2015年11月25日

最相葉月、2014、「セラピスト」



セラピスト -
セラピスト -



「読んだ」ぐらいに、この本からリンクした次の読書リストをメモる程度にとどめておいても良かったのだけど、一部が次?のエントリにも繋がる話なのでメモ的に。

「昨今の若者の特徴として、主体-自我が確立しておらず、かつての精神医学の療法では対処できなくなっている」みたいなの。結果的にDSM的基準から操作主義的な対処や認知行動療法(物事の受け取り方や考え方の癖、歪みを自覚し、それによって引き起こされた行動を訓練によって修正していく心理療法)などがとられているようだけど。そして重篤な場合には精神医学的に「お薬を出す」。それは対処療法であって根治ではないのだろうなあという印象がある。平たくいうと「救われない」。まあでも、スピード化が求められる現在の精神医療な現場ではシカタガナイという側面はあるのだろう。それとは別に個人的にはこういうのかかる場合は精神医学なひとではなくセラピストやカウンセラー的なひとに診てもらいたいと思うけど。



前置き長くなったけど該当箇所の引用(一部中略)から


「箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張が高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」

「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」

「むかつく、というのは苛立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動化、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない、一、二年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには言葉やイメージが必要なのに、それがない。身体と未分化というのでしょうか。○○神経症と名付けられるのはごく少数派です」

「私が相談室に入った1980年代は、クライエントにはまだ主体性がありました。抱えている問題を言葉やイメージで伝えることができました。ところが、今は、言葉にならないというだけでなく、イメージでも表現できないのです。箱庭を作りたい、絵を描きたい、夢について語りたいという学生も減りました。かといって、カウンセラーのほうにも箱庭に誘うゆとりがありません」




学生相談員であり河合隼雄の弟子筋であるが学生の特徴について研究した「現代学生のこころの育ちと高等教育に求められるこれからの学生支援」(2009)から、相談にくる学生たちの大きな変化、3つ:


一つは、自分の言葉で悩めない、ということ

二つ目は、「巣立てない」ということ。疾患など特別な背景もないのに引きこもっている学生が増えてきている。あるいは内定鬱からパニック障害になったり。

三つ目は、特別支援を要する発達障害やその傾向をもつ人々が増えている、ということ。ネットジャーゴンだといわゆるコミュ症。



河合隼雄「発達障害への心理療法的アプローチ」との関連から、該当インタビュー


「対人恐怖症は、今はほとんどなくなってきたんです。ものすごい少ないです。ぼくが臨床始めた頃は、対人恐怖症がものすごく多かったんです。いまそれないですよ。対人恐怖にならんと、ただ引っ込んでるのや。人前に出なきゃならない、でも出られない、そういう葛藤があるから対人恐怖症になるんでしょう?今は葛藤なしにポンと引っ込んでしまうんです。赤面恐怖の人もものすごい減ってます。赤面恐怖いうたら、積極的に出てくるか、ポーンと引っ込むか。その間に立って、いちばん困ってる、人間関係の日本的しがらみの中でフラフラになってるのが赤面恐怖だったんですよ。それがなくなってきてる代わりに、途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか」(「論座」2008年1月号)



河合隼雄が見るもう一つとして、1970年代から80年代にかけて大流行した境界例が減少してきている、というのがある。


境界例とはパーソナリティ障害の一型で、もとは神経症と精神病の境界領域にあるという意味で「境界例」と名付けられた。親子関係や恋人関係、治療者との関係など二者関係にこだわり、しがみつく。相手を賞賛し理想化したかと思うと、こき下ろす。すさまじい自己主張をし、相手に配慮することはない、などの特徴がある。

境界例に代わって解離性障害(ex.多重人格)の流行があり、やがてそれも去った頃に発達障害が目立つようになった。



発達障害には授業中や座っているべきときに席を離れてしまう「多動性」や「不注意」、含みのある言葉や嫌味をいわれてもわからず、言葉通りに受けとめてしまうことがあるなどの「対人関係やかだわり等」に特徴がある。

河合俊雄はこれを「主体のなさ」ゆえの障害だと見ている。主体がないから他者が認識されず、言語が生まれてこない。主体が欠如しているから、人と関係が持てず、孤立している。あるいは、相手や状況に合わせてしまう。学生を指導する中でも、クライエントを見ても、父・河合隼雄の時代とは明らかな違いを実感する、と河合はいう。

「世の中は、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えています。実習でロールプレイをやっていても、相手がしゃべっているのを待っていられない。ためることができない。そんな学生が増えてきました」

「今は、全部が表面の世界なんです。たとえば、ツイッターにぽーんと書き込むとみんなが知っている。しかも、RTというかたちで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか、内と外の区別がない世界なので、自分にキープしておくことがなかなかできなくなっているんですね。心理療法というのは主体性があって自分の内面と向き合える人を前提としていますから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても、自分を振り返ることが非常にむずかしいんです」




反対に、よく喋るクライエントも「しゃべる」ことで己を守っている・隠しているところがあるようで、ふとした沈黙の次に訪れる言葉のほうが大事だったりするらしい。




<主体がない≠自我がない>という問題についてはこのへんでうんたらした。


あれからぼくたちは / 冬の風のにおいがした|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n00fabbd86e6c


承認欲求という言葉でミスリードされてる虚栄と刺激の構造もこの辺だろうし、「カーニヴァル化する社会」で射程していたネットによく顕れるような現代若者の特徴もこの辺の問題となる。すなわち「短期的な祭りをコンサマトリーするわりには長期的なもの、(ミードいうところの)"I”がない(他人との刺激-関係にもとづいた me だけ)」


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) -

鈴木さんのこういった関心や射程はブログ、soul for sale を読んでいても伺えるし、実際に学生指導を通じて感じた実感にもとづいているのだろう。その意味で、教科書的なオベンキョだけの話でもない実体験を通じた試考錯誤なのだろうなあとおもえ、ケーゾク話題としてのこの辺りが気になりつつ積読(録?)となっている。


2015年08月30日Part0(予告編)「ブロック化する社会をどう生きるか (文化系トークラジオ Life)
http://www.tbsradio.jp/life/2015/08/20150830part0.html




なので、このエントリ終わって次の読書ターンにとりかかったときにpodcast聴いたらおっかけ感想したりしなかったりしようかと思ってるんだけど。




「セラピスト」の話題に戻ろう。




全体としての感想や印象としては「精神分析とかカウンセリングについて悪い印象を持っている人は読んだほうがいいかもなあ。。」というものだった。自分もそうだったのだけど、<大した共感力もなく、他人の心がわからない人間がただ「精神科医」という肩書きからマニュアルで人を裁断し、マニュアル通りに薬漬けにする>、みたいなの。精神分析に基づいたシカクシメンなひと的にはそういうところもあるのだろうけど、心理療法士全体がそういうわけでもない。あるいは精神科医も。

本書は日本の代表的な精神科医であり臨床家である河合隼雄と中井久夫を中心とした「日本精神分析血風録」的なところがある。

本の雑誌血風録 (朝日文庫) -
本の雑誌血風録 (朝日文庫) -

黎明期の日本の精神医療において、試行錯誤や葛藤を通じて現在のような方法が採用されてきたこと。その過程での心あるセラピストのあり方のようなものが伺える。


また、本書は河合隼雄に代表される箱庭療法、中井久夫に代表される絵画構成法がどのような背景と目的から実践されていったかをゆるく伺えるインタビュー集にもなっている。河合隼雄は故人なのでインタビューの中心は中井久夫となり、著者である最相葉月は実際にそのセラピーを受けつつ箱庭療法を実践していく。そして、その過程で自身が精神的な病を患っていたことも判明していく。


[書評] セラピスト(最相葉月): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/09/post-ef7f.html

 個人的なことを書くことをお許し願いたい。私はずいぶん前から、自分がなんらかの精神的な病を抱えていることを自覚していた。ときどき風景が止まって見える。睡魔が襲う。重いときには、テレビのお笑い番組で笑えず、毎朝毎晩読んでいた新聞を読めなくなる。(中略)物事の判断力が鈍り、わけもなく涙がこぼれる。このままでは死ぬしかないと思い、首をつろうとしたこともあった。



自身の傷に触れるこのカミングアウトは最相葉月の作家としての、あるいは、人としてのポリシーになってるものにも思えた。「一方的に他人を断罪しない」「対象として消費しない」といったような。そして最相が会ってインタビューしてきたセラピストたちにも通じていく。

「セラピストになる内の1/3はふつーのひと、1/3は自身も過去になんらかの精神疾患があって興味を持ち共感力が高い人、1/3は現在病にある人」(大意)という辺りにもそれは表れていた。すなわち、単に腑分けし、オクスリするだけがカウンセラーではないということ。対話を通じて自身の問題にも向き合っていく人たちがいるということ。


「カウンセリングはまずその人の話をじっくりと聴くということです。話をきちんと聴くだけでも違う。きちんと聴き適切に相槌、応答していけばクライエントのほうから自身の矛盾に気づき、問題を明るみにし、修正のきっかけを提示してくれる」

このようなことが書かれていた箇所があったように思うけど、そんな感じではないかとおもった。別件で「風俗のお客の語りでもそういうところがある」「−y( ´Д`)。oO○SMなんかもお客その部分をお察しし、調度良いぐらいの力加減でカタルシスしていくのがポイントなんだよ」とかな会話したなあとか思い出しつつ。


そういうセラピストに出会えれば幸いなのだろうし、医療現場に限らなくてもそういう人はいるのだろう。










--
バブ / 団子の日 / 自己愛について / ヒロシマ(パリ、ベイルート、レバノン、フクシマ、、)というとき|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n305840021fbe


嫉妬、羨望、感謝感激雨あられ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n463bd8044424




熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/415586919.html





posted by m_um_u at 12:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック