2007年05月21日

レッスルするアカデミズム? (学問とジャーナリズムの間)

 ハコフグマンさんとかその他の方のエントリを読んでいていろいろと思うところがあったのでちょっと繋げてみよう。最初はハコフグマンさんの書評から


ハコフグマン: フューチャリスト宣言


 本blogの関連エントリはこちら

muse-A-muse 2nd: 例のよもぎ餅について



 んで、一番思ったのは、「やはりきちんと読んでから批判なり批評なりしないとダメだねぇ」、ってこと。当たり前のことだけど、まぁ、いちお。 んで、鶴見俊輔さんの誠実さとか思い浮かべたり。

 鶴見さんは対談するとき、相手の著書を全部読んでこられるのだそうだ。もしくは主要な著書を読んでくる。サラっと書いてしまったけど、これは地味にすごいな、と思う。こんな感じで

 
とみきち読書日記: 『戦争が遺したもの』 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二



80歳を超えてなお、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』を1日でざっと読み、さらに3日かけて再読したと言う。その頭脳は衰えることを知らない。さらに驚くのは、40年も年下の、しかも無遠慮な質問を突きつけてくるその若者に対して、愛情を持ってその著作を褒めている。この柔軟な心、懐の深さは尋常ではない。



 ついで


最も感動したのは、鶴見俊輔の人間の大きさ。「今回は、完全に三日間を空けてありますから。もう私も八十歳だから、余命から計算した大した時間ですよ(笑)。聞いていただければ、なんでもお答えします。」と鶴見は開口一番発言している。その言葉どおり、矛盾を突かれても、答えにくい問いかけに対しても、自分の過ちに対しても、逃げることなく、言葉を尽くして対応している、その姿勢に心の底から感銘を受けた。




 そういや田口ランディさんのところにも同様の記述があった


田口ランディ公式ブログ : 対談ということ


対談相手の著書などを、事前にしっかりと読むようになったのは鶴見俊輔さんと対談してからだ。鶴見さんは、対談のために私の著書をほとんど読んでいらっしゃった。しかも本には無数のふせんを貼りつけられていた。私はそれを見て、若輩の自分がなんとナメて対談に臨んでいたのか、ほんとうに恥ずかしくなり反省して、以後、対談を受けるときは相手の著書は最低でも一冊は読み切り、最近どういう発言をしているかなど資料を調べてから臨むようになった。あのときは、ほんとうに猛烈に反省したのだ。

鶴見俊輔さんは「対談のときは相手の本を読みなさい」などとは一言も言わなかった。でも、その態度を見れば誰でも気づくはずだ。そういうことを生き方で示すのが大人というのだろう。





 もう、「ごめんなさい。わたしがわるかったです。こんどからもうしません」、と言うしかないわけだがいちお言い訳すると、前回のエントリはその辺のところ分かっててわざとやったって言うか・・・・・・はい、すみません。わたしがわるかったです。



 んでも、まぁ、言い訳をさせてもらうと、忙しいってのは別にして、あれは読む前の与件みたいなもので。「与件」として自覚しているので「〜ではないか?」ってエントリにしてたわけだし・・。


 対照として読んでも読めてないみたいな人もいるわけだからその辺はアイコかな、と(読めてない人とアイコになっても仕方ないわけだが)。


 「読めてない人」というのは文章の読解力という点もあるのだろうけど、なんか先入観のようなものが先立ってしまってその読みを先行させて読んでいるので、「テクストの主旨を理解する」という目的よりも「自分の意見に合ってるかどうか」ということを確かめることが肝要になるのだろう。そういう読みは速力はでるけど得られるものは少ないように思う。(元からテクストから何かを得るつもりもないのかもしれないけど)


 なんとなくこの辺が頭に浮かんだ。


インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - キャラクター小説・ライトノベルの特徴


 「純文学的なテクストや読者が作品の主題(メッセージ)を重視しそれに対してなにか思いを込めたり感じようとしているのに対して、ライノベ作品や読者たちは記号そのものの戯れを楽しむことに終始し、作品の主題とかはどうでもよくなってんじゃねぇの?」、と (※一部意訳)

 稲葉さん同様ぼくもライノベには詳しくない、というか読んだことないのだけれど話を続けさせてもらう。

 こんな感じで内容ではなく周辺からテクストを解釈していこうとする姿勢というのは、文学理論的に言えば詩学に対する解釈学のアプローチに似ているように思う。

 いや、それとも少し違うか。解釈学の場合は間テクスト性という感じでストーリーの連関性にこだわるわけだけど、ここで稲葉さんが提示されているライノベの読み方というのはテクストのギミック(細部)へこだわるって感じなので。ちょっと文脈違うかもしれないけど、こんな感じだろう。


[マスダアニメ]なぜ作画の評価が割れるのか?


 もしくは脚本ではなく演出のみに目を向けるって感じだろうか?




 んで、話を元に戻すと、「読んでるのに読めない人」というのはライノベ読みの人と同じような読み方をしてるのかな、とも思う。彼らにとっては主旨ではなく細部が重要なのだ。


 でも、梅田さんの最近の著作におけるスタイルって元々そういうのじゃないみたいなのであまり意味をなさない。

 「細部をつついて批判するのがバカバカしいような明るい本」であり「現代の共産党宣言」だから。


 要するにパフォーマティブなのだ。言い換えれば政治的といってもいい。そこで問われるのは叙述の正確性や新規性というよりも、演出のされ方(盛り上げ方)なのだろう。


 その辺りについて、唐沢俊一さんによる「ゲーム的リアリズムの誕生」評に関連記述があったのでちょっと引用。(朝日、2007/5/20, 13頁)

(※文脈としては、前回の「動物化するポストモダン」に比べておとなしくまとまってきた(正確性を期してきた)よね、って感じから)


 しかし、後半で、著者がオタク的物語消費の典型例としてのライトノベルを具体的に評論し始めるあたりになってくると、従来の東氏らしさが顔を出す。ライトノベルに比較されたときの自然主義文学への勉強不足(本書での認識はクラシックに過ぎるだろう)を気にもとめずどんどん話を断定的に進めていくあたりの痛快さは、喩えが変かもしれないが、剣豪小説のような、スカッとした読後感を残す。こういう現代思想書もあまりない。代わりのいない個性を持つ学者なのだ。まだまだ老成せずに、若々しい問題提起を続けて欲しいものだ。



 意訳すると、「東、ネコかぶってるかと思ったら後半できっちりバックドロップ打ってきたよ(ルー・テーズばりの)。アレだな、東も捨てたもんじゃねぇな!(いや、若いよ。青春万歳!!)」、って感じだろうか。


 つまりこれらはベタをかぶったネタであり、演出なのだ。小川直也がストロングスタイルだけでは受け入れられないように、学術芸人というのも固くて真面目なことばかり言っていても本は売れないのだろう。

(小川はそれなりに演出しようとしているけど、失敗しているみたい)

小川直也が面白い - おまえらの好きにはさせねえ!



 しかし、小川のいまの立場というのもストロングスタイル(てかセメント)で実力を認めさせたからあるものなのであって、それと同じように学術芸人にもなんらかの実力行使のようなものが必要なのではないか? そういうわけで東っくすの主要著作ぐらいは読んでおこうかなとか思う反面、茂木さんは専門から遠く離れているのでちょっとムリっぽい・・。っつーか、東っくすのほうも一緒に仕事するわけでもないのでめんどくさい(いち消費者としては)


 でも、まぁ、機会があれば。。


 
 っつーか、アレだな。これって伝統的な「学問とジャーナリズムの間」議論だな。「スペシャリストとジェネラリスト」っていうか「タコツボとポリバレント」というか


[R30]: ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?



5号館のつぶやき : セーフティネットとしての基礎能力 (アスリートと研究者)



 んで、R30さんなんかは、「アカデミズムには昔からジャーナリズムを蔑む視線がある」、とか言っててもっともだとも思うんだけどそこもちょっとびみょーで。アレげなセンセたちがわけもわからず「しょせんじゃーなりずむだからねぇ」とか言うのは放っておくとして、きちんとした研究(学位論文とかなんらかの外部査読が必要な責任あるもの)ではいわゆる「ジャーナリズム」的なフォーマットの製品は出せないように思う。

 
 つまり、いわゆる「ジャーナリズム」的な製品というのは、「5W1H」を基本としつつ力量のあるジャーナリストの場合は各事象の見えざる連関を読み解き「読者に分かりやすく提示する」というところが重要になるように思う。つまり「分かりやすく」というところが中心価値。

 対して学術研究の場合は「正確性」を中心価値とする。「正確性」やそのテーマの研究における「新規性」、そして全体の文脈における「重要性」など。んで、正確性を期すために「反証可能性」や「反復可能性」などを基本とした「科学」的な研究方法が必要になるわけであって、その際の論文の形式としては、「問題提起」「方法説明」「先行研究」「論述(もしくは実験結果の記述)」「考察」「結論」、といった流れが一般的なフローとなるように思う。


 つまり両者は中心価値が違うので比べようがないのだ。(アメリカ型ショービジネスプロレスとストロングスタイルの違いのようなもの)


 その上でR30さん(あるいは茂木さんや梅田さん)のおっしゃりたいことも分かる。そういう本来の研究目的を離れて、どーでもいいトリビアルなものに終始し、「研究のための研究」を続けているガッコのセンセが多いように思われる、と。

 この辺りはトリビアルに見えても基礎研究的には重要な部分かもしれないのでびみょーなところはあるんだけど、確かにどう考えても「それ居酒屋談義ですよね?」みたいなのを学術的な専門用語で塗り固めただけみたいな研究(?)が見受けられたり・・。
 
 あるいは、5号館さんのおっしゃるように専門領域に足を突っ込みすぎて、現世に帰ってこれない人がいたり。(丸山昌男的には「タコツボ化」ってやつですね)


 そんな感じで場が硬直化する危険性を取り除くために「学術ジャーナリスト」のような中間者(ミドルマン)が必要になってくるのだろう。


 茂木さんもこの辺を目指している、と。(そういや姜尚中さんも「元々そういうのになりたかった」ってpodcastで言っておられたな)



 っつーか、こういう政治・経済・生活圏(界)と学術圏(界)の綱渡しというのもジャーナリズムの役割だと思うけど・・・機能してないよな。


 んで、リンク先の田口ランディさんのエントリみたいな事態になる、と


それとは別に対談について少し考えるところがあった。
たとえば対談者が初対面同士の場合は、うまく対談できるように誘導するのが司会の役目だと思うのだ。ところが、多くの対談が、対談ではなくて、対面させただけに終わってしまう。今回もあながちそんな感じで、対談者が司会者に向かって交互にしゃべるだけでちっとも対談になっていなかった。

姜さんも、だいたい自分の思っていることを司会に向かってしゃべり、私もなんとなく司会に向かってしゃべりっている。これってマヌケだなあ……と思いつつも流れを変えられない。でも司会の編集者はそれを少しも変だと思わないらしく、自分が中心に立って得意なようですらあったので、しょうがないと思って諦めた。



 この場面だと、編集者自身も両者の著書を読むとか言説を追うとかして場の仲人をしてもよいものだと思うけど・・。もともと相互理解に満ちた良い対談を得ようとする気はなく、単に紙面埋めとか、編集者自身が望む言葉の羅列を待った対談だったんだろう。そういう意味ではジャーナリズムというもの事態が「界」(貝)として閉鎖しているものかもしれない。




 っつーか、雑誌対談ということでジャーナリズムとは違うけど、でもジャーナリズム全体にも同様のことは言えるように思う。つまり、「結論ありき」なのだろう。


muse-A-muse 2nd: (いまさらながら)OhmyNewsの「あるある」問題検証記事を見たよ



 そのほうが自分で制御できない問題が舞い込んでてんてこ舞いする危険性もないしな。要するに多様性(あるいは偶有性?)に対する閉鎖性というやつ。





 そういったシステムに風穴をあけるのはレスラーなんですかねぇ。。



全然関係ないけど、メガドライブにあった往年の名作「レッスルボール」の続編をナムコは出しやがれ!






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関連:
スラッシュドット ジャパン | サイエンスライターの育成支援を国が検討


※そういや、この手の話ってどうなってるんだろう。。




5号館のつぶやき : 競争的資金から奨学金 

スラッシュドット ジャパン | 文科省、ハイリスクな研究に補助金検討
 

※んで、まぁ、「分かりやすい」とか「世間に役に立つ」とかいったタテマエ(あるいは短期的な視点)を元に有名大学に予算を集中させたり、基礎研究や人文系から予算を削ろうとする動きがあるわけだけど、それはまた別の話か



松岡正剛の千夜千冊『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー


※「界」の閉鎖性の問題、あるいは「学術プロトコルと市場価値との違い(思想の自由市場)」についてはブルデューがなんか言ってたか





高葦のLogbuch - 大学はなぜポリバレントな人材を評価できないのか


※「研究者の中に多能工というかジェネラリストを嫌う風潮は確かにある」ということで、「ジェネラリストもうちょっと評価されてもいいんじゃね?」ってことで大方同意なんだけど、「評価」の先としてきちんとお金につながってないとどうにもならんな、とか思ったり。この辺かな


福耳コラム - 高等教育の構造的問題を解決するには


もしくはこの辺

muse-A-muse 2nd: 大学教育について(上下分離の必要性など)


muse-A-muse 2nd: インセンティブと教育の質について

 
 
 


posted by m_um_u at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(2) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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