2016年12月17日

「メランコリア」 → 「土星の徴の下に」




少しまえにトリアーの「メランコリア」をみて感想なんかをnoteしてたのだけどそのリライト的にまとめてエントリしとこう。

メランコリア [Blu-ray] -
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メランコリア (映画) - Wikipedia

コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊すのみならず上司ジャックや、他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンをなじる姉クレアだったが、仕方なく夫のジョンや息子とともに彼女との生活を続ける。だが、ジャスティンの病状が穏やかになるとともに、地球に奇妙な周回軌道をとる惑星が接近する。彼女は周りの狼狽を意に介さず惑星の到来を朗らかに出迎えるのだった。


◆ 僕を哲学的に考えさせる映画:ラース・フォン・トリアーの〈メランコリア〉 - LIFE WITHOUT "THINKING" ・・・ IS BORING!
http://mythink.hatenablog.com/entry/2016/07/24/150418



巷で言われてるほどショッキングなものでもなくむしろ耽美的で落ち着いた感じだった。まあうつ病のひと的にはリアルに感じてなまじっかのショッキングな映像よりクるものがあるのかもだけど。

この映画の感想をざっと見たところやはり裸とかセックスシーンとかに目を引かれそのことについて言及せざるを得ない人たちがちらほら見当たるのだけどアレ自体はこの作品においてはそんなにショックな事でもないのだとおもう。あるいはトリアーのほかの作品においても。

「メランコリア」においては主演のキルスティン・ダンストが惑星の明かりの元で全裸になったり、披露宴当日に特に知らない冴えない男とセックスする(新郎やパーティを放ったらかして)。
これらはそれ単独だとショッキングなことだけどキルスティン・ダンストが演じるヒロインの心境を思うとそんなにたいしたことでもない。単に裸になったりセックス(粘膜接触・体液交換)したりってだけなので。
こういった行動に及ぶ背景にはヒロインの心がそれをせざるを得ない / してちょうどよいぐらいに壊れていて、その逃げ道として裸になったりセックスしたりするのがちょうどよかったのだろう。クソみたいな披露宴をなんとか( ^ω^ )ニコニコとこなしつつ、だんだんと「世間」が自分たちの都合を押し付けてくることに(#^ω^ )しつつもやりすごしていたのに身体とか自分の心の奥のほうが拒否反応を示しだして、最終的に「初夜の契」的なもので(表面的には紳士を装いつつも)性欲を押し付けてくる新郎に嫌気がさして身体がくそくらえな反応をする。その結果としての見ず知らずの冴えない男とのセックスで、そこに心は通ってない/単なるストレス解消の体液放出なので道具を使った自慰的になる。そこには理性的な判断とか理由とかは特になさそう。放尿と同じぐらいで。

そして、彼女の鬱的な心境は惑星の衝突 ≠ セカイノオワリによって救われていく。

それが鬱になった彼女の心の中の常態であったのでとくにアタフタもない。自分の心が死ぬ≠世界も終わっている=オワレバイイノニ、ぐらいだったので。かといって喜ぶでもない。ベストな選択でもないし。

問題はこういった心境、鬱的な心境が披露宴によってつくられたのか?ということだけど、どうも披露宴以前からこういう心境がつくられていたぽい。「彼女は仕事中毒だ」の言葉と広告業界という場。父親と母親の不仲とその影響としての愛の無い家庭環境の片鱗。そのへんでなんとなく慮れるけど、物語的な合理性からこの作品を説明・理解したい人にとってはそのあたりの細かい描写があったほうが分かりやすかったのだろう。物語的合理性から理解したい人たち ≠ たとえばセックスシーンとかにとらわれるような人たち。単に鬱の心象を描きたかったぽいトリアーとかにとっては蛇足で冗長的にはなるのだろうけど。

「冗長」ということでいえばこの映画全体が冗長ともいえる。本来ならオープニングの8分ぐらいの断片的な映像のコラージュによって終わっていて然るべきともいえる作品で、それを映画的な作品に仕上げるため≠ほかのひとにもある程度わかりやすく表現するために物語的なつなぎと因果関係が必要になった、程度だったのではないか。

鬱状態だったトリアーの見た、あるいは想像しアンシンした美しい画(夢)が冒頭8分の断片であとからそこに物語をつけて説明していっただけのような…。

あとは細々としたこと。

キルスティン・ダンストの鬱になったときの表情がそれっぽかったのだけど…?とおもっていたらユリイカの特集号で「自身も鬱を患った経験から」とあった。



ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー  『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -
ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -


たぶんタルコフスキーの「惑星ソラリス」の影響とかオマージュとかあるのだろうけどタルコフスキー作品は相変わらずわかりにくくよくわかってない。まあ「ソラリス」はこの機会に見てもいいかなと思うし、自分的にはトリアーから見たほうがわかりやすい(トリアーの関連作品が補助台になってる)ともいえるのかもだけど。そういえば惑星がいよいよ衝突寸前で瀟洒なお屋敷からお庭を眺めたときに馬が草を食んでいてという場面のシュールな静謐がなんとなくタルコフスキーの作品を想わせた。


メランコリア (映画) - Wikipedia

カンヌ国際映画祭における記者会見でラース・フォン・トリアーは本作におけるドイツのロマン主義芸術からの影響を話した後、「ヒトラーに共鳴する」などと発言したために反ユダヤとされた。カンヌ映画祭事務局側は事態を重く受け止め、「好ましからぬ人物」としてトリアーを追放した。出品された「メランコリア」は審査の対象から外されなかったものの、仮に授賞してもトリアー監督は出席できなくなった



この部分についてはユリイカの特集号にインタビューについての詳細が載っていた。

(ユリイカ、ラース・フォン・トリアー回より2011年のカンヌ映画祭での「メランコリア」上映後のトリアーへのインタビュー)
― 本作はドイツロマン主義に触発されたそうですが、あなたの中に流れるドイツ人の血とゴシック芸術との関連性について説明してもらえますか。デンマーク映画協会の資料によると、本作を作るにあたりナチスの美術論についても関心が生まれたそうですが、それについて説明してください


自分はずっとユダヤ人と思っていたし、それも下層階級のユダヤ人と思っていて、それに満足していた。ユダヤ人になりたかったんだ。ところが自分はナチスだと分かり(他界した母が、ジップはドイツ人だったと遺言した)、それもまた同様にうれしかった。ヒトラーを理解できると思ったんだ。たしかに彼は残虐なことをした。地下壕に座ってヒトラーが……(ここで、隣に座っていたキルスティンが、ラースに腕を回し発言を控えるように態度で合図する。戸惑うラース)……それで、彼を理解できる気持ちになった。彼は善人とはとても言えないが、少しだけシンパシーを感じるんだ。でも第二次大戦でやったことについてではないよ。それに僕はユダヤ人に反感はないし、スサンネ・ビアに対してだって……これも同様に冗談だけれど、ユダヤ人にはシンパシーを感じている。ただしイスラエルがやっていることについては同意しないけど。どうやったら僕はこの話題から抜け出ることができるんだろうか……。

話題を転換させようとしたが、あまりにも当惑し、最後「わかった、僕はナチスだ」と自爆した。会見の会場はリラックスした雰囲気で、笑いさえ漏れた。ところが――。

翌日の朝刊、特に本国デンマークの新聞やゴシップ誌から、辛辣な批判を受けることになった。19日の朝はその話で持ち切り。そんな状況のなかでこの囲み取材は行われた。内容的にも、一件について訊きたいデンマークの記者や、キリスト教の側面について訊きたい記者が他者に発言権を渡そうとせず、どうにも焦点が定まらない取材となった。さて、ラースの発言は更に波紋を呼び、結局カンヌ映画祭側は、周囲からの圧力もあったのだろうか、彼を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからぬ人物)」として映画祭永久追放という手段に出るに至った。ただ、主演キルスティン・ダンストが主演女優賞を獲得したのがせめてもの計らいか。この事件は以後のラースに暗雲のようについてまわり、2014年現在、彼はマスコミの取材を一切受けていない状況だ。







メランコリー+ロマン主義ということでベンヤミンとかソンタグとかをトリアーも参照して影響されたりしたのかな?とちょっとぐぐったけどそういうのはないみたいだった。まあこの機会だからついでにちょっとこれ読んどいてもいいかもしれない、とこの辺を読む。

土星の徴しの下に -
土星の徴しの下に -


自身もうつ病だったベンヤミンは生まれつきうつ病傾向のひとを「土星の徴をもつもの」といった。それはガレノスの四体液説に依る。

メランコリー - Wikipedia

現代の精神医学の用法では、「メランコリーの特徴を有する」うつ病という、うつ病の細分類であり、重症のものという意味合いが強い。それとも別に、近現代の精神医学では、主にドイツや日本にて、うつ病が起こりやすい性格としての、几帳面で良心的といった特徴を持つメランコリー親和型が関心を集め、テレンバッハがその著書『メランコリー』にて提起したが、1977年の日本の報告以来、うつ病像がそういった特徴を持たないものへと変化しており、日本の現代のうつ病論へとつながっている。

医学では古くはギリシャのヒポクラテスまでさかのぼるが、メランコリーは抑うつを示す状態でも特に重症のものを指してきた。四体液説における黒胆汁質のことを指し、「黒胆汁」という体液の多い人は憂鬱な気質になるとされた。



占星術にも絡んでいて黒胆汁のひと≠土星のひと、だったか。

昔の医療ではこの理論に基づき身体の不具合は「悪い血がたまってる」と考えられ瀉血(しゃけつ)を主としていた。いわゆる血抜き。血抜きでだいたい治るとされていた。外傷以外の病は。


四体液説 - Wikipedia

ギリシャ・ローマの医学では自然治癒を重視し、悪い体液を排出し自然治癒を促すために、刃物やヒルを使って悪い体液を排出する瀉血(刺絡とも)や、下剤、浄化剤、緩下剤、誘導剤を用いた。また、体液のバランスのために、食事療法や運動、入浴も重視された。「医術について」では、すべての人に当てはまる最高のバランスがあるわけではなく、人によってその体にふさわしいバランスがあり、また健康にいいものは状況・年齢などによって変わってくると説明される。例えば、体が運動を求めている時の休息、休むべき時の運動は健康的でははなく、同じことが飲食物や薬物に関しても言われた。


そういやメランコリアでも入浴シーンがなんどか出てきたけど、まああれは四体液説というよりは単に疲れたときに風呂入ってるぐらいがちょうどよいということだったのだろう。




タイトルにもなってるエッセイ「土星の徴のもとに」を読んでちょっと「メランコリア」の感想に付け加えたくなった。「土星の徴のもとに」はベンヤミンをはじめとした鬱傾向の人、土星の徴のもとに生まれた人たちについてのエッセイ。


映画の中で姉のクレアが鬱の妹に対して「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」みたいなこといっていたけどあれはこういった先天性・器質的鬱人間が鬱モードにはいったときの離人・非コミュ感に対する一般感覚なのだろうなあというかんじ。
土星の徴をもつ人間はなんとなく内向的になりがち+非人間的なものを蒐集するし編成・分類する傾向がある。そしてそれらがしばしば「仕事」に通じるとワーカホリック的な偏執性を帯びることがあるのだけど、それはその作業に逃避することで人間的コミュニケーションから逃避できるという裏返しにも思える。

「メランコリア」だと主人公がそんな感じで、壊れるまえまでワーカホリックになっていたのはそれによってわずらわしくわかりにくい人間的コミュニケーションから逃避できたからだろう。ふだんの仕事的な付き合いだと仮面(ペルソナ)をかぶってやり過ごせば良いわけだし。その意味だと「仕事が忙しすぎて壊れた」というのも一面的な見方だったといえる。ただしそういった表面的な付き合いもある程度すすむと深いものにならざるを得ず、その究極ともいえるものが結婚であり、結婚披露宴、そしてその日での破局というのは鬱的な土星人間が頑張って耐えて築いてきたものが一気に崩れ去る最高で最悪の舞台だったといえる。「土星的人間がもっとも衝撃を感じる場面」の表象という意味で「披露宴での破局」という場面が選ばれた、のかもしれない。

土星の徴をもって生まれた人間にとっては時間感覚が単なる束縛となっていくらしい。逆に空間に可能性を見出しそこに無限の寓意性と解釈の可能性を見いだす。近代的時間は現在から未来に向かっての単線という束縛を帯びるが空間は恣意的に無限の配置の可能性・自由度を残す。そのため他人からみて緩慢とも思える反応をし他人を苛立たせる(cf.「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」、披露宴で人をまたしておきながら風呂に入ってるというシンジラレナイ行為)。

それらは現代の一般的常識人からすればシンジラレナイ行為・行動なのだろうけど知的に先鋭化した土星人間たちが真実に対して誠実になってるだけとも言える。単線の時間概念は近代のフィクションにすぎないし、三次元を超えた時間と存在の感覚からすれば空間への配置の可能性は無限にある。そして彼らは「人に対しては不誠実」と思われてもモノやコト(あるいは超自然的法則)に対しては誠実に振る舞う。

ベンヤミンは現在の自分を見つめること、そこから語ることを不得意とし自身を語るときはむしろ少年期の自身の様々な徴候を現在に至る必然として語ることを好んだ(そこから「自身」を語った)らしい。近代的単線時間というフィクションに対して、記憶もフィクションの一部なわけだから「現在から未来」について考えるよりもすくなくとも「過去から現在」について語ったほうが誠実、ということだったのかもしれない。

ベンヤミンのテキストはちょっとした読んだことないけどこういった推理からするとたぶん彼のテキストというのは因果関係、論理がバラバラに配置された脈絡のないものになっていて、それぞれの単元ごとに論理が完結してはいるけれどそれを連続して読み解こうとすると読み解きにくいものになっているのだろう。たとえば「パサージュ論」のように。
なので、それらを通読してすぐに読める・理解できるものと思うのではなく、とりあえず全部読んでおいてしばらくしてなんとなく全体がつながるのを待つのが適当なのかもしれない。まあそれで理解できるのかもしれないし理解できないのかもしれないというところなのだけど。

(学位論文にしようとした「ドイツ悲劇の根源」だったか?は学位論文にしようとしたぐらいだからまともな単線論理で書かれてることを期待するのだけど。内容的にもロマン主義と悲劇のうんたらについて書かれているようで重要なので)










posted by m_um_u at 07:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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