2015年10月03日

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」




文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -
文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -


最近の一連のあれでちょっと辟易したから読もうと思ったのか、それとも「あ、そういやこれ読もうと思ってたけど忘れてたな読もう」てことでこっちを先に読んでたのかわすれたけど、最近の一連のあれと読んでいたこれがリンクして、というかネットにおけるみょーに祭りをする人たちの問題とこの辺がリンクして自分的にはけっこう有益な読書体験だった。


「邪悪」に背を向ける|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4a9c37426e0e



人に対して邪悪であるというのはビミョーな感じで、「そこまで強い言葉を発しなくても良い(切断しなくても良い)」「そういう自分が邪悪かも」というのはあるんだけど、世の中にはある程度見切りを付けないとズルズルと悪い方向にすがってくる人たちというのがいるので。あるいは自分がそういう人たちに関心をもっても時間の無駄なのでさっさと切ったほうが良いみたいなの。


彼らが邪悪なのではなくそう言ってる自分が邪悪なのかもしれないけど。すくなくとも自分はそのように反省ができる。
でも、こういった倫理というか誠実さ?の突き詰めみたいなのは人によってはモラルに対するハラスメントにも感じるのかもしれない。自分は単に他人にそれをむけてるだけではなく自分自身に向けてるものだからふつーのことなんだけど。まあそういうので(∩゚д゚)アーアーききたくなーいてやる人たちはけっこういるだろうなとおもうし、そのぐらいで邪悪というのもどうかなってのもあるけど。人におけるだいたいの悪か正義かみたいなのははっきりと定常的なものではなく、それぞれがそれぞれの情況や問題の中で正 / 悪の位置がちがったり、悪と善の中間 - 連続体にあったりするので。

とりあえず、自分たちの正義とか正しさみたいなのは喧伝しつつ他人を貶めてばかりの人たちの醜さ、あるいは彼らが信じる雑味のある倫理観にはすこしイラッと来る / 無駄に時間をとられるのでみないことにした。
どうせ自分が声を上げても(∩゚д゚)きこえなーいようだし、だったらもうちょっと直接に語りかければどうか?というとモラハラにとられるのかもだし。まあそこまでコミットすることでもないので。






では、そこで挙げられる「邪悪」あるいは「悪にある人たち」の定義や特徴、その定義の範囲の限界とはなんなのか?そういうのが定まってないと無制限に自分の恣意で気に入らなければ「邪悪」て決めつけることになりかねない。


そうおもったので本書で挙げられていた邪悪の定義・特徴に関わると思うところを自分なりに抜書きしてみた。

そういうわけでこのエントリはその定義・引用のメモ的な性格を主とする。あとで自分で見返したりもしたいので。


加えていうと本書の内容は「うそをつくひとたち」というよりは「悪」や「邪悪」というものを精神医学的に定義しようとする試みだった。そういうのは精神医学の対象になりえるのか?(倫理学なんかの対象ではないか?)てとこなんだけど、臨床だとそういうひとたちがちょこちょこ訪れて大変ということもあるようで定義の必要性を感じたらしい。いわゆるサイコパスとかそういうのだろけど、そこまでいかなくてもアレゲなひとたちとか。

そういう人達に対するアプローチは民俗学とか社会学的に「観察」→「とりあえず腑分け / 整理」というのもあるのだろうけど

ネットで他人を血祭りにあげる人々|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne4255b3d37d8



あと、本書で挙げられているひとたちの事例としていわゆる毒親的な問題や共依存(心理学的には「共生」)としてもあった。そこでは相手を人間・人格的に無脳にして支配しようとする関係があるので。





では、以下は邪悪についての引用をメインに。









悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである。生 ――特に人間の生―― には不可欠の特性がいろいろとある。意識、可動性、近く、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。したがって、われわれは、たてがみ一本傷つけることなく馬を「破壊」することもできれば、髪の毛一本傷つけることなく子供を「破壊」することすらある。エリッヒ・フロムはこの事実を鋭くついている。フロムは「屍姦症」の定義を拡大して、他人を支配したいというある種の人間の欲望―他人を支配可能なものにし、その人間の他社依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑え込んでおきたい、という欲望をもこれに含めている。フロムは、その著 The Heart of Man: Its Genius and Evil(「悪について」)のなかで、「生を愛する」人間、つまり、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重しこれを育成する人間と区別して、「屍姦症的性格」というタイプを論証している。この種の性格の人間が求めていることは、他人を従順な自動機械に変えることによって人生の不都合を回避し、他人から人間性を奪うことである。

したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものである。






私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

スケープゴーティング、つまり罪の転嫁は、精神医学者が「投影」と呼んでいるメカニズムによって生じるものである。邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人達が間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである。

したがって悪とは、他人をスケープゴートにするために最も頻繁に行われるものである。




邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い相手である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。この支配関係として最も一般的に見られるのが、親の子供にたいする関係である。子供というものは弱く、無防備で、しかも親との関係に縛られている。彼らは親に隷属すべく生まれてきたのである。したがって、邪悪性の犠牲になるのは、その大半がボビーやロージャーのような子供だということも、べつに驚くべきことではない。彼ら子供には逃げだすだけの自由もなければ、その力もない。




邪悪性とは罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとする気持ちから生じるものである。

「愛と心理療法」のなかえ私は、精神の病の根底には怠惰、つまり「当然の苦しみ」を逃れたいという欲求があると書いたが、ここで問題にしていることもまた、怠惰の回避、苦痛からの逃避である。もっとも、邪悪な人たちというのは、一般的な意味での苦痛からの逃避者、つまり怠惰な人間ではない。それどころか彼らは、ご立派な体面や世間的を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向もある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意を持って困難に取り組むことすらある。彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

自省に伴う特有の苦痛を避けるためにはあらゆることをやってのける彼らが、心理療法を受けようとするなど、通常の状況のもとではまず考えられないことである。









自己愛(ナルシシズム)はさまざまなかたちをとるものである。なかには正常なものとされているものもあれば、幼児期には正常とされるが成人の場合には正常でないとされるものもある。また、ほかとくらべて著しく病的なものもある。ナルシシズムの問題は、重要な問題であると同時に、複雑な問題でもある。もっとも、本書は、このナルシシズムの問題のすべてを等しく検討の対象とすることを目的とするものではない。したがって、エリッヒ・フロムが「悪性のナルシシズム」と呼んでいる、ある種の病的ナルシシズムの問題に話を進めたい。

悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。

邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。




私自身の見方に従えば、自由意志の問題は、偉大な真理の多くがそうであるように、ひとつのパラドックスである。一方では自由意志というひとつの真実がある。われわれは、陳腐な「教義」や条件付けその他の多くの要因なしに、自由に選択することができる。その一方では、われわれには自由を選ぶことができない。そこにはふたつの状態があるのみである。この服従の拒否こそが、とりもなおさず、人間を悪魔の力に隷属させるものである。結局のところ、われわれは神か悪魔のいずれかに帰依しなければならない。私は、善にも、また完全な利己心にもとらわれることなく、神と悪魔のまさに中間にある状態が真の自由な状態ではないかと考えている。しかし、この自由はばらばらに分断される。これは耐えることのできないことである。われわれは、いずれに隷属するかを選ばなければならないのである。





「いいですか。私が最も驚いたのは、お二人が、ご自身が治療を必要としていることを認めるくらいなら、ご自分の息子さんが不治の病を持っていると信じるほうがましだと考えておられる、つまり、息子さんを抹殺してしまいたいと考えておられるようにみえることです」





邪悪な人たちのナルシシズムは、この共感の能力を全面的に、あるいは部分的に欠いていると思われるほど徹底したものである。アンジェラの母親は、自分の娘が髪をブロンドに染めるのをいやがっているのではないか、といったことを考えてみようともしなかったことは明らかである。ボビーの両親も、兄が自殺に使った凶器をクリスマス・プレゼントとして弟に贈った場合、その弟がどういう気持ちになるか考えてみようともしなかった。同様にヒトラーもガス室に送り込まれるユダヤ人の気持ちなど考えてみようともしなかった、ということが想像できる。

こう考えると、彼らのナルシシズムは、それが他人をスケープゴートにする動機になるというだけでなく、他人にたいする共感や他人を尊重する気持ちからくる抑制力を奪うという意味からも、危険なものである。邪悪な人たちのナルシシズムは、彼らが自分のナルシシズムに捧げるためのいけにえを必要としているという事実に加えて、自分のいけにえになる相手の人間性をも無視させるものとなる。ナルシシズムが彼らの殺人の動機となるだけでなく、殺しという行為にたいする彼らの感覚を鈍らせてしまうのである。ナルシシストの他人にたいする無神経さは、共感の欠如異常のものにすらなりうる。ナルシシストは他人を「見る」ことすらまったくできなくなることがある。




邪悪な人間は、つねに、自分たちの動機をうそで覆うものである。

R夫妻の私とのやりとりを注意深く読んだ読者には、彼らが数多くのうそをついていることがわかるはずである。ここにもまた、驚くべき定常性が見られる。これは、彼らが一つか二つのうそをついていたという問題ではない。ロージャーの両親は、くりかえし、また、常習的にうそをついている。彼らは「虚偽の人々」である。そのうそは、あからさまなものではない。訴えられて裁判にかけられるような種類のうそではない。しかし、そのうそは、いたるところに見られるのである。そもそも、彼ら私に会いにきたことが、ひとつのうそだったのである。

彼らがロージャーのことを本心から心配していなかったのならば、また、私の助言などほんとうは必要としていなかったのならば、なぜ私の診断を求めたのだろうか。その答えは、それが彼らの、うわべをとりつくろうやり方のひとつだったからである。彼らは、ロージャーを救おうとしているかのように見せかけていた。いずれの場合も学校からそうするように言われたものであり、それにたいしてなんらかの対応を見せなければ、いいかげんな親だと見られてしまう。「息子さんを精神科医に診せたんでしょうね」ときかれたときに困るからである。









精神医学は、私が邪悪性と呼ぶものを包含する、これまでとは違った新しいタイプの人格障害を認識すべきときが来ていると私は考えている。自己の責任の放棄はあらゆる人格障害の特徴となっているものであるが、これに加えて、邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。

(a) 定常的な破壊的、責任転嫁行動、ただしこれは、多くの場合、極めて隠微なかたちをとる。

(b) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。

(c) 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感性あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。

(d) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けた時の軽度の精神分裂症的思考の混乱が伴う。








あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。集団のなかの個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供たちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供たちが最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。






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https://note.mu/m_um_u/n/nb129d45dc4b9




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