2007年06月03日

人形考 (欠落と神聖)

 日曜ということでちょっとメディア論(メディアアート論)っぽいものを書いてみたくなったので以下つらつらと。きっかけはこの辺


WIRED VISION / 白田秀彰の「網言録」 / 第三回 美と規範 I


マクルーハンの記した芸術家とは|萌えぼえ。


 白田さんのほうのエントリ主旨は情報デザイン科の性格と純粋芸術的な抽象絵画系の作品の性格の違いを述べつつ、「純粋美術系の作品は自分の中のなにかを表出すべきなのに、模倣ばっかりになってるね」、って感じ。


純粋美術系の学生達の作品は、ほとんどが現代的作品によって占められる。日本画の学生作品においていくらか古典的な花鳥風月をテーマにしたものも見られたりするが、ほとんどの作品は、普遍的客観的自然がテーマではなく、学生ならではの個性を探求しそれを(たぶん)全力で表現したものとなっている。もちろん、彼らの個性と感性に驚かされ感動させられるところもあるのだが、私が数年間そうした卒業制作展をみていると、「画一化した写実表現あるいはアカデミックな作品」を否定し、個性を探求したはずのそれら諸作品が、ある種のパターンなり時代性なりに見事に囚われていることにも、私は気がつくのだ。



 で、これにmoenoさんのところの「人間拡張の原理」(マクルーハン)の芸術家の役割の話が繋がるわけです。

 つまり、「現代人は各種デバイス(メディア)によって過速(overdrive)され立ち位置を見失いがちだが、希薄化する現実感覚の中で、芸術家はリアリティの向かう先を見つける水先案内人(アンテナ)的役割を担う」、ということ



新しい技術に打ちのめされた犠牲者たちは、芸術家というものは非実際的で、空想的な趣味しかもたないと、異口同音にきまり文句をつぶやいてきた。しかし、ウィンダム・ルイスが次に指摘したことは、すでに前世紀において一般的に認識されていたことである。

「芸術家だけが、現在というものの本質を認識しているので、いつでも未来についての詳細な歴史が書けるのだ」。

この単純な事実を知ることが、人類の生存のために必要なのである。芸術家は昔から、いかなる時代にあっても新しいテクノロジーの強打から身をかわし、十分に意識してこれを受け流すことができたのである。それとは逆に古い連中は昔から新しい力の強打から身をかわすことができず、自分たちに必要なのは芸術家だということも分からないのである。そして、芸術家たちを報償したり、有名人にしたてたりすることなどは、彼らの一種の予言者的な仕事を無視することであり、人間存続のためにまさに必要なときに彼らを利用するのを妨げることにもなるのである。

芸術家は、科学の分野であれ人文の分野であれ、どの分野においても、自分の行為とその時代の新しい知識のもつ意味をつかむ人間である。芸術家はものごとを全体的に把握する人間である。



(※デバイスによる「過速化 ⇒ 実存のゆらぎ」についてはこの辺に詳しい)

「場所」と「社会」 (book review)



 あるいは高度にシステム化された労働環境そのものが感情などといった人間固有の感覚を奪い、ロボトミー化させる危険性を孕む。

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「感情労働」と「キレる」客

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「感情マネジメント」についての再論


【溶けゆく日本人】乱れる性行動 「間が持たぬ」と相手変え|生活|生活・健康|Sankei WEB



 産経の記事は「ケータイとかが悪い(メディアが悪い)」っていう安易な言説に陥りそうでちょっとアレげですが、「コミュニケーションの希薄化 ⇒ 実存の希薄化」という流れはあるように思います。

 そういう流れに対して、身体を機械化することによって現実感を取り戻す人たちもいる。


WIRED VISION / 人間と機械の融合、その最前線(1)


WIRED VISION / 人間と機械の融合、その最前線(2)



 「それは特殊事例だよ」ということではあるんだけど、安易に「メディアがリアリティを希薄化させる」とは言えないのではないか、と思います。


 ってか、テクノロジーはますますわれわれの生活を「簡単・便利」にしていって、その過程でなにかが忘れ去られたりするのかもしれないけど、なにか得るものもあるのではないか。

 それは現在のリアリティとは違った意味でのリアリティ、現在のリアリティを越えるものとしてのリアリティとして「ハイパーリアリティ」とも言えるものなのではないか........


muse-A-muse 2nd: スマート化する社会(可能性と課題について)



 「テクノロジーと美(エロス)」を結ぶメディアアート的にはこういう考えが基本になるでしょうね。それは未来派的な危険性も孕むけど、同時に可能性もあるはず。過去をキチンと振り返りながら、足元を見ながらメディアと付き合っていけば。



 で、


 人形ってのは人間との付き合いの長いメディアの一つなわけです。


 「攻殻機動隊」の主題になっているのからも分かるように、人は人形(ロボット)という自分の写し身を通して自らのあり方を確認する。人形を通して人とは違う部分(欠けている部分)を見つけるからこそ、「人間とは何か」ということが見えてくるわけです。

 その意味では人形とはその人の現在を写す鏡(もしくはアンテナの一つ)ともいえる。

(とはいっても、人形メディアは純粋芸術というよりは限界芸術の領域に属するという限定はあるのですが、まぁ、とりあえず話を続けます)


 で、ここにリンクするわけですが


子供の日といえば人形劇 - MIYADAI.com Blog


 宮台さんは「祭りで見た人形劇はなぜあんなに特別な感じがしたのだろう」という思いを起点にして、「子供時代に見た人形劇は祭りという特殊な場の中である神聖性(アウラ)を帯びていたのだ」という結論に漂着しています。

 「子供のころの祭りは山一つ越えて見に行く必要があって、山越えという過程でなんだか雰囲気が高まっていって、その雰囲気が人形劇という空間を作っていたのではないか」、と。

 「山を越えて異界へ旅立つ」というところからは折口を連想させますが、じっさい折口には「人形の話」というそのものズバリなテクストがあったり。


折口信夫 人形の話(@青空文庫)



 そしてお二人の考えはよく似ている。(あるいは宮台さんはこれを下敷きに書いたのかな?)


 一番似ていると思ったのは、「欠落こそが人形メディアの意義」という部分です。


(以下は人形における欠落とそこに宿る力について、宮台さんのエントリからの引用)

ジョルジュ・バタイユの影響を受けたエドモンド・リーチは、奇形や不具などのシニフィアンの隙間を未規定性の噴出口と見做し、「境界の状態」と呼んだ。社会関係と直交する「縦の力」が人形を媒体に選ぶのは、人形が「境界の状態」を呼び込み易いからである。


大道具や特撮の実写を陵ぐリアルさと対照的な「人形の不自由さ」を、『サンダーバード』を見ていた小学生の私は幾度も不審しく思ったものだが、今では理由は明白だ。人形が精密になるほどシニフィアンの隙間が閉ざされ、単なる下手糞な俳優に近づくのである。


ところがどっこい。不自由な人形たちに、不自由ゆえにこそ力が降りる。気がつくと我々は、どんな俳優劇にも劣らぬ微細な表情を読み取り、肉体を貫く躍動を感じている。CGを一切使わず、優れた傀儡と傀儡師のコンビネーションだけが、力の源泉だと宣告する。


人形劇は、規定されたシンボルに抗って未規定なアレゴリーを示すかわりに、規定されたシンボルに抗ってシンボルの隙間を未規定性の噴出口とすることでミメーシス(感染的摸倣)をもたらす。〈世界〉の根源的未規定性に接触するための、機能的に等価な方法だ。




(以下は折口、「人形の話」からの引用)


普通の学者は形代(人間の身体の替りのもの)と考えている。この形式が、いろんなものに分化していく。盆暮に社から人間の形に切った紙を出す。それに米など添えて社に持って行く。これも形代である。このように種々に分れている。ところが江戸になって非常に盛んに行なわれる語、書物に出はじめたのは鎌倉であるから、武士から出はじめた語であろうが、それに「お伽」という語がある。


「ひひな」は普通は人間の形代であり、人間の雛型だから、それがけがれを吸収する。だからそれを棄てればよいのだと考えている。ところが「ひひな」は古くから日本の家庭では玩具になっている。われわれは何ともなく思うが、「ひひな」はけがれを吸収したものだから、身辺にあるが恐しいものである。これが玩具となるのは飛躍しているわけである。日本では何か事情があって、これに親しみを感じてきたのだと思われる。


 通常、人形は「人間の代わりのもの」としてとらえられ「けがれを吸収する道具」として使用されますが、たとえば「いたこ」と「おしらさま」のような「欠落 × 欠落」な関係においてはそこに不思議な力が宿る。


「いたこ」は条件的に目が悪い。つまり盲目が感じるのである。そのときに語るものは祭文というものである。祭文というても江戸、上方のとは異なり、つまり一種の叙事詩である。いまでは叙事詩を語ると、「おしらさま」が昔を思い出して踊りだすと考えているが、「おしらさま」自身が語るのである。「いたこ」はやっているうちに放心状態にはいる。「いたこ」はほとんど、託宣をしない。神がつくのではない。「いたこ」が神をつかっていると、「おしらさま」自身が踊りだす、そんなのをみると、「おしらさま」が家の生活と近くなる。家の中の納戸の隅などに祀ってあって、家のけがれをしじゅう吸収している。そのしるしに、年ごとに一枚ずつ着物を着せてもらい、「いたこ」が廻ってくると遊ばれる。してみると、この「おしらさま」というものは非常に怖れられていることがわかる。「おしらさま」の祀ってある家は旧家だというが、ちょっとのことでも祟りがあるので、非常に迷惑をする。



 「おしらさま」は蚕のこと。通常、2体つくられ頭だけを象られます。(白馬の頭の部分とか?)。2対であるのは家庭を作るため。そして「おしらさま」=「お雛さま」、と。

 
奥州の「おしらさま」は、一体、二体、ときには三体のこともある。近代では主に蚕の守り神になっている。ということは、農村でいちばん大切な守り神ということになる。蚕を飼うほど、蚕の守り神の考えがおし及ぼしてきて、かきものを守り神とするようにさえなってきた。古ぼけるとまた新しく作るので、古い家になると二体も三体も祀っていることがある。
 桑の木の二股の枝をとってこしらえる。だから先のほうを頭にして、頭だけの人形である。この「おしらさま」に毎年一枚ずつ着物を着せてやる。着物を着せるというのは、「おしらさま」がお雛さまだからだ。つまりもとの意味は、「おしらさま」がその家のけがれを背負っている、ということになる。だから古い「おしらさま」は、布の中に埋もれている。奥州では、「いたこ」が「おしらさま」を使いにくる。これをおしらさまをあそばせる、といい、「おしらあそび」という。



 あるいは「頭だけで身体がない」という欠損部分に神が宿るのかもしれません。

 そう感じさせるのはこのあとに続くテクストが淡島のことに触れているからです。

 以下は、「ひな祭りとは本来はいたこがおしらさまを遊ばせる祭りであったが現在(※当時)ではそのような風習は淡島の「淡島願人」に見られる」、という文脈から。


淡島は諾冊二尊の間に生まれた二番目の子で、性がわからない。これを流したということから形代の起源と考えているのだろうが、そんなに古いところでなくとも、摂津の住吉明神、紀州加太の淡島神社から出ていると思う。住吉と加太とが淡島願人の中心地である。そこから出て、諸国に淡島信仰を流布し、下の病で苦しむ女を救うて歩いた。住吉明神の妻が白帯下(しらながち)にかかったのを嫌って、扉に乗せて流すと、紀州の加太に流れつき、そこに鎮座したという。だから年に一度加太から住吉に戻る式をやる。ちょうど摂津の堺が真中にあたり、ここにきて、来よう、来させまいと争う式がある。
 近代の信仰では淡島はけがれて流された神である。だから二体でなく、一体でもよいのだが、それでも二体と信ぜられている。また淡島願人のもって歩くのは、雛ではない。淡島さまはどこでも、「すくなひこなの神」だというている。ともかく淡島さまは海の中の島にいる神である。


 「淡島」は淡路島のことで、「二尊」とはイザナギとイザナミのこと。つまり、蛭子(ヒルコ)神のことです。

 知っての通り、蛭子神は形を成さずに生まれた神で、生まれてすぐに流されてしまった。でも、漂着先で「幸せを呼ぶもの」としてあがめられたんですね。それはヒルコが形をなさなかったため魚の栄養物となって漁村に収穫をもたらしたことに関係していると思うんだけど、漁村というのはそういうこととは別に外から流れ来るものというものを大切にするところがあった。つまり多様性に対して開放的だったわけなんだけど。

 で、「ヒルコ = 蛭子 = 胡 = 恵比寿」なわけです。恵比寿さんが釣竿をもっているのはそういうことだし、「胡」という言葉が外来者を指すのもそういうことです。
(この辺は折口の「稀人」話に通じていくのかな)




 本来の意味でのひな祭りが淡路に残り、淡路が奇形神であるヒルコの島だったというのは不思議な符号ですが、宮台さんのいう「闇の力」というのはもしかしたらその辺りに関係するのかもしれませんね。






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関連:
muse-A-muse 2nd: 明日はゆかいなひな祭り♪




折口信夫 三郷巷談(@青空文庫)

※淡島話はこちらに続きます


posted by m_um_u at 18:03 | Comment(0) | TrackBack(1) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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