2015年11月05日

「ナグネ」








あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。









辛よ さようなら

金よ さようなら

君らは雨の降る品川駅から乗車する


李よ さようなら

も一人の李よ さようなら

君らは君らの父母の国にかえる


君らの国の川はさむい冬に凍る

君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る




ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる

ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる


雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる

雨は君らの熱い頬にきえる


君らのくろい影は改札口によぎる

君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる


シグナルは色をかえる

君らは乗りこむ


君らは出発する

君らは去る


さようなら 辛

さようなら 金

さようなら 李

さようなら 女の李

行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ

ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ

日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾

さようなら

報復の歓喜に泣きわらう日まで











今朝この本を読み終えたところでじんわりとした感動というか、なんともやるせない滋味に眉を寄せて心地よい寂しさを感じつつ、ふと、先週ヲクサンたちと行った店が中国朝鮮族の人たちの店だったのではないか?とおもった。


ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -
ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書) -















うメエエエ!羊好きが思わず唸るラム肉の名店8選 | 日刊キャリアトレック
https://www.careertrek.com/daily/hitsuji8/


玲玲家園菜 (カエンサイ) - 内幸町/中華料理 [食べログ]
http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130103/13162031/


羊の他にもイノシシとかキジとかジビエが楽しめるということでここにした。最初は羊、イノシシ、キジなどのアラカルトなセット。けっきょくクミンが利いた羊串が一番おいしくてリピートの時には羊串セットで頼んでいた。んでもパクチーときゅうりのナムル?ぽいのとか干し豆腐とかもおいしくて、なによりここは餃子の店なのだとプッシュされた。「うちは大連料理と四川料理なのです」とのこと。大連料理と聞いてもそのときにはピンとこなかったのだけどこの本を読み終わって、黒竜江省の位置や大連の位置を確認したらちょうど朝鮮半島の北東・北東ということで位置的にも近くて、もしかしてと思ってぐぐったらやはり大連も中国朝鮮族が多くいる地域だった。いわゆる満州的な地域にここも入っていたのだろうか。

「もしかして大連も?」とおもった他の理由は大連が日本のアウトソース的なところとしてけっこう有名だから。本書にもあったように、それは朝鮮語と日本語の文法が似ているので、結果的に中国朝鮮族が日本語を戦略的武器として選んだという面があったという理由から。満州時代に一度、半ば民族浄化的に母国語ではなく日本語で話すことを強いられ、第二次大戦後は共産党から日本語を禁止され、ケ小平以降の改革開放に移ってからふたたび日本語を選んだ。そのため彼らの日本語や日本、日本人に対する意識は複雑で、尖閣諸島のゴタゴタの折には日本に対する怒りや憎しみが強かったみたい。それでも、彼らにとって日本語は自分たちの武器となり得る手段なので、それはそれとして割りきっていった。というか、中国朝鮮族はもともと朝鮮の出身でありながら韓国では2等国民的な差別を受けるぽい。オーバーステイの移民として軽く見られ差別されていく。中国では彼らは貧しいままだし。そういう事情もあって「日本も中国政府も同じようなものだよ。そのことは仕方なかったんだ」というおばあさんもいた。


ついったでリンクした朝鮮族についてのサイトで語られている朝鮮族の印象というのはそういうもので、韓国人による偏見もあって「彼らはずるくて傲慢で」て印象が語られる。でも、実際、彼や彼女らが強情でなかなか人と打ち解けないというところもあるのだろう。「ああ、こういう中国人いるよなあ。。」的な。片田舎の中国人。本書を読んでそれは彼らの過去や現在のこういった情況からだったのかなあとか思った。新橋の中国料理の店の人達も、客と店の人という関係でなければそういうところがあったかもしれない。あるいはそもそも大連料理というだけで朝鮮族ということでもなかったのかも。




極東ブログの解説にもあったように、この本は全体的には「中国朝鮮族」という知られざるマイノリティの歴史と現状について学ぶ機会となる本で、そういった意味でも勉強になったのだけど。やはり、全体を通じたなんともいえないようなやるせなさが最大の特徴となる。ちょうど北朝鮮のさらに北に位置する北緯の地の、シンと冷えきった大地の冷気がかえって肌に心地よく感じるときもあるような。そういった心地よさ。


この本を通じてずっと思っていたのはたった一度、駅で2、30分話したことからアルバイトとして雇い、身元引受人となり、お金やその他の世話をしていった著者の良心のようなもの。もちろんアルバイトとして雇ったのは著者にも十二分に得るものがあったのでギブアンドテイクだったとは言っていたけど。見ず知らずの、どちらかといえばとっつきにくいだろう朝鮮族の女性にそこまで親身になっていく、親身になりつつもプライベートは保ち接していくというのはどういうポリシーというか倫理観なのかなあとか。あるいは、好奇心と職業柄なのかなあとか。そして、援助を受けた彼女が感じているだろう呵責に対して「あなたのことを書いたこの本を出したことで、いままでのことは取材ということだったのだからお相子よ」とする感覚。途中までそういうつもりはなくて、「一時は本気で養女にしようかと悩んだ時期もあった」、というほどだったのだからそういう利害や打算は考えてなかっただろうけど。文字通り親身になるほど、義理の親と子といってもいい関係になりつつも束縛するでもなく接していく距離感。著者はその距離感も「わたしは恩恵についてなにも知っていなかった、知ろうとしていなかったのだ」と反省していたけど。


そして、半ば親子のような関係でありながら敢えて「友」と呼び、そう呼びつつもタイトルに「友よ」とは付けない、その流儀のようなもの。





そのことに、通常の親子関係や恋人関係における距離感を省みつつ、それが市民的良心というものなのかなあ、とか、あるいは、利害関係や見栄や打算や野暮なもたれ合いではない深い愛情や友情というのはそういうものなのかなあ、とか。いろいろ名前をつけて納得しようとするもしっくり来ず。そんな名付けで済まされるものでもないのかもなあとか思って、かつての自分の似たような体験に思いを馳せたところでこのエントリを綴じよう。





(良心の呵責、あるいは呵責の投げ愛についての話題とも関連してもうすこしごにょごにょしようかとおもって、以下に関連する素材もまとめたし、ボリュームも多くなるだろうからnoteではなくblogにしたけど、こういうことにくらべてそういうわたしただしい」「わたしいいひと」「わたしリア充」的な見栄や打算のガキっぽさうずまくところの解説はなんかアホらしくなったのでやめとこう。我ながら目汚しだなとおもいつつツイート遡って編集したしせっかくなので程度で貼り付けとくけど)































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甘イ果実ト幼イ微熱|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n775a6de8144c



正月、酒を飲む|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4fe5accdbedf



ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/423419290.html




posted by m_um_u at 17:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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