2015年10月24日

「愛と心理療法」-「重力と恩寵」


「愛と心理療法」を読みつつ、そこでのエントロピーの説明のところで「重力と恩寵」と似てるんじゃないかと思ったので「重力と恩寵」を読みなおしてみた。



以前よりもちょっと理解できるようになった感じ。



愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -


重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -


「愛と心理療法」から「重力と恩寵」を連想したのは「恩寵」や「下降」のイメージがヴェイユの断片的なそれよりも分かりやすかったからで、今回そういうのを軸に読みなおしてみて以前より読みやすく思った。すくなくとも前半は。


カレー / 「愛と心理療法」-ヴェイユ / 銀杏|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb3c2ea2ce9b2

「人には恩寵に向かう契機が差し向けられてるのに対してほとんどの人はそれに背を向けている」「恩寵-セレンディピティを得られるのは苦しいことに向き合う回路と同じである」「そこには愛の回路がある」「愛とは、人が自分に閉じこもらず、自分の範囲を広げていくことである」「それはしばしば苦しみを伴う」「その苦しみを支えるために人の愛情がある」「親の愛が足りなくても、あとから人の愛に気づけるようになれば、恩寵は自然と訪れる」

「人はしばしばそういった回路から逃れる - 面倒臭がって/自分を守るために回路を開かないのは怠惰のエントロピーがあるからである」というのはヴェイユが言っていた重力と下降のイメージと同じようにおもった。ヴェイユの場合はこういった説明がなかったけど。


(「愛と心理療法」についてのメモ / 抜粋は次のエントリでするかもしれない)



「重力と恩寵」でだいたいは完全な理解とはいえないまでも連想とかイメージできるのだけど特にわからないなとおもったのは「遡創造」のところだった。


創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、わらわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。

われわれの生存は、われわれが存在しないことに同意するのを待つ神の意志によってのみ成り立っている。

神は絶えず繰り返して、われわれに与えたこの生存を物乞いしている。それを物乞いするために与えているのである。



この理路は「愛」の箇所にも通じる、


愛はわれわれの悲惨(ミザール)の一つのしるしである。神は自分自身しか愛することができない。われわれはなにかほかのものしか愛することができない。

神がわれわれを愛しているから神を愛すべきである、ということではない。神がわれわれを愛しているから、われわれは自分自身を愛さなければならないのである。この動機がなければ、どうして自分自身を愛することができよう。このようなまわりみちを経なければ、人間は自分自身を愛することができないのである。


もし私が目かくしをされ、両手を鎖で杖につながれたとしたら、その杖は私を事物からへだてはするが、それを媒介として私は事物をさぐり知ることができる。私は杖しか感じることができない。知覚の対象となるのはまわりの壁だけである。創られたものの愛の能力についても同じことがいえる。超本性的な愛は創られたものにしか触れず、神にしかおもむかない。神は創られたもののみを愛する(われわれにとっても、そのほかに愛すべきものがあるだろうか?)、ただし、それらを仲立ちとして愛するのである。すべての創られたものを、仲立ちとして、平等に愛しており、そのなかには神自身も含まれている。他人を自分自身のように愛するためには、一方では自分自身を他人のように愛することが必要である。




スコット・ペック的な理解では「人の愛は他者を理解するために自分(エゴ)を捨て、他者や世界といった自分にとってわからないものに向け自分を開示・理解・広げていくことである。それは苦しみを伴う。その苦しみを埋めるための初期段階では親などの愛情が必要になる。親の愛情が薄かった人はあとからこの訓練を行うために介助者の愛-理解が必要となる」ということで愛は苦しみに耐えるための資源(であり理解しようとする行為と結果)とされるわけだけど、ヴェイユのここでの記述はその定義・理解では混乱が生じてくる。


たぶん、ヴェイユのこの理路は「神は存在する・神はあまねくすべてのものを愛しているとするならばなぜわれわれの生活は苦しいままなのか?救われないのか?それは愛されてないということ、神は存在していないということなのではないか?」という問いに対する神の存在を前提とした理路なのだろうなあと思うのだけど。神学的な。なので神学の素養があるといいのかなあと思いつつ、「神はわれわれを通して見る」の部分からの連想から、高次元の存在としての神がわれわれの世界を「見る」ということについて、この辺りも関わってくるのかなあとか思った。


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ned2dda6dbb29


目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
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ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖 -
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全体として、ヴェイユの「他人への期待を捨てること」「真空になること」という在り方は仏教における煩悩を捨てるうんたらと似てるなあとか。愛も煩悩の一つなので。そんなことをおもってたら仏教関連のものも読んでた記述があったけど。



連想ついでに言うとヴェイユのこういう在り方というのは宮沢賢治の「春と修羅」なんかも想ったり、トリアーの描く女性像を想ったり。



ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html


「ニンフォマニアック」補遺: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425456769.html



タルコフスキーなんかも関連でおもうけど、こっちは自分的にはまだはっきりとはフィットしない(トリアーのほうがわかりやすい)。ただ、色や質感、空気感とか温度的にはこの辺なんだろうなあとか思う。


ノスタルジア|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49dd5dc2aae0


TSUTAYAでタルコフスキー / ホヤ・鯛|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n5ffc929ca6ea





まあでもそのうち経験とか思いがたまれば感じ方も変わるのかなあとか。「重力と恩寵」も同様に。


そういう意味だと棚に置いてても良い本なのかもしれない。



























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M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427158508.html




今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/412506991.html

posted by m_um_u at 06:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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