前回のエントリに続き「日本の食事の変化」みたいな関心から、「家庭の食事の変化っていったらそういやこれ読もうと思ってたなあ」ということで読んでみた。

大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? (ちくま新書) -
『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その4。南陀楼綾繁と木村衣有子の評: ザ大衆食つまみぐい
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2013/12/4-2086.html
南陀楼さんは、本書に述べられている、70年代にどう工業社会型の食生活が訪れたか、その揺り返しのように21世紀に入ると叫ばれた「食育」や「スローフード」などの安全志向を、例によって的確に要約したのち、こう述べる。
「しかし著者は「便利な食」と「安全な食」のどちらが正しいと決めつけることはしない。それよりも、生活の中の料理とは何かを考え、「ありふれたものをおいしく食べる」という食の基本に立ち返ることを提唱する」
ここは、どちらが正しいか結論めいたことを書かないように、おれが最も気を使ったことなのだ。いやあ、さすが、南陀楼さんは大事なポイントをはずさないと思った。
「食の混乱」がいわれるが、「混乱」というより「多様化」であり、多様化の中では、二者択一ではなく、それぞれが自分の生活の現実から考える。そういうそれぞれをお互いに尊重しあう。「うまい、まずい」をこえて、「自分の美味」を持つこと。それが本書の「立場」なのだ。
前回の阿古真理さんのそれがスローフードとかカフェ飯的なものによりがちな結論だったのに対して遠藤さんの場合はあくまで「大衆食堂」「飯」にこだわってそういうシャレオツを退けてた感があった。まあでも否定するわけでもなく「けっきょくはTPO的にそのときうまいとおもえるものをうまく食べれれば良い」みたいな感じだったけど。
歴史的知識としては70年代以降に大衆食が変わり始めた経緯、あるいはそれ以降の代表的な大衆食の登場・変化などの文脈や当時の印象などが語られていておもしろい。
たとえば「なぜ70年代から変わったか?」といえば60年代に高速道路網が張り巡らされコールドチェーン(低温流通体系)が完成、これとモータリゼーションによって産地から遠いところでも新鮮な食物が味わえるようになった。これと同時にいわゆる「旬」は失われていくことになる。これは日本料理の意味、家庭料理との関係との変化にも関連していくのだろうけど後述。
コールドチェーンに加えて家庭用冷蔵庫も大きくなり、冷凍食品なども普及、キッチン環境も変化。これに加えて文化的憧れや政治経済的な貿易関係から家庭料理の洋食化が進んでいった。
こういった大衆食の変化の歴史語りと並行して「家庭料理の変化」ということを考える中で暗黙の前提とされていた「日本食=和食=家庭料理」についての考察が進められる。「日本食=和食=家庭料理」というか「日本食>和食>家庭料理」のような「家庭料理や大衆食堂の飯のようなものは料理としては下賤で、それと日本料理は違う。ほんとうの料理=日本料理ってのはなぁ」みたいな価値観に対して。料理人だった江原恵の唱える料理哲学を遠藤が受ける形で日本料理や和食、日本の家庭料理について語られていく。

庖丁文化論―日本料理の伝統と未来 (1974年) -
食通以前 (1977年) -
まな板文化論―生活から見た料理 (1975年) -
それによると日本料理というのは「素材の味をできるだけそのまま活かすために加工をそれほど施さない料理」ということになる。それのポリシーは日本料理の代名詞的な「割烹」という言葉に集約される。「割烹」とは「割る」と「烹ずる」を表す。すなわち「包丁で切る」と「煮る」。ただ、「割烹」の中には「割主烹従」という言葉が前提とされるようで、「割 > 烹」すなわち包丁で切る技術が煮ることよりも重視される。日本食における料理の技術とは刺し身に代表されるように素材をできるだけ傷つけず、素材の味を活かし、その自然な風味を客に供す、ということになる。その際、「煮る」も素材がスープ状に煮崩れするまで煮るのではなく素材の風味を汁気に出しつつ、素材の食感や風味を残すに留める。割烹というのはもともとそういう意味らしいのだけど、ちなみにいうと割烹と料亭の違いというのは後者が芸者を招いて遊べるところ、前者は料理のみ楽しむところということらしい。日本料理というのはもともとそういう酒の席の食事ということでいわゆる「おかず」とは異なるものとされた。なので、たぶんこれに関連するおせち料理も酒の供ということを前提につくられおかずという感じでもない。
「素材の味をそのままに伝える」「必要最小限の味付けで」「切ることが最重要となる」ということで日本料理における切る技術、包丁の価値は高まった。
知らなかったのだけど包丁式というものがあるらしく、見ていると日本の古武術、抜刀術のそれを模してる感じだった。そこにおける文化とか伝統とかをなんかよくわからない価値観と因襲で固めたり守ったりしてる様子も。ちなみに神田川俊郎さんは包丁式四条流の免許皆伝な方なのだそうな。
小説 料理の鉄人〈4〉「道場六三郎対神田川一門」 (扶桑社文庫) -
日本料理法大全 (1965年) -

日本料理法大全 -
日本料理が「素材の味を出来るだけそのままに」というような思想でつくられていったのは一説では「日本が外国に比べ旬の食材をすぐに味わえる環境にあったから(海、山が近く四季がある)」とされる。特に魚なんかはそんな感じだったのだろう。
しかし、であるがゆえに冷凍保存・輸送技術が発達していっていわゆる「旬」がそれほど意味をなさなくなっていくと「旬ってなんだっけ?」的な感じになっていった。いちお日本料理的価値観からそれは来ていたのだろうけど、元々どういう条件や文脈からそういった価値観が奉じられるようになったのか定かではなかったのでその価値だけが浮き、なんとなく「やっぱ旬のものは良いねえ」ぐらいで残っていった。日本料理についても。
まあもちろん冷凍技術・輸送技術が進んでも産地でとれたての旬のものの味にはかなわないところはあるのだけどとりあえず置く。
こういった「和食の頂点に立つちゃんとしたもの」とされつつも一部の人のみ愉しむ料理として家庭料理とは隔絶したところにあった日本料理に対して、70年代以降家庭料理は変化していった。70年代にはファミレス一号店が軒並みオープンしていって外食のあり方、家族の食事のあり方や内容も変化していった。
短くまとめるとこんな感じだけど、関連で読みたい本とかリンクがついてたのでメモ的に貼っておく。

男子厨房学(メンズ・クッキング)入門 (中公文庫) -
男子厨房学(メンズクツキング)入門 (文春文庫 (322‐2)) -

料理の四面体 (中公文庫) -
「料理の四面体」について
この本の特徴は、簡単にいえば、「料理とはこういうものだ」という本質と原理を、構造的に、わかりやすく三角錐の四面体にまとめて見せたことだ。日本料理だろうが、西洋料理だろうが、中国料理、アフリカ料理、なんでもござれ、あらゆる料理に共通する料理の構造を解いて、きわめて理論的なのだが、それが三角錐の四面体なのでわかりやすい。
これがわかれば、レシピなどに頼らず、いろいろな料理がドンドンできる、料理が楽しくなる。ひとつひとの料理のコツをか覚えなくても、自分がつくりたい料理のコツがわかってしまう、魔法の四面体。
三角錐の四面体の角はそれぞれ「火」「油」「水」「空気」が設定されている。
料理というのは化学変化でありその知識の実践なわけだけど、基本的に料理の素材というのは人が味わう時に加熱すると旨味が増す。なので「火」によって焼いたりするわけだけどそこでの加減や方法によって焼き方も「グリル」「ロースト」「燻製」などに分かれていく。これに「水」を加える事で「茹でる」「煮る」などが可能となる。さらに「油」を加える事で「炒める」「揚げる」などの料理法が出てくる。
料理というのは基本的にこの4要素で成り立っており、料理法としてもその応用としての「焼く」「茹でる・煮る」「炒める・揚げる」ぐらいとなる。あとは味付け方法の違い。
「料理の四面体」ではそのへんを構造的、理論的に説いたようなのだけど「男子厨房学入門」ではそれをもうちょっと実践的にわかりやすくした実践書とのこと。

みんなの大衆めし (実用単行本) -
日本の大衆めし=代表的日本食をわかりやすくまとめたもので台湾で中国語に訳され販売もされてる、と。
あとはシノドスのこの特集とか読んどこ
リスクを決めるのは科学ではなく、社会だ / シンポジウム「みんなで決める安心のカタチ 〜 ポスト311の地産地消を目指して」 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/fukkou/764

みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年 -
あと、日本食=和食≠家庭料理?関連でこのへんも

「和食」って何? (ちくまプリマー新書) -