2016年12月17日

「ドッグヴィル」/「マンダレイ」



『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -
『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -


ドッグヴィル - Wikipedia

舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。
そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの奉仕と引き換えに彼女をかくまうことを提案する。
グレースは受け入れてもらうために必死で努力し、いつの日か町の人と心が通うようになる。しかし、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌していく。


作品の内容自体は鶴の恩返しとかその他の教訓的昔話にも似てる。

「平凡で刺激のない村にある日うつくしい娘があらわれた。村人たちは最初、娘を受け入れがたくしていたが次第にココロを開いていく。娘を受け容れるなかで平凡な生活の中で気づかなかった楽しみにも気付かされていく。そこで終わっておけばよかったのに村人たちは次第に娘に甘えエゴや欲望を押し付けていく。そのエゴと欲望の罪から目を背けるため罪を娘になすりつけ己の罪を見ないようにする(『あの女が誘惑したんだ!』『あの女が悪いんだからひどい目にあって当然だ』『ひどい目ではなくこの女には当然のことなのだ』)。娘はそんな村人のひどい仕打ちにも耐え忍んでいたが、娘を陥れようと村人たちが仕組んだ罠が却って村人たちに最後の裁きを下すことになる。村人たちは自ら最悪の裁きを招き入れる。娘は赦すつもりでいたのに」

村人目線で見るとこういった昔話的な教訓話になる。でもこの物語は主人公グレースの、あるいはトリアーの描いてきた聖女たちの物語となる。汚れ、寡黙に耐え忍ぶだけの聖女たちの。

以前にダンサー・イン・ザ・ダークの感想で「彼女はある意味独善的だ」「自分に酔っているだけだ」というようなことをいったようにおもう。


それと同じようなことがこのドッグヴィルの最後の対話でも指摘される。

グレースは強力なギャングのボスの娘で、彼女は父の汚い仕事を継ぐのを拒否してそこから逃げてきたのだった。ギャングのボスはグレースと車の中で話し、他人が自分と同等の道徳的水準にないと考える (さらに、本来人は自分行為について説明責任がある (accountable) が、グレースが住人に説明の機会も与えず許そうとしていることについて) グレースを傲慢だとした。グレースは最初父親の言うことを聞こうとしなかったが、いったん車を離れ町や住人の様子を見ながら熟考した末、父の考えに同意して「もし住人達が自分自身と同じくらい道徳的だったならば住人達を非難して重い罰を与えなければならないだろう、そうしないのは独善的で偽善的である」と考えた。グレースが町を破壊するこの決断に至ったのは最後にトムと交わした会話による。トムはギャングが町に対して行うことそのものについては恐れているが、自分のやったことに自責の念や後悔はないと言い、トムがグレースを裏切ったことで互いに人間の性質について多くのことを学べたと発言した。グレースは父の娘としての役割を受け入れ、町を消し去るよう命令する。



彼女たちの行い、全ての罪を自らが被り贖うという行為はたしかに尊いし立派ではあるのだけどそれを誰にも説明せず行ってるうちは単なる自己陶酔にすぎない、し、誰も彼女たちと対等のものとして認めてないということになる。

グレースの選択は住民たちを彼女たちと対等のものと認めることを通じて、「であるならば」対等に同じ罪を贖わせなければならない、という苦渋の決断だった。ギャングたちによって殺され火を点けられた村は彼女の幼い正義の象徴だったといえる。それに火をつけ決別したことで彼女はヒキコモリ的正義から正しさを世に試し、それによって傷つくことを受け入れていく。傷つき成長していくことを。

ただ、最後の決断に対して、その正義の判定が甚だ一方的であるという点で疑問は残るのだけど。まあそのことについても続編を通じて自省と自己批判の材料となっていくのだろう。




マンダレイ - Wikipedia
舞台は1933年のアラバマ州、南北戦争と奴隷解放宣言からおよそ70年。縄張りを失って旅をしていたグレース(ハワード)たちギャング団は大農場マンダレイの前で黒人の女に呼び止められる。そこでは依然として奴隷制度同様の搾取が横行し、今まさに「使用人」の一人ティモシー(バンコレ)がむち打たれようとしていた。グレースが銃の力で割り込むと農場の女主人(バコール)は息絶えてしまう。命令するものを失って途方にくれる黒人の使用人たちをみてグレースは、マンダレイを民主的で自由な共同体につくりかえる決心をする。



前作で父の権力(暴力による己の正しさの行使)と同じものを自身も実行してしまったグレースはその後、ふたたび父への反発をつのらせていたところで南部のしみったれた街マンダレイにたどり着いた。
そこでグレースは未だに奴隷制度がつづいている街の様子を見て止めに入る。ギャングの暴力≒父の権力によって。

その後、かつての女主人を失った奴隷たちが奴隷としては開放されつつも極めて不利な条件で労働契約をさせられそうなのを見て間に入る。「このままだと実質的には奴隷と同じだ」。グレースは逆にギャングの法律顧問を使うことで契約書を作り直し街の白人たちと黒人たちの立場を同じようなものとする。
そこで黒人たちはいちおう自由とはなったものの自由を継続するための仕事≒収入が安定しない。その安定が確立するまでグレースはとどまりともに働きつつ彼らを支えていこうとする。彼らに共同体の民主的運営、民主主義を教えつつ。

これがうまくいっていたらヴェイユの工場日記みたいな感じだったのだろう。「理想をいうだけではなく下層労働者とともに働き、リアルを実感しつつともに戦い、なんだったら改善策を練っていく」。
とはいっても結果的にそうはならなかったのだけど。工場日記もそういう内容でもなかった。

ネタバレしてもよいだろうからネタバレしちゃうけど、収穫が終わり換金したところで悲劇が起こる。

グレースはだんだんと街の暮らしにも慣れていっていたが長い共同生活の中で自身の女の疼きを持て余すようになっていた。そんな中で共同体の中でも「誇り高い黒人」として種別され、一匹狼的な側面とともにある種の知性と誇りをにおわせていたティモシーを気にするように。
収穫の後、女主人の役割を解かれたグレースをティモシーは誘い、グレースもそれを受け容れる。「女は裸にされて横たわらされ目隠しをされ男が一方的につらぬくのに身を任せなければならない」という交わりは伝統に則った直接的なもので情を交えるというものでもなかったのだけど、むしろそれはグレースが望んだものだった。否定していた父の権力観、主と奴隷的な生活のなかで黒人の異性にかしずかれ性的な愛撫もサービスされることを妄想してしまっていたグレース。ティモシーによる一方的なセックスはそういったものとは真逆といえるけれど、「奴隷に襲われた女主人」的な妄想と欲望を満足させるものとなったのだろう。とりあえずその交わりはグレースの満足の行くものだった。
その後、悲劇が起こる。

目覚めてみると村人の一部が殺され収穫金が奪われていた。「ギャングが戻ってきて襲って盗んだんだ」と残っていた黒人はいう。しかし目撃したわけではないらしい。
呆然としていたグレースに白人の男が近寄ってくる。かつてグレースに唾棄すべき取引を持ちかけた男だ。「解放奴隷は解放した体でパンと娯楽を与え、娯楽≒ギャンブルを通じて有り金を巻き上げてしまえばいい。そうすれば実質は奴隷と変わらない。わたしだったらうまくやれる。わたしは二割でいい。八割の儲けをあなたに渡そう」。そのとき嫌悪をしめして突っぱねた男が戻ってきて言う。「これはあなたの分だ。約束していた8割だ」。訝るグレースに男は続ける。「ティモシーとかいう黒人から巻き上げたのだよ」
ここでグレースの世界が歪む。

ある程度信頼し身体を預けた相手が、共同体の中で一目置いていた相手が、、よりによって、、


ティモシーは「誇り高い黒人」ではなかったのか?


グレースは室へ戻って前の女主人が残していた秘密のノート、黒人の等級・区分けに示されていた内容を調べる。

誇り高い黒人、おどける黒人、暴力的な黒人、臆病な黒人、、

いくつかの性格付けごとに属性され7つのグループに分類されたそれ。



ティモシーは1の「誇り高い黒人」ではなかったか?



1だと思っていた数字はよくよくみてみると7で「ずる賢い黒人」だった。


「人をこのように属性分けしそれに従って管理するなんて(政治的に正しくない)」

そのように思っていた忌まわしい書の内容の通りになったのだ。

後の会合でこの書は前の主人がつくったものではなく主人に仕えていた老黒人が作ったものとわかる。

彼らは、無理やり奴隷制度に従わされていた、のではなく、彼らのうちの数人が自らこのような管理体制を望み象徴として女主人をたてていた、のだ。女主人がそのような制度の憎しみを一手に引き受けおさめることで共同体の平衡を保っていた。

グレースはそのような女主人の代わりと勤めるように要請される。真実を知ったグレースは北へと逃れる。




今作でははっきりと「政治的ただしさ(ポリティカル・コレクトネス)」という用語が出てきてこのシリーズがそれをめぐる作品であることがわかる。
正義やPCを尊ぶ純真な乙女が現実に直面しだんだんと薄汚れていく物語。あるいはそのなかで鍛えられナニモノかになっていく、のか。

ふつーの道徳おとぎ話だったら「解放奴隷とともに手を携えることで彼らの自立をたすけましたとさ(チャンチャン♪)」で終わって良いところを皮肉で露悪な内容に仕上げている。
作品の最後の「アメリカに対して黒人たちは不平を言うがこんなにも自由を与えてるんだぜ?」(そこからEDの「young america」という脳天気な曲に合わせKKKが最初に出てくる)というのはそういった皮肉だろう。

「マンダレイ」を含め「ドッグヴィル」もトランプ当選後のアメリカに合わせてみると感慨がある。「マンダレイ」は黒人も含めた非白人層一般、「ドッグヴィル」のほうはアメリカの田舎の中・下流を想わせる。
「政治的正しさは彼らも平等にというがじっさいの彼らは怠惰で卑怯で村ごと消し炭にしてやりたいような存在だ。きみたちはその現実を見ていないからそのようなキレイゴトを言えるのではないか?現実を見、実際に体験してそれを言えるのか?」
それがこの一連の作品のじっさいの問いだろう。

そして、聖女が汚れたたきのめされつつもそれらを引き受けていけるかどうか。




posted by m_um_u at 07:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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