2007年06月07日

情報普及における2つの問題:情報の価値とはなにか?

 一つ前のエントリで「重要情報の普及」の問題についてちょっと考えましたが、関連で、情報の受け手側の問題についてつらつらと考えたり..。

 別件だけど、福耳さんのところで、「ゲートキーパー(あるいはファシリテーター?)を活かすも殺すも受け手側の柔軟さの問題」、って話が出てて、「けっきょく外部からの情報を聞き入れるかどうかは危機意識の問題なんですよ(人間追い詰められないと人の言葉は聞きません)」、ってコメントされてたんだけど、そうするとやはり受けて側に危機意識がないということなのかなぁ、とか。

 ってか、問題として2つあって


 1つは、「その情報自体にcriticalな意義があるかどうか (重要な案件かどうか)」、ってこと。

 「お金」とか「命」とか、あるいはその人のその時点での価値観に関連する情報でなければ人は重要とは思わないもんなぁ..。

 で、記事フォーマットにしやすい情報コンテンツの中で、ある程度普遍性があるのが以前にも出てきた3S(「Stock(お金)」, 「Sex(セックス)」, 「Sports(スポーツ)」)って感じなんですよね。

 最後の「Sports」のところは「娯楽」に置き換えてもいいけど。娯楽の中で一番「真実味がある」とされ消費の対象とされやすいのが「Sports」ということなので。

 そういう情報はblogに落とし込んでもアクセスあるわなぁ..。




 2つ目は情報の受け手の問題。

 「受け手側はその情報の真贋や重要度などを参照しようとしているのではなく、情報の発信元のプロパティ自体を消費の対象にしようとしているのではないか」、ということ。

 もうちょっと平たく言うと、「けっきょく情報ではなく肩書きを見てるんですか?」、って問題。

 この問題は福耳さんもちょっと気にされてた

非常勤ながら講師をはじめて「先生」などと呼ばれるようになって、院生時代より僕は急になにか発言に耳を貸されるようになった。むかしから親密だった人々はともかく、その他に少なくない企業人たちが、手のひらを返したように愛想が良くなり、「ミヤケセンセー」などといっては僕の主張を取り敢えずメモに書き留める人たちの率は上がった。しかしそれは、僕がむかしからずっと言っていたことで、ただ学生時代はちっとも興味をもたれなかった指摘を同じく講師になっても繰り返しているだけなのである。僕は唖然とする。むしろ理論的切れ味としては、変な社会的配慮などちっともしなかったむかしのほうが、よっぽど本質だけをついた話をして、変に留保をつけなかったからわかりやすかったろうに、あの頃は「まあ学生はわかっとらんな」とよく言われた。いや、いまと同じことを言ってたんですよ。

それではいま僕の言葉がメモされるようになったのも、やっぱり言葉の内容ではなく、僕がちょっと名刺に「講師(非常勤)」と刷れるようになったからであるだけではないのか。それならもう、名刺一枚何万円かで売って上げるから、勝手になんでも書いておけばいいよ。



 傍から見ているとそういうことを気にする福耳さんの繊細さに感じ入る....というか、「けっきょく私のことなんてみてないじゃない! 体が目当てなだけなのねっ!」。って言ってるじょしっこのようでちょっと萌え。

(※萌え変換的には「福耳さん」改め「ふくみちゃん」って感じ。特徴として:「耳がでかい(福耳!)」、「額の第三の目の位置にほくろがある」、「ちょっと天然パーマ」、「尊敬する人:安藤百福 (でもカップ麺はそんなに好きではない)」、イメージ画像


 さておき、相手が「先生」として相手してくれるというならそれでいいんじゃないでしょうか? まるで聞く耳もたないってよりはいいわけだし。 っつーかその辺のところは福耳さんが一番分かっていてその上でおっしゃってるんだろうけど。

 
で、


 そんな感じで世間ってやつは「肩書き(プロパティ)」を消費してるわけだけど情報の中身についてはそれほど検討してないように感じられるんですね。

 それは新聞のコンテンツについても言えて。消費者は新聞の記事を読んでいるのではなくて、新聞というメディアを消費しているのでしょう。あるいは「新聞を読む」という行為自体を消費しているといってもいいかもしれない。「行為自体の消費」はステータスとの関連で「見栄」ということにも通じます。

 「朝、朝食をとりながら新聞を読むお父さん」みたいなのを演じてるわけですね。そしてご近所的には「新聞をとっているまともな家庭」ってのを見せている。なので新聞の中身自体はそれほど重要ではない。(ここで宅配制度の重要性が絡んでくるわけですが、論点ずれるので置きます)



 例外は災害情報などの緊急性を要する情報ですね。これは情報自体をきちんと参照しようとする。


 これが悪いかといえばまたびみょーな問題で。読む人の時間(あるいは関心資源)は無限にあるわけではないのだから、「自分に有益な情報を出してくれそうに思われるところ」に関心を最適化するのは当たり前のように思います。

 具体的に言えばフィードリーダーなどに好きなサイトを登録してそこしか見ないとか、テレビの一定の番組を毎週見るとか。これは「その回の情報が満足に足るかどうか」ということ以前に、「前回面白かったから今回もおもしろいかもしれない」という期待が発生するからですね。(先有傾向) つまり経路依存性的なロックイン効果が発生する。

 それに対して、それ以外のチャネル(情報経路)を新たに開発する場合には不慣れな情報に脳みそを慣れさせなければならない(脳力を使わなければならない)のであって、これはけっこうめんどくさいです。つまりスイッチングコストってやつが発生するんですね。

 で、このコストに対してリターンが多いかどうかというところで乗り換えの意思決定がされる....ということになるわけだけれど、それ以外に「なんか今日は気分がいいからがんばってケータイ換えちゃおう」とかそんな感じのてきとーな要因(情動要因など)も関連してきます。



 なので一概に、「一つのとこしか読まない」、「セカイ系にとどまる」ってのを責めれない面もあるんですが、やはりヨユーのある人は多様性を吸収したほうが良いように思います。




 まぁ、そんな感じで



 「読んじゃいねぇ」ってことなんですが、こういうの見ていくとなんかぼくもプロパティでも出したくなりますね。ってか、ぼくのプロパティなんかたいしたことないしなぁ..。金蓮さんのご友人話じゃないけれど、看板にドンと「はーばーどめでぃあれびゅー」とか「ころんびあじゃーなりずむけんきゅー」とかつけてみたくなりますね。ディプロマ・ミルって感じで!

(「ミル」にかけて言えばそういう情報を見る人は「ディプロマ」とも呼べる...のか?)




 まぁ、そんなこんなで情報の受け手的問題はあると思うんです。




 っつーか、それ以前に、「てめぇの情報がどれほどのものなんだよ?」、的な疑念はあるかもしれませんね。


 右上自己紹介にも掲げているように、メディア系の得意な人って感じで(それ以外はともかく)メディア系の話題はそれなりの自信はあるんですがね。


....ふむ。 論より証拠というか、ちょっと簡単な実験をしてみましょうか。


 ちょうど良いサンプルがあったもので。


メディア・パブ: 新聞産業,全世界で見ると成長している


 日本のブロゴスフィアでそれなりのアクセス数を誇り、「海外メディア情報」では一目置かれている(と思われる)メディアパブさんです。


 この記事については梅田望夫さんもぶくまされてますね。


# 2007年06月06日 umedamochio umedamochio Media



 で、この記事ですが、


 びみょーというかアウトっぽいです。



 海外メディア情報をチェックしてる人なら分かると思うけど、WANというのはけっこうこういうデマ飛ばすんですね。

 そして後で詳しく述べますが、この発表に対する批判、問題点を挙げている記事も出ている。(「それってインドと中国だけの話でしょ?」ってやつ)

 メディアパブさんについて、最近ではあともう一個ぐらいびみょーなことがあったかな



 って、もちろんメディアパブさんご自身も「これが絶対に正しい」ということでこの情報を出しているのではなく、「こういう情報もあったよ」程度なのでしょうけど。(そして梅田さんも「こういう見方もあるかも」程度ですべて信じてるわけではないのでしょうが)


 

 でも、やっぱびみょーです。




 んで、これについて、あとでまとめてTB打ってみます。




 情報の質、というか多角的な視点に関して言えば、おそらくぼくのエントリのほうが優れたものになるでしょう。


 それでも読者の関心はこちらには向かないでしょうね。(時機を逸したというのもあるのだろうけど)




 言論の意味、情報の信頼性について言えば、本来ならプロパティではなく情報の質や量、あるいは思考の論理性から検討されるべきなのに、その部分はショートカットされてしまっている現状が如実に表れることでしょう。


 情報の信頼性については「blogと既存メディアの情報のどちらが信頼に足るか」みたいなギロンにも接続できます。



 まぁ、とりあえず、あとで実験してみますね (はぁと) 



 では、再見!




--
あと、追記的に


そんな感じで日本の新聞は「中身がないものを売っている」わけだから、一番苦労されてるのは営業の人でしょうね。(Amazon.レビューにもあったように)


んで、「中身がないものを売る」技術こそマーケティングであり、文化的装飾ってやつではないでしょうか?


(それ以外にも「モノの機能性の自体のすばらしさを伝える」ってのもあるだろうけど)
 
 

あと、補足的に。


「けっきょく情報を見てるんじゃなくて、経歴やブランドなどを消費している」、ということについて。

これをして「だからblogでがんばってもムダ」的なシニシズムを気取りたいわけではなくむしろ逆です。


こういった現状があるということを念頭に置いた上で、一つ前のエントリでも考えたように「玉」的情報が継続的に提示・参照される場(仕組み)を作るにはどうしたらよいのか、ということを考える必要がある、ということです。










posted by m_um_u at 07:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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