2015年09月06日

「ニンフォマニアック」補遺


ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html




読み返しつつちょっと書きそびれたなあってとこをnoteにしたりもしたんだけどほかにもちょっと書きそびれたとこがあったので簡単に。


湘南行き、ほか|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb2baf4d33815

父親が主人公の幼い時に樹の名前について教える場面、そして、性依存症を断つためにすべての「性欲を喚起させるかもしれないもの」を部屋から捨て去っても樹木の押し葉ノートは捨てられなかったこと。

おそらく主人公は父親との関係 - 父親への(直接的な性欲ではない / むしろ肉体的性欲ではないところでの繋がりや依存、心の拠り所、みたいなのがあって、その象徴や集約が押し葉のノートになっていたところがあった、、のかもしれない。

「のかもしれない」という歯切れの悪い言い方をするのは、そういった見方がファザコンな解釈に偏るから。そういったところもあったのかもだけど、セクシャリティは複雑な要素の関係から成り立つものだろうし、その内容も複雑なものとなるから。
樹の話に象徴されるもの、あるいは樹の押し花をみているうちに性欲が喚起されたのは、父親へのファザコンだけではなく、植物の性の官能性そのものが彼女のセクシャリティの一部となっていたところがあったからかも。




主人公の性欲というのは「生まれつきセックスが好きで好きで仕方がなくて」みたいなことでもなくて植物への感性みたいなのが向かった方向にたまたまセックスがあっただけだったのかなあとかおもった。

もちろん、性的な素質というか、そういうのに対する感性とか好奇心とかはほかの子どもよりはあったのかもだけど。それを手挽きしたのは友人Hだったし。友人Hというのはませた子どもなだけで特にニンフォマニアになるわけでもなくセックスのループから卒業していったし。

実際、主人公の初体験はそんなに良いものでもなかったし、そこでの快感みたいなのもなかった。

その後のセックスも、セックスにおける快感に虜になっていった、というよりは、単に男との関係があることに充足していた(それでなにかを満たしていた)ぐらいな感じだった。「男をセックスで釣って、その間はひまつぶしできる」、みたいなの。

なので、セックス自体の快楽に依存していた、というよりは、そういった関係性を埋めれれば落ち着いたのかなあとか。



まあそういうのも「孤独を埋めるためにセックスとか異性に頼っていた」とかいうとかわいそうな女な印象になるけどそういうことでもなく、単にひまつぶしだったのだろうけど。あるいは手慰みというか。多くの男性がもってるマスターベーションなアディクションがセックスで発露してただけで、ただ、セックスは人間関係が生じるから面倒なことになっていた、ってだけだったような。


あとはやってるうちに快が増していって、そして習慣化もしていって、なのでそれが癖になっていったのかなあ、ぐらい。

たばこの依存症でもそうだろうけど、やってるときも、あるいはやめたときには「そんなにうまくないのになんでやるんだろ?」みたいなのがあるだろうけど、それがたまたまセックスだっただけみたいなの。あるいはポテトチップスとかジャンクフードの習慣とか。




人の欲求なんかおぼろげなものだから最初からはっきりとした欲求はなくて、やってるうちに習慣化してくところもあるのだろう。








posted by m_um_u at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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