2007年06月04日

羊でも狼でもなく「ふつーに生きる」ということ (reprise)

 主題はmixiで書いたもののrepriseなわけだけど、ちょっといろいろ気になるエントリがあったのでそれに絡めて再編集。自分なりに立ち位置のようなものを確認してみようかなぁ、と。

 対象エントリはこちら


赤の女王とお茶を:真実と倫理と責任と


福耳コラム - ハングリーである重荷「白夜行」



 「羊として生きる」というか「羊と狼の境界」というのは古谷実の「グリーンヒル」で出てきた主題だったように思う。



グリーンヒル 3 (3)
グリーンヒル 3 (3)
posted with amazlet on 07.06.04
古谷 実
講談社 (2000/07)
売り上げランキング: 95889



 あるいは「シガテラ」あたりだったかもしれないけどこの主題自体は古谷作品に通底するテーマになっているのでそのへんはまぁどーでもいい。

 で、どういうことかというと

 「ふつーの人(子羊たち)は自分で考えることができないから法という囲い(線引き)によって行動を規制されると同時に守られてるんだよ。でも、一部の感じること・考えることができる人はそのラインを自分で設定できるので囲いを飛び越えていくことができる」

 ってこと。

 んで、子羊ちゃんが一部の人にあこがれるかというと・・・その辺はびみょーだったりする。

 「一部の人」っていうのは端的に言うと狼さんだ。狼さんっていうのは羊ちゃんを襲ったりするわけで、その意味では福耳さんのところに出てくるウシジマくんなんかは狼さんと言える。もしくは古谷の作品の後半部分でよく出てくる暴力を使う人々なんかがそれにあたるだろう。あの人たちは北野武映画に出てくるような人生における不確実性(不条理)の象徴でもあるんだけど、まぁ、その辺はいい。

 でも、そんな感じで弱者を食い物にしたり、そこまで行かなくても一般社会から隔絶した感じの「強い人」にならなければ生きて行けないのか?


 これが古谷の主題。


 つまり「羊ちゃん的甘さを捨てて狼になるべきか」(自らの良心を殺して不条理に目をつぶるべきか)ってことで、この辺りで赤の女王(sivad)さんのエントリの課題が関わってくる。

 
 sivadさんのエントリは


ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか



 という問いからの流れのようで、端的に言えば道義的責任とか良心の呵責についてのギロンのように見える。つまり「仕事とかある一定のルールに則って”しなければいけない”こと以外の部分でしなければいけないこと」に関すること。それを「しなければいけない」と思うのは良心の疼きがあるからだろう。

 個人的には解決されている問題なのでテーマの発生元周辺のギロンは確認していない。が、そのまま話を続ける。

 ここで道義的責任を考えているということはsivadさんご自身は良心がデフォルトということなのだろう。ただしそれとの距離感に悩んでおられる。というか、その汎用性というか一般化できるかどうか、ということについて。

 まぁ、つまりこういうことだが

世の中には「倫理的な責任」を

* 「感じない人」
* 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」
* 「どうしても感じてしまう人」

がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。


 
 で、「感じない人」と同様「どうしても感じてしまう人」も問題になる。対象への過度な共感(同情)による逆差別というか、共依存的状況に陥ってしまうので。もうちょっと言うと、「相手を自分と同等の他者として扱わずに“可哀想”な対象として扱う」、ということ。障害者に対する距離感でよく問題になる例のアレだ。その時点で差別してるわけだな。


 というわけで、ここでも「過剰性」が問題になってくる。差別の問題というのはけっきょく過剰性の問題のように思われるので。


muse-A-muse 2nd: 差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)


 蓋然的なある一定のラインに対して過剰に踏み出しているかどうか。善きにせよ悪しきにせよそれが過剰であれば「差別」というか、過剰ということになる(←同語反復)。


 で、

 その辺りのバランスをとるために中庸であり、中庸だけではなく良く生きるために生き方の指標のようなものが必要になってくるわけで、それがこの辺に通じる。


muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造



 「どうしても感じてしまう人」の場合は善への指向が強くなりすぎて良心の呵責を感じるのだろうからこれを抑える方向に向かったほうが良いわけだけど、それとは逆に「なにも感じない人」というのは「過不足」ということでこれはこれで問題になってくるように思う。

 sivadさんも想像力というキータームを用いているけど、そんな感じで、「想像力の枯渇は同じ社会に住む他者に対して過不足や過剰性をもたらしているのに気づかない」、という情況を生み出す。こんな感じで


muse-A-muse 2nd: そして、セカイは世界へ還る


 それ以外に。ぼくの場合は個人的な能力の発現にも関わってくるように思っているけど。つまり「想像力の枯渇」が「認識の幅を狭める」ということ。


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2.1): Sound and Fury


muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)


muse-A-muse 2nd: フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」


muse-A-muse 2nd: 格差を巡るデフレスパイラルから抜け出すには・・・



 そういうことがあるように思うけど、この辺は実証されてるわけでもないのでなんともいえない。あと、9.11のように掛け金をケチったことが廻り回って災厄をもたらすということもあるように思う。



 で、


 そんな感じで想像力の枯渇は個人の生活(可能性の発現)、社会生活(安定された将来)の両方にとって不利益をもたらす可能性があるわけだけど、その辺のところについて、ある程度「見えてる」(と思われる)人間からすると「・・迂闊だなぁ」と思われる人がいても「それはその人が満足してる人生なんだからそれでいいじゃないか」と福耳さんはおっしゃる。

 まぁ、確かにギャンブルだけの人生でも、「酒に酔っているときだけがバラ色だー」とかいうのもその人の人生であり、ヤギ男のように「なにも考えずに生きるのが幸せだー」っていうのも幸せの尺度というのは人それぞれなわけだから別に良いと思うけど。さっきも言ったように、それが社会全体の不利益に関わってくるとなると話は別だ。


 われわれは好むと好まざるとに関わらず社会の構成員として繋がっているわけで、民主主義的な投票によって一蓮托生って感じになってるわけだ。なので、誰かの決断やそれ以前の怠惰が自分に関わってくることもあるわけ。

 そういうのは正直かんべんしてくれと思う。

 功利主義的に考えればそんな感じで、それ以外にもっと純粋な良心の問題もあるわけだけど。これはなんかよく分からん。生得的なものか、環境要因による後天的なものかよくわかんないけど、とりあえず自分の中にそういうのを気にする気持ちがあって、それが「なんかしろー」とか「見過ごすのかー」とか言ってウザったいのでなんかやる。それだけのことではないか?

 別に深く考える必要はなく、自転車が倒れてたら直すし、ごみが落ちてたらゴミ箱に捨てるのと同じように、なんか痛い目にあってる人を見たら自分のできる範囲でなんかする、ってことではないか?

 過剰性の話に戻れば、過不足が生じている部分を埋めて元に戻すということだと思う。



 で、それとは別にsivadさんのところの課題、「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」のモチベーション(モラル)をどのように上げて持続させていくか、ということがあるわけだけど・・・。この辺はびみょーなように思う。


 sivadさんが後段で匂わせているように、拙速に「これが善(正しい)」と決めつけるのではなく、「できること」「やるべきこと」「やっといたほうがいいこと」って感じでもろもろのことを峻別して、その時々の状態に合わせてリソースを投下していけばよいのではないだろうか?

 疲れて倒れそうなのにムリに座席を譲る必要はないし、老人を背負って横断歩道を渡る必要もない。


 「できる範囲」とそれをすることによる「良心への効用(便益)」を計算して行動すればよいのではないか?



 
 で、福耳さんのほうに戻るけど



 こういってはなんだがどうも福耳さんは気にし過ぎのように思うんですよね。カサブタを剥ぐように無用のネガティブフィードの自己言及をするというか・・。

 いや、失礼なのは承知で言ってるんですけどね。


 いままでのぼくの考え方を見ると「弱肉強食」的な世界にあわせるための最適化って感じに見えて気持ちが悪いものを感じるかもしれませんが、でも、やっぱそうなのではないでしょうか?

 いまの日本社会なんかは特にsurvive的な情況なわけで、そこで生き残るために自らの行動指針をhackすることの何が悪いのか? とか思います。


 ネガティブにはまらず、功利で動けるところは功利で、あるいは合理で済ませるところは合理で済ます。それは富とか名声とかのジコジツゲンってことではなくて、単にsurviveするための指針です。つまり過剰性によって失われたもの(あるいは失われてしまうかもしれないもの)を取り戻すための地味な闘争です。

 ウシジマくんの場合は狼になって人を食らおうとしているわけだから傍からみると過剰性が生じているように見えるかもしれないけど、こちらでも書いたように、彼自身がそうしなければ生き残れない情況にあった(あるいは継続中)わけです。

 なのでその選択自体はせめられるものではない(「その人生になにか問題はあるのだろうか?」ということです)。

 その上で、そこに他者に対する過剰性が生じる可能性がある。その辺りの落とし前を真鍋自身がどのように描いていくかが見物ではあるけれど。


 で、それとは別に「ウシジマくん」というマンガを見ている視線というのはどういうものか、という問題がある。


この作品を読んでいる平均的な読者は、ウシジマ君たちの世界からどのくらい距離があるのだろう。おそらくは、「いくらなんでも俺はこんなに馬鹿じゃねえよ」と安心してDQNたちを「見下す快感」に酔う「安定した中流」の人たちばかりだとしたら、それもちょっとなんか浅ましい風景であるように思う。



 まぁ、この辺なわけですが


[mixi] 闇金ウシジマくん | 名言集。


[mixi] 闇金ウシジマくんの奴隷くん


 でも、同時にこういう感想を持ってる人たちもいるんですよね

[mixi] 闇金ウシジマくん | この漫画読むと気分が沈みませんか?



 sivadさんの言葉を借りれば「感じない人 / 感じる人 / 感じるけど切断できる人 」 って感じなのかもしれません。



 で、まぁ、そういう人々のことを思ったりもするけど、それもあまり思いすぎるというのもびみょーで、あくまで自分のセキュリティに関わる範囲ってことでよいのではないでしょうか?



 で、この「思いすぎる」って部分。過剰な良心と悪意は似たようなもの(たぶん共依存だから)ってのは上述しましたが、そんな感じでなにかを思いすぎて空回りするってのはあるように思うんですね。


 猫蛙さんに言わせるとこういうことなのだろうけど


ネガティブな人にお勧めの「おぎやはぎエミュレーター」とは何か? - 好むと好まざるとにかかわらず - 楽天ブログ(Blog)


「自分自身の人生を楽しく生きるのは素敵なことだよ。そんなガチネガティブだと辛くなるんじゃないか。好むと好まざるとにかかわらず死ぬまで生きなきゃいけないわけで、だったら楽しく生きたほうがいいじゃん」・・・といわれてもネガティブな人間には無理なのは凄くわかる。



 この「ネガティブな人間には無理なのは凄く分かる」というのはすごく分かります。


 で、猫蛙さん的には「おぎやはぎメソッド」ということで「とりあえず褒めていけばなんかリズムが作っていけるんじゃね?」って感じでそれ「よかった探し」((C)ポリアンナ)ですね。


 でも、まぁ、そんな感じなんじゃないか、と。


 猫蛙さんの言うようにアーリーアダプター2.0な人の指針ってのは元々ネガな人にはちょっとムリな感じがする。(自分も含めて)


 でも、ネガってのはネガってことでそれだけだと写真は現像できないわけです。



 どっかで踏み出さないとね。



 そういや、「ネガ(闇)を見つめ過ぎるな」、関連で吉田健一爺の名作「東京の昔」の解説にこんな一文がありました。


東京の昔
東京の昔
posted with amazlet on 07.06.04
吉田 健一
中央公論新社 (1976/01)
売り上げランキング: 914390




(211)
その第一は「人が裸になった時」のような「見るに堪えないないのであるよりも見るべきではない」ものを過大に評価して「深淵が覗いていると思ったり」しない態度である。考えてみればこのどちらからも離れた、強がりや残酷趣味やえせミスティシズムは、われわれの周囲にうんざりするほど見つかるのではなるまいか。その種の荒廃を排しているところに、吉田氏のひそかな倫理性があると私には思われる。




 これは物語後半で主人公が昔冬にみたときに「寂れ方があまりにも無残だった」と思った池をもういちど見に行った場面で思ったことを抜き出したもの。

 もういちど見たときは前ほど寂しく感じなかった。それはなぜか?

 前に見たときはいわば池の裸の状態を見てしまったのではないか?

 そういうものは池だけではなくわれわれの周囲に幾らでもあるものだ。


 「そこに深淵が覗いている」と思っていろいろ考えたりする人もいるのだろうが、それ自体がなにかおかしな考えにとりつかれているのだろう。


 誰もが死ぬときが来るときまで死にたくないのと同じように、望んでおかしな考えにとりつかれることもないのだ。





 そんな感じではないでしょうか


 「粋の構造」的に言えばアップ系の過剰性(「上品」や「ハイソ」のようなエスタブリッシュ)や、ステレオタイプや俗的な定型から距離をとることの指針を考える際のヒントのように思います。



 あ、それで「ふつーに生きる」ということの指標として、「粋」であり、江戸モードがあるように思うわけです。まぁ、その辺は後述ということで(たぶん)




 では、再見!





--
関連:
偽装部 - コアラ・ミーツ・パンダ - 以前から古谷実に対して考えていたことを書いてみるテスツ

※「人生最大にして最強の敵は“めんどくさい”だ」







タグ: 運動
posted by m_um_u at 07:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
いや、失礼とは全然感じません。それと、引用して頂いたエントリーは、「自分」がどのように生きるか、そして「彼ら」はどのように生きるかを自分で選択できるか、そういう二つの違った問題を混同してしまったように思いますね。もうちょっと考えてみます。
人に迷惑さえかけなければいいんじゃないか、というときに、「迷惑」という概念に、「あなたたちが勤勉でないと国民経済が縮小するじゃないか」とまではいれることはないだろう、と思うのです。それとまた、違法な貸金とかギャンブルとかは別の問題ですが。
低燃費なシンプルライフというものを、実はもうちょっと深く考えなければならなくなりそうなのです。いろいろありまして。
Posted by 福耳 at 2007年06月04日 13:15
>人に迷惑さえかけなければいいんじゃないか、というときに、「迷惑」という概念に、「あなたたちが勤勉でないと国民経済が縮小するじゃないか」とまではいれることはないだろう、と思うのです

それはまぁ、思います。ってか、ぼくもその言説に乗っかってしまうことがあるように思って反省です。ただ、ぼくが「民主主義的に一蓮托生」と言ったのは主に投票のときのいいかげんさを念頭に置いてです。カンサンジュンさんも言っていたように思うけど、どう考えても投票率が低いように思う。どちらに決定するかはその人の考えだからよいとして、決定以前に権利を投げるというのはどういうことなのかなぁ、と思います。

ギャンブルについては「そんなにギャンブルしたければ証券のディーラーにでもなればいいのに(特に先物とか)とか」思います。それとは別にスロットというのはよく分かりませんね。パチンコがうるさいのも同感です。(あとタバコ臭くて5分と居れない)

ってか、中古屋とかにスロット置いてあるの見るけど、何が楽しいのか分からない・・(たぶんお金出ないし)
Posted by m_um_u at 2007年06月04日 14:41
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。