2015年11月07日

園子温、2011、「恋の罪」





近頃これを見てよかった+個人的な思い出琴線に触れることがあったので











物語の構造的には「そんなに不自由ない生活を送っていつつも夫との関係、あるいは日々の暮らしのなかでなんとも言えない満ち足りなさ、実存の希薄さを感じた女性たち」ということで、村上春樹の小説にもチラホラでてきたり、山本文緒的なものだったり、あるいはこないだ見た「空中庭園」も同様のテーマだった。





「空中庭園」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n3bfc95e30ec1



「空中庭園」にしても「恋の罪」にしても(あるいは「ゴーン・ガール」にしても)、バイオレンスとかサスペンス、事件的なもので進行していく部分はファンタジーで、本当の、あるいはこういう問題に共通する女性の心理の根っこの部分は「実存の希薄」というところなのだろう。「恋の罪」のモデルとなった東電OL事件はそういうもので、世間的には十分に満たされている、勝ち組のはずの東電OLがなぜあんな事件を?というとところで関心を集め、けっきょくその理由は明らかにされていない。そこに現代の都会の女性、あるいは現代人に共通の心の課題が仮託される。


「ゴーン・ガール」にしても「紙の月」にしても、現実では女性たちは事件を起こさずに日々を送っていたのかもしれない。モノやお金的にはそれなりに満ち足りてはいるけれど、どこかで欠けたそれに空虚さを持つような。はっきりと「これ」とは確定できないけれど、なぜか自分が満ち足りてないような、そういう不安や疎外感のようなものを抱えていたのかもしれない。その不安や空虚さのなかで、彼女たちの精神世界のなかで生まれた修羅やファンタジーが「ゴーン・ガール」や「紙の月」だった。彼女たちの日々の空虚さからすれば、銀行の金を着服することや、サイコさんよろしく夫をあやつるために完全犯罪的な暴力をふるうことはむしろ爽快だった。爽快という言葉は語弊があって止むに止まれぬ流れでそうなっていったところはあっただろうけど、そういう形のファンタジーを通じて彼女たちは自身の空虚をカタルシスしていった。あるいはドラマ「すいか」の小泉今日子とか。









彼女たちに欠けていたもの、あるいは奪われたものはなんだったか?


本作ではそれを「恋である」と仮定する。

恋といっても LOVE ではなく ROMANCE のほうの。

恋愛というかロマンティックな幻想でありファンタジーのほうの。

彼女たちをわくわくどきどきさせるような、あるいは、灰色の日々に彩りを与えるような。そういった色味。




結論から言えば、本作の題名からも彼女たちが恋(ロマンス)を求めたことは罪悪であるとされる。それは悪であり罪であり、罰が与えられるものだと。


或る女はその空虚を肉の刺激で埋めることに出口を求め

或る女はその空虚に仕事を通じて他者に必要とされることに出口を求め

或る女はその空虚でつくられた穢れに自らを堕とすことで城を見つけようとした









彼女たちは城という名の永遠を求めて恋という名の言葉の迷宮をさまよい、ロマンスを夢見た罪を贖わされていった。

では、彼女たちがそれを夢見たのは罪だったのか?

ただロマンスを求めただけのことがそんなに悪いことだったのか?

彼女たちの求めたものは愛だったのか?



この作品の主人公といえるのはミツコという女性で、彼女は助教授という職を持ちながら渋谷円山町というラブホテル街で立ちん坊をしている。

彼女のポリシーは「愛の無いセックスからは金を取れ」ということ。それをいずみが実践すると男たちは逃げていく。「変な女」と言い残して。

「お金が介在することで、却って男たちの態度がはっきりする。中には金を対価として要求されること、売春だということで却ってさっぱりと応じていく男たちもいるけれど、大部分の男たちは金を要求すると態度を急変する。彼らは単にセックスを『無償でサービスしてあげる』ということにしたかっただけらしい」

主婦という立場ではあるけれど半ば夫のメイドとして買われたいずみの生活は無機質なルーティンで、きれいで漂白された規則正しい快適のなかでセックスも抜け落ちている。小説家の夫を崇拝するいずみはそのことに直接的な不満を言わないものの日々の生活の中で空虚さを抱えていく。

外で働くことを通じてその空虚さを埋めようとするなかで、なし崩し的に性の罠にからめとられていき、いずみのセックスは騙し取られる。

ミツコとの出会い、あるいはそれを通じた「愛の無いセックスからは金を取れ」という言葉と実践は騙し取られたいずみのセックスを回復していくリハビリテーションだった。

彼らが事後に手に押し込んできた金や、甘い言葉と引き換えに奪った空虚なセックスを、いずみは「自らを売る」ということを通じて取り戻していった。「愛の無いセックスからは金を取る」という意志と行動を通じて。それはいずみの主体性の回復でもあった。

そういった流れの中で夫との出会いは必然で、夫とのセックスを通じた恨みの吐露とカタルシスは逆説的にいずみが彼によって奪われていたことを明らかにした。十分に与えられてはいるけれど与えられてはいない。あるいは、与えられてはいるけれど与えることはできない。傷つけられはしないけれど傷つけることもできない。そういった関係に追い込まれ奪われていたこと。

しかし、夫とのこういった出会い、風俗嬢という立場からの出会いは夫との関係の終焉を意味し、いずみは流れ流れて片田舎のうらびれた風俗街で1000円でカラダを売るようなクソ女となって物語は幕を閉じる。最後にしょぼくれた風俗街のクソ男に歯向かった罪と罰を腹に食らいながら。

それでもなおいずみが最後まで手放さなかったもの

うらびれた風俗街の1000円の女に落ちぶれても手放さなかったものがこの言葉となる。




言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる







それはかつてミツコが壇上で語っていた言葉で、詩それ自体の内容というよりミツコの勇姿と思い出を代表したものだったのだろう。

あんなにボロボロに裏切られても、かつての自分を救い導いてくれたミツコとの思い出。



この詩で謳われるのは言葉を覚えることで余計なことを考えてしまう人の世の、あるいは自分というにんげんの心の弱さだけれど、ミツコといずみとの関係でいえば「言葉」は「ロマンス」に置き換えられる。

では、女たちがロマンス、あるいは真の愛情を夢見たのは罪だったのか?

彼女たちの惨めな最後は罪の必然/罰とされるのか?



物語の最後にこの事件を追っていた刑事の和子もいずみやミツコを追うように旅立つことが示唆される。

「ある主婦がゴミ収集車をおっかけているうちにふだんはいかない街にいったんだって。そして、そこで自分はなにやってんだろってそのままどこかにいってしまったんだって」

夫から聞かされていたこの話をなぞるように。



それは、ミツコやいずみと同じような不幸な結末を暗示するものだったのか?


あるいは、和子なら別の道筋を見いだせると暗示するものなのか?


その解釈は見るものに託されたものだったけれど、自分的には後者なのではないかと思った。





案外と、和子はゴミ袋を置いて家路についたのかもしれない。


そして、お腹減ったあ、とかいっておでんを囲むのだ。









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「日本型近代家族」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/429041084.html


ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html


「ニンフォマニアック」補遺: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425456769.html


美術手帖「かぐや姫の物語の衝撃」から|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nfc1747c692dc






posted by m_um_u at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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