2015年10月24日

スコット・ペック、1978、「愛と心理療法」



んじゃ一個前のエントリで言ったとおり「愛と心理療法」から気になったところ引用で、


愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -




今まで、訓練こそ人生の問題を解決するのに必要な基本的手段であると述べてきた。その手段とは、、苦しみを引き受ける技術、つまり、問題を積極的に受けとめてうまく解決し、その過程で苦しみを受けながら学び成長してゆくことである。訓練することを教えるとは、いかに苦しみ成長するかを教えることにほかならない。

これらの手だて、私が訓練と呼ぶ、苦悩するテクニック、建設的に問題の苦しみを経験する手段とは何か。それは次の四つである。楽しみをあとまわしにすること、責任を引き受けること、真実に忠実であること、そしてバランスを取ること。明らかにこれらの手段は、かなりの練習を必要とするようなややこしいものではない。10歳になればほとんどすべての子どもが使いこなせるような、単純な手段である。だが、大統領や一国の王でさえ、この単純な手段を用いるのを忘れて没頭することが多い。問題は手段の複雑さではなく、用いる側の意志にかかわっている。これらは苦しみを避けるのではなく苦しみに向かうための手段なので、もししかるべき苦しみを避けようとすれば、使われないことになる。




一貫した親の愛と保護に恵まれた幸運な子どもは、その結果、自分の価値を信じる深い内的感覚のみならず、深い内的安定感をもっておとなになる。子どもはみんな、見捨てられるのではないかと恐れているが、それも無理からぬことである。この見捨てられる恐れは、ちょうど子どもが親と別個の存在であるとわかりはじめる、生後六ヶ月にめばえる。子どもは、個人として自分が無力な存在で、生存のいかんが親の掌中にあることをわかっているからである。子どもにとって、親に捨てられることは死に等しい。多くの親は、他の面では比較的無知で鈍感であっても、このような子どもの恐れは本能的に感じとって、来る日も来る日も何百回、何千回となく子どもを安心させている。「お母さんもお父さんもおまえをおきざりになんかしやしないよ」、「すぐに連れに戻ってくるからね」、「おまえのことを忘れるなんてありっこないよ」と。その言葉が来る月も来る年も言われた通りであるならば、思春期を迎えるころには、捨てられる恐れは子どもから消え、かわりに、この世は必要なときにはいつでも守ってもらえる安全なところだという、深い内的感覚が育つ。この一貫した内的安全感があるので、子どもはいろんな満足をあとにまわすことができる。家庭や両親と同じように、満足する機会は必要な場合いつでもつかまえられる、と安心しているからである。






私には、才気煥発だが気難しい知人がいる。放っておけばいつまでも雄弁に、社会の圧倒的な力、人種差別、性差別、軍隊、産業組織、彼と仲間の長髪に文句をつける田舎警察などについて、しゃべり続ける。何度も何度も私は、彼がもう子どもではないことを言って聞かせようとした。子どもは、いろんな面で依存しているので、事実上、親が色んな面で支配力をもっている。実際、親は子どもの幸福に大いに責任があり、子どもは親次第である。親が圧倒的 ―そうであることが多いのだが― であっても、子どもはほとんどどうすることもできない。子どもには選択の余地がかぎられているからである。しかしおとなは、身体的に健康な場合、選択の可能性が無限に近い。だからといって、選択に苦痛がないというわけではない。どちらもいやでもましなほうを選択しなければならないことも多いが、それでも、自分の力で選ぶことができる。この世界には圧倒的な力が働いているという知人の意見には、私も同感である。しかし、そのような圧力にどう反応しどう対処するかは、そのつど自由に選ぶことができる。警察が「長髪」を嫌う田舎に住み、髪をのばすのは彼の選択である。彼には都会に引っ越すか髪を切るか、あるいは警察署に対してキャンペーンを行う自由さえある。頭脳明晰であるにもかかわらず、彼はこれらの自由を認めようとしない。おのれの人間としての大きな力を受け入れ享受するかわりに、自らの政治力のなさを嘆くほうを選んでいる。自由に対する愛とそれを阻む圧力について語るが、自分がいかにその犠牲になっているかを語るたびに、実はその自由を手放しているのである。いくつかの選択が苦痛をともなうというだけで人生を恨むようなことを、彼がそのうちやめてくれるよう私は望んでいる。







愛について二番目によくある誤解は、依存症を愛とする考えである。これは、心理治療家が日々ぶつからねばならぬ問題である。配偶者や恋人に拒否されると、自殺を企てたりそうするようなポーズをとったり、またはそれで脅かしたり、何もできないほど落ち込んでしまう人に、劇的なかたちでその影響が見られる。「生きていたくない。主人(妻、恋人)がいなければ生きていけない。それほど彼(彼女)を愛しているんです」と彼らは言う。「あなたはまちがっていますね。あなたは夫(妻、恋人)を愛してなどいやしませんよ」と、私が言葉を返す ―そうすることが多い― と、彼らは怒っていう。「なんですって。彼(彼女)なしでは生きられないって今言ったでしょう」。そこで私は次のように説明する。「あなたが言うのは寄生であって、愛ではないんです。生きるのに他人が必要なら、あなたはその人の寄生虫なんだ。その関係には選択も自由もありませんね。それじゃ愛というよりは必要性の問題だ。愛とは自由に選択することなんですよ。ひとりでも十分やってゆける人が一緒に生きることを選んだ場合にかぎって、ふたりは愛しあっていると言えるんですよ」


依存症とは、誰かが積極的に面倒を見てくれる保証がなければ、不全感に悩んだり十分に働けないこと、と私は定義している。身体的に健康なおとなの依存症は病的である ―それは病気、精神的な病ないし欠陥の現れである。しかしそれと、ふつう、依存欲求とか依存感情と呼ばれるものとは区別しなければならない。われわれにはみんな ―人や自分に対してそうでないふりはしていても― 依存欲求と依存感情がある。赤ん坊扱いされたい、何もせずに世話されたい、本当に自分のためを思ってくれる強い人に保護されたい、と願わない人はいない。どんなに強い人でも、どんなに世話好きで責任感のあるおとなでも、自分の内面をしかとのぞいてみれば、たまには保護されたい、という欲求がみつかるはずである。どんなに年を取り成熟した人であれ、自分の人生に望ましい母親像や父親像を見つけたいと思っている。しかしそのような欲求や感情がその人の生活を支配しているわけではない。それらが生活を支配して生のあり方まで決定し、ただの依存欲求あるいは依存感情以上のものになることが問題なのである。そういう人は、「受動的依存的性格障害」と診断される精神障害にかかっている。これはたぶん、精神障害のなかではもっともふつうのものである。

この障害のある人は、愛されようとするのに忙しすぎて、愛するエネルギーが残っていない。飢えた人が、食べ物のあるところならどこにでもたかってゆき、他人に分け与える食べ物をもっていないのに似ている。彼らの内部には空洞があり、底なしの奈落の満たされるのを切望しているが、完全に満たされることはないらしい。彼らには「いっぱいに満たされた」感じがないし、完全という感じもない。たえず「自分の一部がどこかにいってしまった」と感じている。孤独に耐えるのがたいへん難しい。全体性を欠けるため本当のアイデンティティをもたず、人とのかかわりによってしか自分を規定できない。







受動的な依存症は、愛の欠如に由来している。受動的依存的な人々の抱えている内的な空虚感は、子どものとき、子ども時代を通じて、一貫してそこそこに愛され世話してもらった子どもは、自分を愛すべき価値のある人間で、自分に忠実でさえあれば愛され面倒をみてもらえるという、根強い感覚をもっておとなになる。愛と世話が欠けていたり、気紛れにしか与えられないで育った子どもは、そのような内的安定感をもたずにおとなになる。むしろ内的な不安感があり、「十分ではない」感じと、この世は何が起こるかわからないし何も与えてくれない、それだけ自分が愛すべき価値のある存在かどうか疑わしい、という感覚がある。だから、愛され配慮され関心を払ってもらえるとあらば、われ先に突進し、いったんつかまえると必死にしがみつういて、愛とは無縁の操作的なマキャベリ的行動をとって、せっかくの関係そのものを破壊してしまうのも無理からぬことである。これも第一部で述べたことだが、愛としつけとは関連しているので、愛もなく十分な世話もしない親はしつけにも欠けている。子どもたちに、愛されている感覚を与え損なっているのだが、同時に自制心を養うこともしていない。受動的依存的な人の過度の依存症は、彼らの性格障害を示す主な徴候にすぎない。彼らは自制心の欠如した人たちである。人々にかまってほしい気持ちを我慢しようとしないし、できもしない。人とのつながりを必死に作り上げ保とうとして、誠実さを投げ棄てる。諦めたほうがよい、すりきれてしまった関係にしがみつく。もっとも重大なことは、自分に対する責任感に欠けていることである。自分の幸せおよび充足感の源として、受け身のままに他人、しばしば自分の子どもまであてにしている。だから幸せでなく満たされていないと、基本的に他人のせいと思ってしまう。そしてそのためにとめどなく腹を立てている。他人が彼らの要求をすべて満たし、幸せに「してくれる」ことはありえないから、いつも他人に裏切られてきた感じでいる。



要約すると、依存症が愛と紛らわしいのは、それが人と人を強く結びつけるからである。しかし、それが実際の愛であることはない。正反対である。それは親の愛の欠如からきており、同じことが繰り返される。与えるよりは与えられることを求め、成長よりも幼児性に固執する。解放するよりも罠にはめ、拘束する。窮極的には、人間関係を形成するよりも破壊し、人間を作るよりも崩壊させる。





以上のことが示唆することは、幼児やペット、そして依存的で従順な配偶者に対する「愛」は、「母性本能」、より一般的に言えば「親の本能」とでも言うべき本能的な行動パターンだ、ということである。これを「惚れこみ」という本能的な行動にたとえることができる。惚れこみは比較的努力なしにできるし、意志あるいは選択による行動では決してないのだから、愛の純粋なかたちではない。それは種の存続を促すが、人間の進歩や精神的成長を目指してはいない。他者に手を伸ばし人々を結ぶきずなを作りだし、そこから本当の愛が始まるかもしれないので、愛に近いものである。しかし結婚を健全で創造的なものに高め、健康な精神的に成長する子供を育てて人類の進化に貢献するためには、さらに多くのことが必要である。

要するに、養育はただ単に食物を与える以上のものでありうるし、通常、そうあるべきなのである。また、精神的な成長を培うには、本能によるプロセスよりずっと複雑なものが必要となる。第二部の冒頭で取りあげた。息子をスクールバスに乗せようとしない母親がよい例である。ある意味では息子を慈しんでいるのだが、それは息子の必要としない慈しみで、精神的成長を促すよりも明らかに遅らせている。似たような例はこれにとどまらない。太り過ぎの子どもに食物をおしつける母親。息子には部屋いっぱいのおもちゃを、娘にはたんすいっぱいの服を買ってやる父親。何でも子どもの言う通りにして制限しない親。愛は与えるだけのことではない。分別を働かせて、あるときは与え、あるときは与えない。あるときは褒め、あるときは批判する。喜ばせるだけでなく分別をもって対決し、押したり引いたりする。愛とはリーダーシップなのである。ここで「分別」とは判断の必要なことを意味している。判断には本能以上のものがいる。そのためには思慮深い、しばしば苦しい決断をしなければならない。







恩寵の定義

第W章ではこれまで、次のようなさまざまな特性を共有する現象を論じた。


a.それらは人間の生活と精神的成長を培う ―支え守り高める― のに役立つ。

b.それが働くメカニズムは、現在の科学的思考にもとづく自然の法則によっては、完全に理解できないか(身体の抵抗力や夢のように)、まったくあいまいである(超常現象のように)。

c.それらはひんぱんに日常茶飯事的に生じ、本質的に人間に普遍的なものである。

d.潜在的には意識に影響されるが、その源は意識的な意志の外にあり、意思決定のちからはおよばない。



一般には別々に思われているが、これらの共通点は、それがひとつの現象のさまざまな現れであることを示している、と私は感ずるようになった。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ、免疫グロブリン、夢見の状態、無意識などと科学的に概念化される以前から、宗教家はつねにこの力に気づいており、それを恩寵と名づけていた。そしてこれを讃えて「何という恩寵、その甘美な響き……」と歌ったのである。

この、人間の意識の外から来る強い力について、われわれ ―適当に懐疑的で、科学的な心をもっている― は何をなすべきなのだろうか。この力に触れることはできない。測定するしかるべき方法もない。しかしそれは存在する。現実なのである。そこでわれわれは、それが伝統的な科学的概念に容易にあてはまらないからと、無視すべきなのだろうか。それは危険なことと私は思う。恩寵という現象を考えに入れることなしに、宇宙およびそのなかの人間の位置、したがって人類の性質を理解することなど望むべくもない、と考える。






それにしても個人としてかつ種としてのわれわれに、内なる無気力という自然な抵抗に逆らって成長することを促す、この力は何なのか。すでに名はつけてある。それが愛である。愛は「自分自身と他者の精神的成長を養うため、おのれを広げようとする意思」として定義されてきた。われわれが成長するのはそのために努力するからであり、努力するのは自分を愛するからである。われわれが自分を向上させるのは愛によってである。他者が向上するのを助けるのは、他者を愛することを通してである。愛すること、おのれを広げてゆくことこそ、進化の行為である。それはまさに進みつつある進化なのである。あらゆる生命体に存在する進化の力は、人間においては愛として顕れる。人間の本性のなかで、愛はエントロピーの自然な法則にあらがう奇跡の力なのである。









人々の愛する能力、したがって成長への意志は、幼少時の親の愛のみならず、一生を通じての恩寵、神の愛、によっても培われる、と私は信じるようになり、それを示そうと努めてきた。これは彼らの意識外の強い力で、無意識の働きや両親以外の愛のある人の働き、さらにわれわれの理解していない別の方法で作用する。人々が愛のない養育のトラウマを超え、人間進化の尺度でははるかに親のレベルをこえる、愛のある人間になるのは恩寵のゆえである。それではなぜ限られた人が精神的に成長し、養育環境を超えて進化するのか。私は、恩寵はあらゆる人に与えられており、われわれはみんな神の愛に包まれ、誰しもが同じように気高い、と信じている。だから私にできる唯一の答えは、ほとんどの人が恩寵の招きを気にとめようとせず、その助けを拒んでいる、ということである。私は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのだ」というキリストの言葉を、「われわれのすべては、恩寵によって恩寵へと招かれている、しかもほとんどの人がその招きに耳を傾けようとしない」という意味に解釈したい。

そこで問題は、「なぜ一握りの人しか恩寵の招きに気をとめようとしないのか」である。なぜわれわれのほとんどは実際恩寵に抵抗するのだろう。以前、恩寵が何かしら無意識にわれわれを病から守ることを述べた。では、ほとんどそれと同じようにどうして健康に抵抗するのだろう。この疑問の答えはすでに出ている。それが怠惰、われわれみんなが呪われているエントロピーという原罪である。恩寵に人間進化の階段をわれわれに登らせる窮極の力があるように、その力にあらがって、ぬくぬくと現状に甘んじさらに存在の厳しさを徐々に失わせさえしようとするのが、エントロピーである。







posted by m_um_u at 19:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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