理綱領はそれとは独立に立てられたもの」と思われるかもしれませんが、学術的に通底するパラダイムは知らない間に一般社会にも浸透している、ということがけっこうあるんですね。
学術というのはArtの一種なわけでArtistというのは社会のアンテナなわけです。そういう意味では学術的な場で社会全体のパラダイムを感じ取って表出するということはけっこうあるわけですね。んで、それが再帰的に社会に還元されていくというか...あるいは「学術」という場を介さずにパラダイム(あるいはそれ以前の時代精神のようなもの)だけが浸透していくというか...そういうことはよくあります。
んで、今回のblogger倫理綱領ですが、この辺の話は学術的にはだいぶ前に通り過ぎてます。((C)烈海王@バキ)
で、その内容についてですが
公共圏でのコミュニケーションにおける基本原則は、「独立した市民同士の自由で偏見のない対話」、って感じです。
「そこでは身分・階層・宗教・人種(...etc)などといった区別はなく、誰でもギロンに参加できる」、というもの。
その際、ハーバーマスが基本としたのは、「コミュニケーション的合理性」、という価値でした。
コミュニケーション的合理性とは、「誰でもコミュニケーションを通じて分かり合いたいという欲求を持っている。そういう価値に向かって理性を働かせていく志向性がある」、とする考え方です。
しかし、現時点でyomoyomoさんやはてなの皆さんが困っているのはそういうことではないですよね?
「誰でも"分かり合いたい”ということが一義的な価値にくるとは限らないのではないか..?」
皆さんはそのように思っておられるはずです。
ぼくも以前そのように思って、ハーバーマスの考え方とは距離をとるようになりました。
なんというか......コミュニケーション的合理性という考え方は他者を前提としてないんですよね。
人文系の用語で「他者」とは、「それぞれに違う価値観がある(誰もンが分かり合えているようで最後の最後では分かり合えない)」、とするような考え方です。
ただし、「分かり合えない」ということを前提とすることで却って他者を尊重するということになります。
どういうことかというと、「他人も自分と同じ(≠自分の考え・価値を分かれ!)」という考え方はけっきょくは「自分」を「他人」に押し付けて、世界を自分で染めていくという考え方ですよね?
それに対して「他者」を前提とする場合は、「他人は自分とは違う」ということを前提としているので、どんなに仲良くなろうとも最後の一線のところで「他者性」を意識して不躾な踏み込みはしないのです。
で、そういった距離感を保ちつつ相手と自分と共通する部分を探しだし、その部分を中心に情報を交換していく。
これが「他者性」を前提としたコミュニケーションのように思います。
その際、重要なのが共通のインタフェースということになります。あるいはプロトコルと言ってもいい。そういう共通して交換可能なものがなければコミュニケーション(言語的交換関係)は成り立ちませんよね?
ぼくの場合はこういったプロトコルのひとつに「礼儀」というものが入るように思います。
この辺りでリンク先のyomoyomoさんの課題(ブロガーの規範)とギロンが被ってくるわけです。
ついでに言えば「礼儀」とはお上品なtipsであるだけではなく、セキュリティにも関係してくるように思います。
この辺りのことは既に別稿でまとめてあるので後でアップ(リンク)します。
加えて言うなら、「ギロンで発せられた言説はその時点での論理のみによって判断されるべき」という基本原則について、個人的には少し違和感があります。もちろん論理の正当性自体から言説の有効性を測るつもりはあるのですが、やはり無礼な人に対しては「無礼な人なんだな」という目を持ってしまうのは当たり前のことのように思います。
(※他人に対しても自分に対しても無礼な行為・言動をする人は嫌いです)
論理性自体は尊重するようにしますが、そんな感じで一定の警戒が発生してしまうのは仕方のないことなのではないでしょうか? 簡単に言えば、無礼な行為をする人が自らのハードルを高めに設定している、ということですね。本人が「ハードル高めでいい」といっているのだからハードル高めでよいのではないでしょうか?
つまり、その人の論理に対してある程度厳しい視線を持ってしまうのは仕方のないことだと思います。
それとは別に個人的課題として、
そういった他者性を前提としてある程度の距離を保ちつつ、ある一定の関係性を深めていくにはどうしたらよいのか..この辺がぼくの課題のひとつです。
具体的に言えばこの辺ですが
まなざしの快楽 - なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか
この人のエントリ内容は「ある一定の距離感を保つ」という前提があるのは分かるんですが、そこからの踏み込みが感じられません。
次の次のエントリでは同じ題材を扱った小田センセのエントリと比較しながら、その辺りのこと(他者と関係の間)について考えてみたいと思います。


