2016年04月20日

日常に侵入する自己啓発 ― 地震・PC・家事・こじらせ




昨今のついったのTLで震災関連の「これやっちゃいけないのにー」的な優越感ゲームうざいな、とか、女子をこじらせての是非うんたらうぜえなとか思いつつ、こういうのも包括的には今回読んだ本の対象範囲となるのかなあ、とか。



書評:日常に侵入する自己啓発―生き方・手帳術・片づけ [著]牧野智和 - 荻上チキ(「シノドス」編集長・評論家) | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015052400012.html

 果たして自己啓発書に、いかなる社会的機能があるのか。本書は、膨大な自己啓発書を整理しながら、その流行変化が社会の何を映し出しているのかを考察する。人は、手帳術を学ぶことで「時間感覚」を、片づけ術を学ぶことで「空間感覚」を再編する。男女、年代の違いによっても、「自己啓発」に求めるものは異なる。男性向けのものは仕事や趣味における上昇志向を刺激し、女性向けは美の追求を通じて自分磨きを要求する。典型的なイメージながら、人はそれに癒やされる。直接読むと「うへぇ」と投げ出しそうだが、本書のように客観的に分析されると、雑多な書籍たちが星座を形作っているように見えて面白い。
 「片づけ本」を整理した5章は最近でもベストセラー多発の分野だけあってタイムリーだ。主に男性経営者向けには、精神浄化の儀式としての掃除を。主に女性向けには、ありのままの自分を取り戻すための片づけを。現在の自己に不満を抱く人は、何かしらの儀礼を求めている。片づけのように些細(ささい)なことであっても、大層な儀式に変わってしまうものだ。




日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -
日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -



新聞の書評らしく短くわかりやすい紹介なのだけどもうちょっというと「自己啓発書にいかなる社会的機能があるのか」というか「○○のための道具のひとつとして現代日本では自己啓発書が用意された。さて、では自己啓発書の類は○○のためにどのように機能しているのか?」という話。前著からの課題・射程の具体ということになるらしい。


自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -
自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -




「○○のため」の「○○」というのは「自己のテクノロジー化」とか「内面の技術対象化」ということになる。ざっくり言えば、後期近代の現代人・都会人にとって必要な近代的な規律を自ら内面化・自己訓練化していく過程、ということぽい。具体的にはたとえば「優秀なビジネスマン・社会人になるためには○○するべき(しなければならない)」とか「デキた主婦・女性となるには○○であるべき(しなければならない)」とか。そういったものは簡単には自己啓発書の類で「○○のような考え方をスべき」とか示されるわけだけど、そこで一般化のために示される数値、たとえば年収とかスリーサイズとか体重とか、そういうものでデータ還元的に人の実存がスポイルされていく。最終的に。そういうのは近代人にとって指標としてはわかりやすいのだろうけど、それにとらわれ過ぎると却って窮屈になる。趣味のジョギングでみょーに数字にとらわれすぎて、とか、ダイエットでみょーに体重やカロリーにとらわれすぎて、とかそういうの。ダイエットが脅迫神経的になれば拒食症・過食症になるし、それは個人の問題としては心の病といえるのだけど「近代社会による女性への暴力」といえる。


なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -
なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -



「こじらせ女子」というのは、元の定義があいまいなのであれなんだけど、これも現代日本における理想・モデルとなるように提示された女性像とそこから選択するベキ行動・規律に対する脅迫神経的な態度・容態なのだとおもう。女性誌などではしばしば「理想の女性像」は「ステキな彼」をゲットするために提示され目的のひとつとされるのだろうけど、こじらせ女子たちは意識した異性を前にするとその目的からすると甚だ非合理的な行動や態度をとってしまう。いわゆるツンデレ的な不可解な行動とか態度とか。そしてそのことを後で死ぬほど後悔し自嘲したり涙したりする。あるいは、異性を意識しない、「(ステキな女性らしい)わたしらしさ」の演出のための女性像の獲得のためのアイテム選びなんかでもこの辺の「こじらせ」は顕れる。たとえば「あの服はあたしにはハードルが高すぎてムリ。。(合わない」とかそういうの。

彼女らがしばしば自ら「こじらせてる」と自嘲していうようにその選択が非合理的になり結果として部分を修正するのではなく全体をリセット・拒絶してしまうのはちょうどダイエットに脅迫神経的になった女性が過食・拒食に陥っていく過程と似ている。そして、その意味では彼女たちのゴール・軟着陸とされるべき地点もだいたい共通する。ダイエットのオーバードライブによる過食・拒食に対して「食自体を楽しめるようになるとよい」ように彼女たちも「女であること自体を楽しめるようになると良い」ということになる。まあ拒食症の人たちはそれも最初からわかってるのにこじらせた行動・態度をとってしまうので深夜にきれいなAV女優の姿を見て彼我の差に涙するようなのだけど。加えて言えば、過食・拒食の理由がある程度一般化できるとはいえそれぞれのひとによって異なるように女性が女子をこじらせる理由というのもそれぞれのひとによって異なるだろう。その意味で先行するこじらせ女子が後発のこじらせ女子に対して「あんたのはこじらせじゃない(本質的な悩みではない)」とかいうのも無理があるように思う。特に「こじらせ」の定義が曖昧であるとき。まあ「一般的なこじらせがあるとしてもそれに対してわたし固有のこじらせと似た容態を問題としているのだ(一般論ではなく私個人、あるいはそれと似た背景を持ってる人を想定・対象としているのだ)」というなら別だろうけど。






話が応用編にそれたので戻すと


そういったものが具体例・現象・事例として、本書ではそれにつながる自己の規律訓練化に関する道具としての自己啓発書を分析・考察する。あるいは自己啓発書に類するもの。たとえば女性誌や手帳、掃除術なんかもそれに当たる。男性の場合は仕事・仕事の成果・出世がベタな自己啓発の目的地となるのでそのための簡易な道標として自己啓発書がツール化されている。対して女性の場合はだいたいにしてそういった「出世」とは別の所をその界の目標としているのでいわゆる自己啓発書は分析対象とはならない。その代わり女性に用意されるのは女性誌やそこからスピンアウト的に出版された書籍となる。女性誌では往々にして自分磨きの目的・目標は「わたしらしさ」の演出のためとされる。「わたしらしさ」の反対地点として「おばさん」(所帯じみた)があり、このゲームでは「おばさん」になってしまう / そのように見られると「負け」ということになるらしい。またいわゆる出世街道から降りた / 上がった / 干された男性群なんかもこの「わたしらしさ」をゲームの目標としていったりもする。


mixi → fbなどでよくみられた / まだ見られているキラキラ女子たちの衒示、優越感ゲームというのはこういうのが背景にあったのだなとよく分かる。ついったなんかでもそういうのはみられるけど自分のTLにはそういう人たちはいないように調整されていて、かわりに?彼や彼女たちはPC(ポリティカル・コレクトネス)的なものをしばしば掛け金としているぽい。「被災地に○○をするのはジョーシキ的にいって○○だぁ」とか「○○するやからがいてけしからんので晒(RT)してみなさんに周知・羞恥させとくだぁ」とか。これが衒示だとすると彼らが「良い人」を目指すというところが最終目標で、それに対して「ダメだよm9(^Д^)」て優越感ゲームなのかなと思うのだけど、いい子ブった振る舞いをしてるというわけでもなくその辺の逸脱を見るとどうしてもガマンできなくなって脊髄反応するという人たちもいるぽい。まあそれは彼や彼女たちが育った環境の倫理の規律訓練と、そこからの公正世界観に依るものなのかなとおもうのだけど。そういった「どうしても脊髄してしまう」というのと別にm9(^Д^)て感じでそれ自体が優越感ゲームの道具・ネタとして機能してるひとたちもいるように見受けられる。端的には「まず正義感があってm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノする/してしまう、のではなく、たんにm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノしたいのでネタとして正義とかPC的なものを弄んでる」みたいな人たち。まあ両方共自分からはそんなに近くないのでそういうひとたちがいる / そういうひとたちのなかでも本気なひとたちと弄んでるぽいひとたちがいる(あるいは両方が混ざってる感じもある)ぽい、というところで留保しとくべきなのだろうけど。





また話がそれたので戻そうかと思うのだけど、本書を詳しく語るという場合は上記したように「社会的成功、あるいは、<わたしらしく>あるために自己啓発書やそれに類する女性誌がどのような言説を提示し、それらがどのように変遷しつつユーザーに選択されていったか?(彼らにどのように影響していったか?)」ということの具体例を上げるということになるのだろうけど、それをしてると冗長になるので割愛。まあめんどくさい。そういうのはこのへんで詳しくやってくれてたようなのでいちおリンク貼るにとどめとく。


自己啓発書とは何なのか、そこから炙り出される社会の側面とは、今年一番の面白さだった!! 牧野智和/日常に進入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ - 学びや思いつきを記録する、超要約ノート
http://digima.hatenablog.jp/entry/2015/05/22/115640


あるいは著者の前著である「自己啓発の時代」の元である博論が早稲田から公開されてるようだから詳しく見たいならそれをぐぐってみれば良い。もちろん本書をみるのもてっとり速いけど。



こんな感じで本書の内容まとめはだいたいリンクとかに頼りつつ、自分的に気になったところだけ感想したり、このエントリ用に置いといた本書のレジュメなんかを最後に貼っつけたりしてこのエントリは済ませとこう。



自己啓発書、あるいはそれに類する女性誌の影響みたいなのは前著からの流れというのもあって本文中にも「前著でも語ったが」とかちょこちょこでてて「あ、前著みたほうがいいなこれは」てかんじだったのだけど、そこからの本書のオリジナルというか白眉みたいなのは本書を紹介してた武田砂鉄さんのcakesの対談でもちょこっとあったようにほぼ日手帳の位置づけだった。

ほぼ日手帳、あるいはほぼ日というのは現代の言論空間だと良いポジションをとってるように見えて、ちょっと見なんの問題もなくそういうのに関心がある人のちょっとした関心・視野を広げていく / 生活を豊かにしていくのに寄与してるように思えるのだけど、ある程度それぞれの分野に詳しくなった人から見るとなんかビミョーな感じがする。自分もほぼ日には期待してて、現代におけるゆるやかなジャーナリズム、あるいは、言論空間というのはああいうのが理想なんじゃないかなあと思ってた時期もあった。んでもいまからするとビミョー。そのビミョーさをなんとなくマッピングできた / できてるように見えたのはおもしろかった。


「ほぼ日」「手帳」における「手帳」のほうは自己啓発→デキるビジネスマンな流れからの時間管理を目的とする自己啓発系ということになる。古くは60年代ぐらいで、近年ここまで普遍化したのは野口悠紀雄さんとかのアレの影響とかなんとか。そしてこれらも時間管理→自己の規律化における「見える化」されたマトリクスということだとわかりやすい。ただ、そういうのもやり過ぎると自らの生活がキツキツになって、、ということへのオルタナとして提示されたのがほぼ日手帳ということだったらしい。「仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい」ということで手帳のなかに意識的に余白が設定される。「この余白はなにをしても良いのだよ―」という感じで。ただ、その余白 / 自由 / 無計画、自体がそのメタレベルでは計画された自由だ、ということがびみょーだったり。「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ。W.ギヴスンとかだったら「蓋然性の壁を突破できないんだよあんたらは」というようなそういう感じの。最初から計画され、しつけられた冒険・野生みたいなの。量産化されるヴィレッジヴァンガードとかスタバとかそういうの。あるいは量産化される『前衛』芸術。平坦な戦場。

そういうのは広く後期近代の課題なのだろうけど、ほぼ日にもそういうのが表れてるんだなあとか今回おもった。



あとはそれぞれの界における「らしさ(モデル→規律)」、と、承認欲求の関係についてもうちょっと詳しく考察・腑分けしてもいいかなあと思うのだけど、「まあだいたいこれらは同じ対象領域なのだろうなあ」ぐらいに止めとこう。ベタには、「なんらかの界を選びそこでのモデルと規律があるとして、承認欲求というのはその界において賞賛されるようなふるまいがされたときに喝采が与えられる、喝采が与えらるれることでそこを自分の『居場所』として同定でき安心できるようになる(つまり(自らが是しとする)『居場所 - アイデンティファイ』とそこでの承認を求める欲求が承認欲求ということになる)」 ← そのようなものが生じるのはそもそも近代人のアイデンティティの寄る辺なさが背景としてある、ということになるだろう。

なので、そういった界の承認・正当性に振り回される以前に「自分」、あるいは、その界以外の界が設定されていればそういったところでの承認・優越感ゲームというのはどうでもいい話となる。






あと、テクニカルなあれとして、本書の元ネタ(大きく依った)お話というのはフーコーとかなのかな?とおもってたのだけど、前著を読み始めたらニコラス・ローズとのことだった。あるいは本書的にはイルーズとかか。



まあともあれ自分的にはフーコーをそろそろちゃんと読むための前哨戦としてちょうどよさそう。あと、文化社会学とか理論社会学とかやっぱおもすれーからちょこちょこ読んでこう。







以下レジュメ:






自己のテクノロジー化

内面の技術対象化

・自己啓発メディアが創りだそうとする「自己」  :前著「自己啓発の時代」

・そのような「自己」を自ら演出するときにどのような対峙の形式をとるか




感情的ハビトゥス


男性性  仕事での出世、報酬
女性性  「わたしらしさ」の演出   → 「おばさん」(所帯じみた)ら負け
時間感覚  手帳的時間管理
空間感覚  片付け、掃除的空間管理


仕事の諸局面、人間関係、消費行動、恋愛、家庭生活、美容・健康から、手帳の利用や掃除・片付けといった日常の諸ルーティン

→ 仕事における習熟・卓越や自分らしさの実現という問題に接合し得る

(※アイデンティティゲームの持ち札として)



自己啓発メディアを通じて多様にさしだされる「自己」、とそこからの「自己」の選択
それらをめぐるアイデンティティゲーム≒優越感ゲーム@承認


→ ※承認欲求ゲーム、優越感ゲームのツールとして上記の持ち札が使われる。 fb や mixi などにおけるセレブな生活感の発表と衒示

それらは「見せびらかし」であるだけではなく自らのアイデンティティを確かめるためのコンサマトリーなツールとしても機能している

「自己啓発メディアは純粋な自己反省を促すのではなく基底的な参照項(再帰性の打ち止まり地点)を残したうえでそれを促している」

cf.仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい 
→ 「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ

(←再帰的になんらかの構造にとりこまれている、あるいは、みずからがそのような構造の再構築に寄与している


ex.「わたしらしさ」で演出されるジェンダー区分け(女性は「わたしらし」く、男性は仕事バリキャリで














あらたな文化的母型(cultural matrix)≒新興宗教的なものとしての自己啓発

イルーズ(Eva Illouz,2008, Saving the modern Soul: Therapy, Emotions, and the Culture of Self-Help)


読者の選択・解釈を伴った自由度の高い応急処置の「パッチ」を今日提供することのできる稀有な文化的母型







断捨離
自分のほんとにもってよかったと想えるもの・ほんとに好きなものだけで自分の周りを囲む
→ 自分だけのパワースポットをつくる(やましたひでこ)



掃除は精神的浄化、修養に繋がるとする自己啓発的企業姿勢はローヤル(現イエローハット)創業者の鍵山修三郎が行っていた早朝掃除から(1961年)。松下幸之助の便所掃除→人間のあり方、とか。








※こういう自己啓発的なものの具体として雑誌プレジデントがあるだろうけど、そのプレジデント自体で依頼されて連載してたというのがちょっとおもしろかった








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岡崎京子の時代: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414413825.html



「である」人と「する」人 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/04/08/a-person-who-is-or-do/



posted by m_um_u at 11:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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