2016年05月21日

漂白される社会





漂白される社会 -
漂白される社会 -





読み始めたばっかのときに「とりあえず共感するところ / 自分の問題意識的に重なるところがあったのでその引用をメインとしてメモ的にエントリしとこう」と思ってつくっておいた草稿。

もう読み終わったのでなんか付け足してエントリにしても良いのだけど、これはこれでこのままで良いのでメモ的に置いとこう。なんかいいたいときにここからの関連でなんかいったり言わなかったりするかもだし。




社会のいたる所で「周縁的な存在」から何らかの偏りや猥雑さ、すなわち「色」が取り除かれ、「周縁的な存在」にとっても、その外部にとっても「自由」で「平和」な状況ができつつあること。また、それに支えられた「豊かさ」が、ある種の均衡状態を構築し、多くの人々を「幸せ」にしていること。

そして、その「幸せ」こそが、人々を不安、不信、さらには「不幸」へと追い落としもするということを―。


その構造に気づき、これまで見てきた対象を再度振り返った時、それらに共通する社会のあり様をまとめるためには、「漂白」という言葉しかないと考えるようになった。

原発は、かつて30年で潰されるはずであったにもかかわらず、40年を超えてもなお稼働されることになり、多大なリスクを抱えている。また、スカウト行為への規制が強化される歌舞伎町の路上で生き抜くスカウトマンは、悩みを抱えて占い師のもとを訪れる女性客の存在に目を付け、彼女たちを風俗店に斡旋していった。原発や歌舞伎町、そして本書に掲載した様々な対象は、「漂白」された「周縁的な存在」という一つの軸でつながりあっている。


これらは全て、自らがそのリスクにさらされない限り「見て見ぬふり」をできてしまう。「漂白」された「周縁的な存在」が、社会の表面にせり出してくることはないからだ。





「彼ら」は「周縁的な」存在や出来事を「見て見ぬふり」する



「もう終わる、すぐ終わる」「あれはダメだ、それを潰せ」「変わる、変えなければ」と、社会の中で相対的に目立ってしまった「ネガティブな何か」を探し出しては、そこを回転の軸にしながら、社会はいまだかつてないほど大きく、思いの他活発に動いているように感じられる。それは、「ネガティブな何か」が大きければ大きいほどなおさらのこと。

こうして、浅はかな「希望」が生まれては崩れてを繰り返し、それを取り囲んで起こる「祝祭」が非日常を演出する。その時々に選ばれた「敵」の象徴と、それなしには支えられない「友」の象徴が社会を浮遊し、人々の想像は暴走する。そして、非日常への熱狂の後には、退屈な日常が舞い戻り、以前と変わることのない日々は続いていく。


現代が、例えばかつてのように「暴利をむさぼる資本家」「民衆を抑圧する権力者」「克服すべき貧困・差別・暴力」という「絶対的な巨悪」を想定できる時代ではなくなったとするならば、それは、「闇の中の社会」だと言える。なぜならば、「絶対的な巨悪」があってこそ、それを打ち破り、困難を乗り越えた先に、眩いばかりの光の存在を感じることができるからだ。

そして、その光を目指す高揚感のなかで、社会は一つの秩序をもって営まれてもきた。現代とは、その秩序が失われた社会だとも言えよう。




光の存在をどこにも感じることができない、闇の中にある時代がもたらす不安は、人々をある種、宗教的な社会現象へと再編する。単純でわかりやすい言葉・経典(答え)を求めては、「これを信じろ」と社会は凝縮し、価値観の異なる「異教徒」を(でっち上げてでも)探しだしては叩き潰す。そして、「あいつらはおかしい、とんでもない」、あるいは「こちらを信じれば救われる。さもなければ、もはや……」と、「陰謀論」や「終末論」の発生にドライブがかかり、そこに浸ることで、生きる意味と充実感を得る者が現れる。



「彼ら」は「単純でわかりやすい言葉・経典を求めて」は「価値観の異なる異教徒を探しだしては叩き潰」す。水素水やホメオパシーやアベシンゾーや。そして、その場その場のわかりやすい規範に従う。


今、求められているのは、安心できる象徴を闇の中にでっち上げたり、ありもしない光を無理矢理に想像することではない。先行きを見通せない閉塞感のなかで立ち止まった時に、そこに芽生える現実が示す、その恐怖感から逃れてはならない。

目を凝らしながら、闇を闇として見つめ、少しずつでも歩みを進める。手の届く範囲にあるものに軽率に飛びつくことをやめ、複雑なものを短絡的に単純化すべきではない。ろくに手足を使っていないにもかかわらず、わかりやすい答えが見つかりそうになったとしたら、それは先入観や偏見でしかないと拒絶すべきだ。

丹念な作業の末に、闇の中にも目が慣れてくると、巨大に感じていた「見えない化け物」が、たとえ自らの手で扱えるものでなかったとしても、自分と同じような「何か」であることにも気づくはずだ。





それは端的には言えば「快との接続可能性が高度化した社会」であるとともに、「不快との共存が許容されなくなった社会」でもある。

ITの発展のみならず、政治・経済を含めて様々な要因が絡みあいつつも、確実に人もカネもモノも流動化するなかで、これまで存在してきた価値ヒエラルキーは崩壊し、独立的(=閉鎖的)な集団群が形成され、その背景にある歴史的な連続性は断ち切られた。そして、一方で、これまではそれぞれの「ムラの論理」(同一性)の中で生き、「他のムラの論理」(他者)と出合わずにも済んできた人々も、かつてとは違って他者と"出合ってしまう”状況が進み、他方で、これまで「ムラの論理」から逸脱したものを規律・訓練してムラに組み込み直してきたメカニズムが、「別々のムラの論理を持つ者同士」の共生(多様性)を高度化した資本や技術によって管理・統制するメカニズムに代替されつつもある。


その前提のなかで、人々は「葛藤し合わない」形でのみ社会的に包摂され、「葛藤し合う」もの、すなわち「あってはならぬもの」は社会から排除・固定化、もしくは不可視化される。

ここで述べるような包摂(inclusion) / 排除(exclusion)という枠組みは、ジャック・ヤングの議論を踏まえてなされている。あまりにも大雑把なまとめになってしまう(それぞれの概念を精査し、詳細は稿を改めて検討したいと考えている)が、ヤングは、社会から逸脱するものを社会に同化し安定性を求めていく包摂型社会が、後期近代(1960年代後半以降)には、個人主義や多様性を重視する価値観が広まるなかで、社会から逸脱するものを排除する「排除型社会」へと移行していったとする。

そして、排除する側・される側の消費や労働に関する価値観が近づき、その境界線が曖昧化することで(文化的)包摂と(構造的)排除が同時に起こる「過剰包摂(bulimia = 過食症)」(例えば、一部の者が特権を享受しているにもかかわらず、不平等や格差が見過ごされるような状況が起こることなどを示す)が起こっているとも言う。それらは、ここまで見てきた「固定化」や「不可視化」を起こす要因の一つとして踏まえるべきだ。

ここまで述べてきた「あってはならぬもの」とは、「共存が許されなくなった、不快に思われるもの」だった。「あってはならぬもの」がなくなれば、確かに快適で、便利で、安全な生活が訪れるようにも思えるのかもしれない。そして実際に、社会はそうなってきているようにも思える。

しかし、起こっている事態は"それだけ”なのだろうか。








戦後社会において、セーフティネットとは、「教育」や「社会福祉」のような法制度として政治的に用意されるものだったのかもしれない。しかし、現代日本に生まれつつあるのは、市場メカニズムが用意する、セーフティネットとは認識されにくい「グレーなセーフティネット」であり、それが住居や職探し、心の安住につながる人間関係を用意し(第三章)、あるいは、社会的に排除され、いわゆる「包摂策」として提示されているオプションからも排除される者を、戦後育まれてきた行政・制度に接続することも行う(第四章)。終身雇用・年功序列の社会で、幸せな家族でマイホームに住むことは、限られた者にとっての選択肢としてしか存在しない。

無論、社会的排除に対する社会的関心それ自体が失われているわけではない。むしろ、その時々に喧伝される「絶対的な聖域」をめぐって大きな議論がわき起こり、また、政治や行政はある方針を打ち立て、「快適・便利・安全」な社会につながるかのような「正論」の側にポジションをとった者が、その中で優位性を確保することにも似た状況ができる。

しかし、実際はむしろ「叩いていいもの」となった、その「絶対的な聖域」の「理解できない」こと・ものの内実には誰も触れないが故に、本来そこに存在した「あってはならぬもの」が抱える「改善されるべきこと」は、改善されるどころか、むしろ関心の対象として排除・固定化され、より不可視化される(第五章)。

そして、不可視化された「あってはならぬもの」は、二つの方向に進みながら生きながらえる。一つは、以前からあった人間同士のつながりと情報技術が相まった新たな対応システムで、性や規範の網をくぐり抜ける方向だ。対応システムに対する規制要因は常に生まれるが、その規制を常に乗り越える形で新陳代謝が起こる。

もう一つは、あらゆる経済的資源が縮小するなかで、これまで偏って存在していた顧客や利害関係者をより拡げる方向だ。様々な「障壁を下げる方策」によって「普通の人」を取り込みながら、「あってはならぬもの」は維持される(第六章・第七章)。

ただ、それは「ソフトランディング」である。より具体的な形で社会に対抗的に存在してきた「あってはならぬもの」、つまり、より「生々しい暴力性」を示してきたものは、明確かつ短期間のうちに崩壊を迎えているからだ。

「豊かさ」が達成された結果、それは政治・経済・行政・法・メディアなど様々な社会を構成するシステムから排除され、今では消え入りそうになっている。その内部にわずかに残る資源が、そこに生きてきた人々の最低限の生活を維持させる「包摂」機能を持つように見えることもあるが、もはや持続しえないようにも見える。生きながらえるのは、「生々しい暴力性」の牙を抜かれ、器用にも市場で一定のポジションを確保した一部の「強者」のみになる。

しかし、その「強者」とは、「快適・便利・安全」な「正論」のプラットフォームの上でのみ存在する「強者」に過ぎない。不可視化されてきた「あってはならぬもの」は、社会の変動要因となるという意味において無効化されてもきた(第八章・第九章)。

何かに熱狂しては溜飲を下げてを繰り返すなかで、変動しない社会、「快適・便利・安全」な社会は、強者のみで成立する社会でもない。当然、その快適さを下支えするシステムもまた形成される。






「信頼」が揺らぐなかで、「安心・安全を望む気持ち」が社会に存在し、時に増大することは確かだが、現実的にはもはや「客観的な安全」を社会に見出すことは、科学者にとっても、そうではない一般の人々にとっても難しい。「安心・安全を望む気持ち」が満たされないところには「不安」や「不信」が生まれる。両者は本来、「安全」や「信頼」の回復によって満たされ得るが、それもまた困難な状況にある。

そのような状況下において、「安心・安全を望む気持ち」、より正確に言えば「主観的な安心」は宙吊りにされ、絶えず人々の心の中に「不安」や「不信」を生み続ける。しかし、その情念は、回復が困難な状況にある「信頼」や、その前提の一つである「安全」に向かわず、また向かったとしても満たされず、彷徨うことになる。

その結果、ただアディクショナルに「自由のようなもの」や「平和のようなもの」は、その時々で偶発的に選択される。その選択の条件はすでに述べた「多数の人々」にとって選択し得るものであるかどうか、という点だけだ。そして、その原因であると同時にその結果として、時に「リスク」は「周縁的な存在」に分配され、それを排除・固定化・不可視化する。

不安と不信に基づいた無意識的な不快の中で、そこから逃れることを目指す力がアディクショナルに「自由」と「平和」を求め、「自由」で「平和」な社会が用意され……という循環が社会を構築していく。現代社会とはそんな社会であるらしい。







以下はこの本の元となった連載(一番下の方に一覧がある)と

第1回取り残された「売春島」に浮かぶもの 現代社会のリアリティ|開沼博 闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に|ダイヤモンド・オンライン http://diamond.jp/articles/-/19501


スピンアウトの対談


対談 漂白される社会 http://diamond.jp/category/s-hyouhakushakai

posted by m_um_u at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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