2015年11月26日

中村佑子、2015、「あえかなる部屋   内藤礼と、光たち」







そして死は、わたしの目から光を奪い去り、この目がけがしていた日の光に、澄んだ清らかさをとりもどさせることでしょう……




どうか、わたしは消えて行けますように




今 わたしに見られているものが

もはやわたしに見られるものではなくなることによって


完全に美しくなれますように























シアター・イメージフォーラムでやっていたのを見逃してしまって諦めていたのだけどuplinkで再上映されていたので今回見に行ってきた。


『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』 - 上映 | UPLINK
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/41162




uplinkでは12月4日まで。


最初の期待とか想定的には「母型ほか内藤礼さんの作品内容やその意図をダイジェスト的に知ることができる」「母型を見に四国まで詣でなくてもそういうのがつかめるとお得」程度だったのだけど、結果的にそういう映画でもなかった。


体験した者に静かな驚きと歓びをもたらす作品を発表してきた美術家・内藤礼。代表作である《母型》(豊島美術館)は、そこにいるひと 全ての存在を受け入れる、大きな生命体のような空間である。《母型》に出会い、その場の持つ力に強く惹かれた監督・中村佑子は、内藤に取材を依頼し、2年にわたって撮影を続けた。しかし、「撮られると、つくることが失われてしまう」取材の半ば、内藤は撮影を拒否する。一度は撮ることを諦めかけた監督だった。

しかし、時をおいて、中村は内藤のアートの本質である「生きていることは、それ自体、祝福であるのか」という問いに、内藤にはキャメラを向けずに迫ることを決意する。そして内藤の「不在」を埋めるかのように、5人の女性たちと出会う。《母型》に集まり、そこで交わされる女性たちの傷みの感覚や、生と死に対する言葉。《母型》を撮らねばならなかった監督自身の内的 必然性と、女性たちの感受性はやがて呼応し、祈りのような大きな〈存在の問い〉へ、解き放たれていく。



リンク先の映画の紹介にもあるように、内藤はこの作品のわりと早い段階で取材されることを拒否する。

そうするとこういった映画に期待される要素、「神秘的な作家、内藤礼の内面を密着取材とインタビューを通して明らかにしていく」、という構図は早い段階から失われてしまったわけで、それはこの作品の失敗を予感させた。

でも、そこで終わらなかったのがこの作品の凄みというか、監督自身の思い入れやコミットメントが表れていたように思う。あるいは、内藤礼への畏敬を別の形で表したものというか。


この作品を通じて表されていったのは内藤礼の作品や彼女の作品に向き合う姿勢、内面というか、中村監督自身の作品に向き合う態度、あるいは、作品制作を通じて得られるもの、得たいものの追求のように思えた。そこでは撮るもの / 撮られるもの、見るもの / 見られるものという一方的な関係性は解体されていく。


「わたしは、深く息をしたいときに内藤さんの作品を見るんです。」

「わたしも、、、わたしもよ。だからこういうものをつくってるの」


この会話を中心として、その周辺には内藤の言語化出来ない思い / 安易に言葉にすると失われてしまうものへの恐れが断片的に散りばめられていて、彼女が何を思って作品に臨んでいるか、どういった感覚、イメージが言語化以前、作品以前の兆しのようなものとして追われているかがなんとなく伺えた。

いくつかの内藤の作品に共通する空中を揺蕩う糸のようなもの

それはへその緒のようなものをイメージしたものかと思っていたけど、内藤がおぼろげに見ている / 感じているこういった兆しのようなもの、ということでもあったのかもしれない。

「へその緒」という明確な象徴ー意味、ではなく、単に、彼女が作品と真摯に向き合うときにイメージされるもの、微かに感じとれるものをそのまま、構成・配置していった結果、というか…。なのでその部分で似非心理学的な象徴と解釈を為してもたいして意味が無い / 作者の不快を誘うように思われる。



内藤がおぼろげにつかんでいるもの、つかもうとしているもの、そのイメージをもっとも伝える / 伺い知れる場面が内藤が作品を作っている部屋を映したときの様子だった。

白を中心に構成された生活感のあまりない部屋にネコとネコがくつろぐための猫カゴが日の当たる場所に在ることで、そこに生活がある / 暮らしているんだ、ということがようやく納得される。

ネコが居なかったらそれほどに生活感のない緊張感のある部屋だったのかもしれない。


壁の日の当たる場所には内藤の敬愛するシモーヌ・ヴェイユの写真が飾られていて、日の当たり具合によって彼女の肖像が光の中に溶け、あえかなる存在 / 視線となって部屋全体に溶けていく。



以前、自分が「恩寵」と題された作品を見たとき、直感的にヴェイユのそれからイメージしたものなのかな?と思ったのだけど、むしろあの題名はヴェイユへと続く連想を当然に導くためのヒントだったのだろう。


内藤礼「恩寵」を見て|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49de4d1fbcf1



あのときは、あの作品単体、もしくは、空から糸が垂れている一連の作品だけヴェイユのそれからインスパイアされたものなのかと思っていたけれど、この映画を見て、むしろ彼女の作品全体がヴェイユのそれを目指すもの、あるいは、ヴェイユの生を悼むものなのだなと思えた。ヴェイユや、殉教した修道士たちの生を。


「Beginning」と題された真っ白なキャンバスの作品


これを見たとき、自分的にはなにも感じられず、「この一面の白は基調に過ぎなくて、この白を装置とし、『白にナニカを見ている』ということ自体を作品としたものなのかな」、と思ったのだけど、この映画を通じて白そのものに意味を込めたものだったのだと気付かされた。

この作品に向き合うとき、内藤は朝から晩まで部屋にこもり、白のアクリル絵の具を薄く伸ばしたものをキャンバスに塗っては乾くのを待ち、塗っては乾くのを待つという作業をしていたらしい。部屋から出るのは3日に1日程度。その間、幾層にも塗り重ねられていった微かな白の積層が「Beginning」という作品だった。


いま思うとそこに何が込められていたかなんとなくわかるように思う。ヴェイユへの思い、あるいは「言葉にすると失われてしまうもの」という言葉から伺える思いから。



彼女の作品は「行」の結果のようなものなのだろう。


あるいは祈り-行の結果、痕跡のようなもの。


自分的な解釈だと「地上にひとつの場所を」といった初期の内藤の作品は祈りや聖に通じる場所、祭壇のようなものだった。言語化され象徴と意味が固定される以前の、もっと原初/原始的な。そういう意味で異星人がつくった祭壇のような。ちょうどイギリスのストーンヘンジやウッドヘンジのような。


そういうものを個人が、確たる抽象理論、式もなく作り上げていくということ。それはてきとーにアートらしく見せればできるものではあるのだろうけど、そのことに、ほんとに真摯に取り組んでいるとすると個人でそれに関わるルールを作り上げ実践していくというのは相当の緊張やエネルギーが強いられるのではないかと推察される。


それらがまだ内藤個人のための祭壇だったとして、「Beginning」や小さな人形たちはもっと社会に開かれた、祈りのようなものとなっていったのだろう。


内藤の人形の意図はいまだによくわからないのだけど


「あの震災の後から内藤さんは人形をつくりはじめた」

「ひとを、ひとをつくらないといけないとおもったんです。 もっとひとを」


という言葉からこれも単なる投影装置でもないのだということが理解された。真っ白に積層されていったキャンバスと同じく。






おそらく彼女の作品を理解していくには、彼女自身の作品を通じてというよりも、ヴェイユの思想に通じて行ったほうが早道なのだろう。


あるいは、

ヴェイユの思想もはっきりとは理解できない / 理解できないながらもしばらく後に見たときに感じること / 連想することが変わっていくように、内藤さんの作品を見た時の感触も変わっていくのかもしれない。




この映画を通じて理解、あるいは、連想した内藤さんの作品についてはここまで


以下はこの映画自体の感想。




内藤さんから取材を断られた後に中村監督がとった方法は「内藤さんの作品を見て彼女たちの中になにが起こるか / 変化するか」「どのような思いが浮かぶか / それらが交差するか」ということをドキュメントしていくことだった。


内藤さんの作品は忠実に解釈 / 理解できない / (安易な)理解を拒むものだとしても、その作品を見た人が作品を通じてなにを思ったか、どう変化していったかというのは真実となる。

女性として、あるいは人として、いくつかの問題を抱えた彼女たち、生きづらさや来るべき死への予感 / 向き合い、漠とした未来への不安と期待。

それらが、内藤さんの作品を通じてどのように交わり変わっていくか。あるいは、変わらないか。


その最たるものは、カメラには直接映ることのなかった、監督自身の物語のように思えた。


「言葉を発することも体を動かすことも出来ない母を、これから数十年介護していくということが決まったとき」


内藤さんの作品を見ることで彼女は深く息をすることを思い出せた。



それは事故にあった友人や、からっぽな自分 / 周囲に漠然とした不安を感じる女性も一緒だったのかもしれない。


なぜ彼女たちがその後のこの作品の登場人物として選ばれたのか、その理由は判然とせず、一見すると単に偶然集めたのかな?と思わせるところもあったのだけど、彼女たちの中に、彼女たちのそれぞれの人生(ストーリー)に監督が自らの断片を感じていたとしたら、その人選は必然ということだったのかも。


あるいは、そういった個人的なことを超えて、彼女たちを通じて現代の女性たちが抱える物語が一般化されて伺い知れるというところもあったのかもしれない。




いずれにしても彼女たちは最後に「母型」に集い、そこで各々になにかを感じ、人生を交差していった。



そこで感じたことは各々に異なり、一般的な解釈やより強度のある解釈、あるいは製作者の意図などからすると「違う」といったものなのかもだけど、でも、作品を体験した後に彼女たちがそれまで見ていたのとは違った考え、景色が見えたのは確かだったのだろう。


それは自分にも共通して、この映画を見終わった帰り道、いつもより周りをじっくりと感じたり味わえたりしてるのに気づいた。街灯の光とか人の表情とか、あるいは風の音や肌への感触とか。

最寄り駅の駅舎からのいつもの景色に銀河鉄道の夜を想いつつ、いつもなら街灯などの明かりの方に視線が行きがちなのに、暗闇の川にわずかに映える光、おぼろげに見える川の様子に目を凝らしているのに気づいた。

おぼろげでかすかで頼りなく、そのものの色や形もはっきりしないのだけど、そこにそれがあるという外郭―かたちはなんとなく見える / 想像できるというようなもの。


「見終わった後にそれ以前と感触や感じ方が変わる、というのがよい作品体験だ」みたいな言葉がどこかにあったように思うけど、そういった意味ではこの映画は良い作品だったのだとおもった。












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今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/412506991.html





「愛と心理療法」-「重力と恩寵」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/428386592.html




「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417357248.html


あえかなる部屋 → すっぱい葡萄|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n162228671e1d



「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ned2dda6dbb29



posted by m_um_u at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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