2007年06月08日

まれびと来たりて笛を吹く (多様性の可能性と限界)

 以下、まだよくわかんないけどいろんなことがリンクしてきたのでつれづれに。結論は出てないんだけど書きながら確認(思考)って感じで。


Lifeの「運動」の回の前半部(podcastの1, 2回)を聞いた


「運動」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 今回は例の外山恒一さんと高円寺三人デモで警官に「もっと真面目にやれ」と怒られた松本さんがゲスト。で、ゆるい運動(動員)について話されてた。

 「ゆるい運動」ってのは例のサウンドデモとか「オレのチャリンコ持ってくな」デモとかそんな感じのヤツ。


 コミットはするけどそんなに拘束しない感じの「ノリ」を重視するタイプのライトな運動(デモ)のこと。


 そういった運動の可能性と限界についての話だった。


 まず可能性について。質問を受けて外山さんが答えてて、(以下概略)

「従来のスタンダードな運動だとなんか重くなってしまってやってる本人が消耗してしまう問題がある。それに型にはめられているので“デモ”って言っても見てる人に伝わらなかったり..。なんか、“いまをガマンして将来楽しむ”タイプの運動は重い。それよりは“いま”を楽しんじゃおうほうがモチベーションも持続するのではないか」


..って感じだった。


 「型にはめられた運動」の例としては、リスナーの人からの投稿が分かりやすかった。「デモに参加しても警官隊の檻の中でなんだか囚人みたいにしてあるかされてるみたいだった」、と。これは外山さんも同意していて、「あちら側に声が伝わってるのかどうか分からない」、って言っておられた。


<既成の運動に見ている人になにかを感じさせるほどの力(動員力)はあるのか?>、という問題だろう。


 これに対して、「デモ自体を参加者自身が楽しむ」タイプの運動はそこで醸成されている楽しさ(ノリ)が観衆になにかを訴える可能性があるのではないか、ってことみたい。

 イメージとして、こんな感じだろうか..





(ちょっと違うと思うけど、縁起ものということで)



 以上がノリを重視した運動の可能性。そういうのは津田さんも同意してた。同時に、「そういった運動に有効性があるのか?(真摯に受け取られるのか? ネタとして受け取られて一過性のものとして終わるのではないか?)」という問題がある。

 端的に言えば、<なんらかのシステムを「潰せ!」と叫んだとして、alternativeな代案はあるのか?>、という問題。骨太な部分はあるのか?、と。


 この辺について、外山さんはやはり代案はないみたい。「代替システムはわからないけれど、とりあえずNOと言う」、って感じだった。




 まぁ、びみょーなところなわけだけれど


(そういえばishさんのところの「〜囲む会」でも似たようなことを言っておられたか..?)


外山恒一さんと会う




 この、「とりあえずやってみる」というのはびみょーな感じではあるんだけど、関連でちょうど内田センセのところにこんなエントリが上がっていた。


国語教育について (内田樹の研究室)


 エントリの主旨としては、<昨今の「国語教育」に置いて、ある一定の意味を想定させて作文をさせるケースが多いが、それが却って作文をするものの自由な独創性や意欲を削いでいるのではないか? そもそも文章を書くという行為は「なにか特定の意味(書きたいこと)を文にする」という行為ではなく、「なんらかの型を使って書きながら意味を見出していくもの」ではないのか>、って感じ。

 つまり「エクリチュールの自由」ってやつだ。


 われわれの思考などというものは自由な発想という風に思われているものでも限界があって実は似たり寄ったりの思考をしていたりする。それでステレオタイプ的な発想の限界が出てくるわけだが、そういった限界を突破できるのは言語というツールに身を任せて思考をドライブさせたときだけなのではないか、という考え方。

 文学系、詩の意義なんかの文脈で語られる考え方だな。

 叙述的(コンスタティブ)ではなくパフォーマティブに意味を作り上げていく、って感じ。

muse-A-muse 2nd: ジョナサン・カラー (著), 荒木 映子 (翻訳), 富山 太佳夫 (翻訳) 、2003、「文学理論」  (前編)


 つまり、なにかを固める以前に対象に対して自らを投げ出す、と。



 ぼくはエクリを理由に思考を分散させすぎてわけのわかんないもの書かれるのはびみょーな感じがするけど...(「ポストモダン万歳!」って感じがするので)


 自由といってもどこかにルールは必要だろう。それがないと「美」など表れないのではないか?

 まぁ、白田さんと同じ考えなわけだけど

WIRED VISION / 白田秀彰の「網言録」 / 第三回 美と規範 I

WIRED VISION / 白田秀彰の「網言録」 / 第四回 美と規範 II


 この文脈での白田さんの主張としては、「古典的なものによって組み立てられたルールを基軸とすることによって美が生まれる」、って感じで同感。ここで注意してほしいのは「ルールを踏襲する」のではなく「基軸とする」としているところ。つまり、そのルールを意識しつつアレンジして新しい作風を作り上げる可能性はあるのだ。

 
 自由が濫立するポストモダン的なものに対するモダンの復権、って感じだろうか。



 以上を綜合しつつ外山さんのギロンに戻ると、「パフォーマティブに自らをその場に投げ出しつつもそこに美(快)を生じさせるには、一定の線引きが必要」、ってことになる。


 たとえば、いくら自分が楽しいからといって辺り一面破壊して回るデモとか、公衆の面前でデモ参加者同士が殴りあいのパフォーマンスを始めるデモなんかが観衆受けするとは思えない。(ってか、その前に警官隊に止められるだろうが..)


 なんらかの節度、それを守った上での新しい感覚の提示によって観衆をひきつけるような「なんかアレおもしろそうだからやってみたいなぁ」感が生まれる。


 その辺りについて、外山さん的にはどうなのかというと..


さておかれない冗談、外山恒一


..やはり、びみょーかな..


 このエントリ自体はishさんが外山さんに会う以前にネットで見られる彼の考えの片鱗を集めて、そこからプロファイルを行ったもの。なので、外山さん自身の考えとはまたちょっと違うかもしれないけど、ここで挙げられている考察を参考にすると、どうもやっぱびみょーな感じがする。


 「ルール(線引き)」の部分で弱さを感じるのだろうか..。



 しかし、外山さんも言うように、彼の役割は既存のシステムの破壊者であって創るものでないのかもしれない。それはシステムを分散させるものであり、収斂させるものではない。もしくは「まれびと」的に人をいざなうもの..か。(cf.ハーメルンの笛吹き)


福耳コラム - 文化英雄と地域


 「笛の音色にごたくはいらぬ」って感じだろうか。


 でも、福耳さんのところの文脈に従えば、やはり言葉であり論理は必要なわけだけど.

(って、文脈全然違う話なのでびみょーなのは分かってるけど、話を続けます)




 内田センセは「言葉より型によるパフォーマンス」と言い、白田さんは「やはりルール」という。そして、「まれびとにも言葉は必要」....?



 そういえば仲俣さんのところにもlifeの感想が上がってたな


【海難記】 Wrecked on the Sea:プロトコル的な「運動」は可能か〜昨日の「Life」に思う


 で、仲俣さん的にも「びみょー」って感じなんだけど


 その理由として、<外山さんのほうの思想的背景はステレオタイプ的(プログラム(綱領)型)に思う。それに対して松本さんのほうが型にはまってなくて可能性があるのではないか>、と。


 仲俣さんの場合はとりあえず既成システムの破壊に可能性を見るという感じか。(cf.「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか)



 既成システム(既得権益)の硬さに対する違和感、問題意識としては先日出てきた赤木さんのそれに通じるかもしれない。つまり、「比喩として“戦争”という言葉を用いて破局(カタストロフ)を望まざるを得ないほど追い込まれた情況にいる」、という認識。

 これは赤木さんだけではなくてこの辺りにも通じるみたい


切込隊長BLOG(ブログ): 平和の帰着点としての戦争



 かなりリアリストで保守っぽく見られる隊長でさえ、「破局が起こらないと変わらないかもねー」、と言っている。そして対話の相手のサヨクな人も。



 それほどまでに追い詰められた認識というのはどこから来るのかといえばまぁこういうことだけど、


muse-A-muse 2nd: 資源最適化としての格差社会と社会保障に関して



 資源が決定的に不足して、この先も増す見込みがない(減っていく可能性はある)状況に対して。そういった事態を実感をもって感じている人たちはなんとかして資源を最適化せざるを得ない、という問題意識があるのだろう。

 リストラの対象としては「弱者」がよく挙げられてこの辺のギロンはびみょーなんだけど、それと同時に現在の旧態依然とした談合システムもムダって感じで、むしろこの辺はサヨクもウヨクも「なんとかしなきゃねー」ってことでコンセンサスを得ているように思う。


 談合はときとして合理的なこともあるけれど、明らかにムダなボトルネックが生じていることが多いので。

 その部分は解決しないと、ますます資源が少なくなっていく....。





 以上のようなシビアな現実がある程度蓋然性をもった「決定された未来」であるのに対して

 「決定された未来」関連で斉藤佐々木敦さんがこんなことを言っていた(@life番外編)



 「ぼくは型にはまったものには可能性を感じない」(←ものすごく意訳)

 
 それで斉藤佐々木さんの活動の話とか、宮台さんと神成さんのこの本とかに話が繋がっていってた。


天才アーキテクト神成淳司氏との共著本『計算不可能性を設計する』まもなく上梓! - MIYADAI.com Blog


 この本自体はタイトル通りというか、タイトルに論理矛盾が生じているように見えるところが面白いのか。

 (まだ見てないが)おそらく、「システムに外部からの多様性を導入する際、バグも一緒に取り込んでしまう(玉石混交)ことに対して。玉の部分だけ取り込む方法はないか模索する」、という本(対談)だと思う。


 それをITのアーキテクチャ設計から考える、と。



 本エントリのここまでの流れに絡ませれば、「パフォーマティブな運動の中にルールを設定し美のみを抽出する」、という感じだろう。


 多様性の導入という問題意識に対して、斉藤佐々木さんは評価しつつもびみょーな感じだったけど。


 それは宮台さんのギロンが最近とみにエリート主義的になってきているように感じられることに因るらしい。

 つまり、「ついてこれるものだけついて来い」というか「官僚的なレイヤのギロンを狙う」、というか..。

 その辺で弱者が切り落とされていくのではないか、という不安があるみたい。


 弱者というか、旧来の人文・社会科学の対象である多様性(自由)が切り落とされていくのではないか、という問題意識だろう。



 これは確かに問題といえば問題なのだけれど、上述したように情況をある程度肌で感じている人からすると「現在はもうギリギリの状態にある」という切迫感があるからではないか..?


 そして、宮台さん自身の変化(政治的なるものへの積極性)にはこのエントリが関わるように思う。


単行本版から文庫版へのマホの成長:田口ランディ『オクターヴ』解説   - MIYADAI.com Blog


 どうやら宮台さんも社会規範(世間知)的なものと自分の世界観の齟齬に悩んでいた時期があったみたい。

 そんで、敢えて「どーでもいい対象」である性関連のフィールドに身を投じることによって、その裏にあるリアルなもの(ステレオタイプ的規範やルーティンを超えたもの)を見つけられることに期待した、と。


 んでも、それもあまりうまくいかなかったみたいで、鬱状態がしばらく続いてたんだそうな。


 そういう中、タイに行って、「自分なんかここではいつ死んでもおかしくないんだ」(自分はここでは名もなきクズみたいな存在だな)みたいなのを感じて逆に楽になったみたい。


 それはキケンといえばキケンなんだけどリアルな世界観だし、少なくともそこには欺瞞という形で隠された緩やかな死はないわけだから。そこに誠実さのようなものを感じたのだろうか?



 んで、そういう過程を通じて<覚醒>と

(「社会」(セカイ系的な狭い世界の倫理観)から「世界」へ)


 それを通じて一気に楽になったらしい




 で、現在は「世界」的なものへ積極的に発言されている。


 それは、なにか背負うものができたという責任(+自信)に関わるのかな、とかなんとか思いつつ、「発言(対象)の変化」に関して言うと、むしろこちらのほうがデフォルトって感じなのだろう。

 それはネオリベ的な切捨てとはまた違って、「より現実へのコミットを深めた結果」としてみたほうがいいように思う。


 それだけの切迫感があるのだろう。(資源の限界に対する切迫感)




 そういった社会批評の態度に関して、斉藤佐々木さんは「だったらもう自分が政治家になっちゃえばいいじゃん(なんて思う部分もあるんですね)」って言ってたけど、そういうこともあるのかなぁ、とかちょっと思ったり。


 でも、宮台さんが政治家って似合いそうにないな。やはり社会批評家は社会批評家ということでよいのではないだろうか..。


 




 だいたい以上が「多様性の導入」関連で気になること。



 まぁ、まとまりはないわけだけれど、





 社会における「鍵のかかった部屋」を開けるための鍵ってのはどこにあるのだろうな





 あるいは笛吹きがそこに誘ってくれるのだろうか..?

(ぼけっとしてると異人さんに連れて行かれるかも)
 
 


posted by m_um_u at 20:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
斎藤さんじゃなくて、佐々木敦さんですね
Posted by 地雷踏み at 2007年06月08日 23:18
あ、ほんとだ(こっぱずかしい)。ありがとうございます。修正しきました。

それにしても..なぜ「斉藤さん」なんて名前が出てきたんだろう....。
Posted by m_um_u at 2007年06月09日 04:03
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。