2007年06月09日

信じるということ

Skepticism, like chastity, should not be relinquished too readily.
-- George Santayana



I don't want to sound Pollyannaish, but I hope that out of a tragedy like this something good will come. I hope we understand we're one family.
-- Madeleine Albright, Making Sense of the Unimaginable, O Magazine



Middle age is when your broad mind and narrow waist begin to change places.
-- E. Joseph Crossman




The best index to a person's character is
(a) how he treats people who can't do him any good, and
(b) how he treats people who can't fight back.
-- Abigail van Buren











「それでもまだ疑いの気持ちを持ってしまうの..?」


と純粋が問う。


「あなたにはもう焦りも劣等も、優越も気負いもなかったのではないの..?」




 

 そういった気持ちとは別に、人の気持ちに対する疑い..というか、人の気持ちを悪いほうに考えてしまう傾向がウザったい。

 以前はその気持ちに流されてしまっていたけれど、いまはそれを対象化して認識できる。...みょーな雑味というか、ベタっとしたもの、どんよりとした黒いものが心に貼りつくのがウザったい。

 

 けっきょくは人との関係なのだろう。そして、おそらくその疑念は半分正しい。

 対して人は、「人を疑うな」、という。でも、「疑い」ではなく「推測」でありその予想は大部分において正しいのだ..。それは単に警戒意識ということではないのか..?「疑うな」という人はぼくに人間の盾にでもなれというのだろうか?

 

 無神経という暴力。鈍感という暴力。そういったものに対して身を曝し、自分をささげるだけなんてことはぼくにはできない。生きるために、生き残るためにぼくは主張する。

 自分にとって違和を感じるもの、不快に感じることをできるだけ正しい言葉で説明し、相手との妥協点を探る。それ以前に、言葉すら通じない相手から身を守るために鎧を着る。(あるいは鎧を着ないという姿勢を見せることによってそれが鎧となる)

 

 でも、その鎧自体がぼくの気持ちを押しつぶしていくというようなことがあるのだろうか...。

 

 というよりも、単に距離をとればよいだけなのだろう...。それが歳を重ねるということなのだ。




muse-A-muse 2nd: ひぐちアサ、2001、「ヤサシイワタシ」




 「信じるということ」について、ひぐちはきわめて真摯に、懐疑的に取り組んでいる様子が伺える..。

 理由もなく、「ともかく人を信じなきゃダメだよ」、というのではなく、人を信じるということ、信じることができるようになるにはどのようなプロセス(きっかけ)が必要か、ということについてひぐちなりにいくつかの試行を繰り返している。


 それはおそらく単純な...とても単純なことなのだろう..



 手をつなぐということ、肌を重ねるということ、

 そういった単純な人の温もりのようなものを通じて、言葉以前のなにかを感じる..


..感じられるのかもしれない





 でも、それらもきっかけの一つに過ぎなくて、情況によっては響いてこないものなのかもしれない。


 たとえばガッコの教室で特に信頼感を寄せていない教師から、「やはりスキンシップが大事だよねー」、などといわれても白けるだけだ





 なので「おおきく振りかぶって」ではひとつひとつのきっかけについても「これが絶対」という形ではなく、試行の一つとして出してきているように思う。


 そして、絶対的な信頼を寄せられる大人の存在がそこにはある





 まだ序盤しか読んでいないので分からないけど、この「絶対的な信頼を吐き出してくれるなんでもボックスのような大人」という設定は後半にかけて崩れていくのだろうか..?

 「大人はなんでも知っている頼れる存在」ではなく「先生も悩みを抱えた一人の人間なんだ」って感じで


 それへの気づきによって信頼の伝播は変わってくるのだろうか





 「絶対的な信頼を寄せられる人」という立ち位置は宗教における神の位置に似ている。


 とすると、人は他者への信頼を保つために神をあがめようとするのかもしれない。


(「マジメにやりたいときにマジメな人が側にいると安心する」)







 でも、「おお振り」のそれは絶対的な正しさというのともまた違って、生徒達も一定の距離感をもって先生の言葉を聞いているみたいだけど。つまり、「この人のこの部分についての言葉は信頼に値する」、みたいな感じで。


 それは「聖職としての教師を神聖化する」というような信頼の過剰という形での依存ではなく、一人の人間として教師に接し、コミュニケーションをしていくという姿勢ともいえる。




 そういった形で、「神」的なものは人間化できるのだろうか




 そして、ぼくにはそういったものが必要なのだろうか..








 人ではなく、契約としてなら存在するけど

 それがなにか言葉を発してくれるというようなことはない




 でも、最終的に還る場所という気はする..。








 home.....か


 
 




posted by m_um_u at 06:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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