2015年09月03日

ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」






















                        おまえは神には遠すぎる


















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TSUTAYAで准新作になってるの見かけて(´・ω`・)エッ?レンタルで出てたんだ?(しかも準新作になってる)てことで借りてみてみた。TSUTAYAに魂を売ってるのでセールの日(おもに週末)だと准新作まで一枚108円で見られるので。


二枚組ということもあるし同じような時期に似たような?反響もあった「ゴーンガール」が自分的には(´・ω・`)だったのでそんなに期待してなかったのだけど、すこし予想を裏切られる形だったしちょっと感想を書いてみたい気になった。「裏切られ」たのはもちろんよい方向に。


物語概略は他人様のところに任せるとして

『ニンフォマニアック』は、“女性のセクシュアリティの物語”ではない。 - (チェコ好き)の日記
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/10/13/110908

結論:『ニンフォマニアック』は「救済とその不可能」の物語。 - (チェコ好き)の日記
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/11/17/105052





最初に言ってしまえばやはりこの作品も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」同様ある意味での聖人のそれを描いたもののように思えた。あるいはキリストの誕生的なもの。


そう思わせる箇所と説明的セリフは映画の端々に付られていた。


たとえば神父を思わせる読書家の男との対話の中で、主人公(色情狂(ニンフォマニア)が歩んできた人生を語っていくのだけど、その端々に聖書の主題をなぞるような箇所がでてくる。ただし、キリストの誕生を性欲の救世主の誕生として戯画するような。それが戯画となり「おまえはキリストを冒涜するのか?」と言われるのは性欲が現在の社会においてもなお悪しきものとされるからだけど。特に女のソレが。その意味では神父のような読書家との対話は悪魔(ニンフ)と神父≠読書家≠研究者の対話といえ「ファウスト」なんかも想わせる。悪魔はところどころに誘惑をちらつかせ男の欲望=堕落を誘う。



最後に、彼女の人生を振り返り結論を与えるような場面で彼女の人生=映画の主題もある意味そこに落ち着きそうになる。



「女の性欲は悪しきものなのか?」

「これが男であればことさらに問題にされることでもなく、凡庸なドンファンな話として終わっていただろう」

「なぜ、女であるというだけでここまでおまえは苦しみ、貶められてきたのか?」

「おまえがそのように過激で、攻撃ともいえる異常な性欲をもったのはおまえの生まれに歪さとなんとも座りの悪いところがあったからだ。おまえの性欲の異常はそれに対する反抗だったのだ」




「罪」に対して、そういった救いの手を差し出されながら、彼女は敢えてそれを拒否する。ちょうどカウンセリングで「セックス依存症」の烙印と救済を拒否し「わたしはいやらしいニンフォマニアだ!セックスが好きなんだ!」と宣言したように。安易な救済と、それと引き換えに与えられるしょぼっくれたラベリングを彼女は敢然と拒否する。他人による安易なパターン(物語)を受け取る代わりに彼女は自分の欲望を生きることを選択する。自身の欲望を肯定し高らかに笑う。それが世間的には「異常」な性欲だったとしても。「異常」な性欲はなんらかの欠落や歪みに対する結果だったと言われても。「わたしの性欲は単に欲望としてそこにあって、それをただ埋めていただけなのだ」、と。ちょうど食欲を満たすように。それは悪でもなければ罪でもない。なので罰(ラベリング)という救いも要らない。


「わたしはただ食欲を満たすように性欲を満たしていただけだ」「そこになんのエクスキューズも、なんらかの『哀しい理由』のようなものもない」



そうはいっても世間的にその行動が異常だったり、それによって自身の正常な生活が脅かされていたらそれはどこかでバランスを崩してるということであり、結果としての逸脱だったり依存だったりということだと思うのだけど。特にこの主人公の場合は幼少期の母親の不在と、対照的な父親の理想化、愛する父親の無残な死に様が平衡を崩すことに関連してるようだった。といってもそれ以前から性的なものへの目覚めが早かった / 感性が優れていたようだけど。

とまれ、それによってできあがる「異常な性欲を抱えるひとは幼少期に両親の関係や愛情になんらかの不和や不足があって」みたいなパターンがある程度の蓋然性を持つとしても、それで全てが説明できるわけでもなく、それのみによる安易な解釈を主人公は迂回していく。


こういった俗流フロイト心理分析的な解釈、あるいはそれに代わるフェミニズム的に凡庸な視点から生まれるヤサシイ解釈が「異常」な性欲や行動、選択になんらかの理由を付けてくれても、それによっていま、現在その欲望の中にあるもの、あるいはそれによってある選択や決断をしたものが救われるでもないので。そういった解釈を受け入れることで「正常」な生活に戻れるきっかけは得られるかもだけど、それによって彼女たちが立たされるスタート地点は「正常」なそれからすると極端に低いところになる。そのラベルと現実を受け入れて小さく生きていくことを彼女は拒否する。ちょうど行者や求道者が安易な救済を拒否するように。

こういった俗な解釈がけっきょくは風俗嬢やAV女優に「かわいそう」しつつもやることはやる説教おやじと変わらねーじゃねーか?(おまえらは肉体的にはレイプしなくても精神的にレイプしてるだけだ)ということを映画のラストは戯画的に表す。

それは世のヤサシイ男性一般に対する視点としてはすこし意地悪にすぎるようにも思えるけど、「ヤサシク親切なだけな救済ですべてうまくいくってわけでもないだろ?w」って監督なりのリアリズムだったり照れ隠しだったりしたのかもしれない。






映画全体をもう一度振り返ると、「性に奔放な女性の一代記」ということだと構造的には「エマニエル夫人」と変わらないように思う。なので人によっては単なる過激なポルノの一種として受け取られたかもしれない。


ただ、「エマニエル夫人」が性の探求のモチベーションや内容そのものに特に暗い背景を設定していなかったのに対して「ニンフォマニアック」ではもっと依存的で破滅的な切実さをはらんでいたように思えたけど。

ちなみにいうと「エマニエル夫人」自体も原作は単なるポルノというか性の探求=自身の実存の開放ということで、性は単にきっかけであり、むしろ主題は同時代の閉塞感と、それを破る新たな可能性の探求ということだった。




性の問題は簡単にポルノ的な興味で終わらすこともできるのだけど、きちんと向き合っていくと案外と奥深く、人として存在する限り付きまとってくるものなのだろう。


たとえばオーガズムひとつとっても、単にイク=射精するもしくは精液が出るというだけだと肉体のボタンとスイッチ的な機構だろうけど、その質や個々人の満足を突き詰めていくとそんなに単純なものでもなくなる。


「ニンフォマニアック」ではSM的なシーンが出てきて、それは巷の通俗的でポルノグラフィックなものと違って「通らざるをえない儀式」的なものとして描かれていて同筋の人たちてきには満足だったり憧憬-モデルの対象になったかなとかおもったのだけど、そこで「屈辱的に縛られて叩かれてるのになぜだか濡れてしまう」「足繁く通わざるを得なくなる」「閉じてしまっていたオーガズムが開くきっかけとなっていった(なっていくかもしれないとおもった)」というのはオーガズムにおける不思議と実際を表す一場面のように思った。

それが単に肉体の快楽と正の関係にあるボタンとスイッチ的な機構であれば、叩かれたり屈辱的な格好や命令をされることで性的に興奮したり刺激されたりすることはないはずなので。

そして、苦行 / 痛みを伴う儀式、ということだとそれは宗教的な儀式にも通じていく。たとえば「Passion」で描かれる歩みが見る側に痛みとともにある種の性的な視線をもたらすような。


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熱狂的殉教者が神の使徒としてあることの恍惚と悦楽は性的な快楽に近い、あるいはそれを超えるものだろう(cf.宮沢賢治「この変態を恋愛と呼ぶ」)。



ほかにもこの映画に断片的に描かれていた「主人公が丘の上で寝転んで空を見ていたらなんとなく空に浮かんでいく感じがして、、快楽もともなって、、おもえばそれがはじめてのオーガズムだった」みたいなの。


これらも一般的な視聴だと「あ、ヘンタイだからそういう体験したんだ?」って見送られるとこなのかもだけど、いわゆる神秘体験とオーガズム的なものが近似にあるのかなとか思ったりする。



「性に奔放な女性の一代記」というところに「性の殉教者」≠「人の業を行ずるもの」的な視点から味付けしていったのはトリアーの独特だったのだろうけど、伏線として回収されがたいこれらのディテールのリアルさはいわゆる変態性欲的な人たちにインタビューした結果なのかなあとかおもった。



















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関連:

【A面】犬にかぶらせろ!: 「エマニエル夫人」は乗りもの映画である〜もちろん二重の意味において【前編】
http://www.hayamiz.jp/2012/10/emannuel01.html

【A面】犬にかぶらせろ!: 「エマニエル夫人」は乗りもの映画である〜もちろん二重の意味において【後編】
http://www.hayamiz.jp/2012/10/emannuel02.html




性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/392098324.html



そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408674184.html



「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/411213903.html



やはりジンメルかあ。。: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414033954.html




意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html





「栄養が行き届いていれば花は必要ないのです」 → 性 / 生 / 死 とそれらを共同体的に包摂すること: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/418302309.html






posted by m_um_u at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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