2015年08月01日

ヴィム・ヴェンダース、2014、「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター(The Salt of The Earth)」




サルガド×ヴェンダースだし映画の日に休みもあったしということでBunkamuraに見に行った。


セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター | ル・シネマ | Bunkamura http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/15_loveletter.html


といってもほとんど寝てた(きょうは二時半頃起きた)のでエントリは控えようかなあと思ったのだけど、ふと原題のThe Salt of The Earthが気になってぐぐって出てきた言葉が気になったので。





「地の塩」とは、「地の塩、世の光」と対になっていることも多いのですが、他の回答者様がお答えのとおり、キリスト教の新約聖書、マタイによる福音書に出てくるイエスキリストの言葉です。

マタイによる福音書5〜7章の山上の説教(または垂訓)では

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味がらつけられよう。もはや、何の役にもたたず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

上記のように述べられています。

いろいろな解釈がなされているのでしょうが、ごく一般的な解釈を記します。

塩は食物の腐敗を防ぎ、光は暗闇を照らし出します。塩のように世の中の腐敗を防ぎ、光のように悪の浄化する存在になるよう、イエスキリストが山上で信徒に語りかけたとされています。




「地の塩」という原題は映画のはじめのほうに示され、とくに解説もされずにすすんでいく。「地球へのラブレター」とかいう少し気恥ずかしいタイトルには違和感があったので原題にしっくりきつつ、「このタイトルの意味を解題することがこの映画の理解につながるのだろうなあ」とか思って映画を見ていたのだけどけっきょく最後まではっきりとタイトルの意味について説明されている箇所はなかったようにおもう。まあ後半分ぐらい寝ながら見るという不真面目鑑賞ではあったのだけど。

んでも上記引用の説明と映画の前半部で表されていたことでなんとなくわかったようにおもった。

映画はサルガドのキャリア、生い立ちに沿って語られていく。ブラジルの片田舎から大学院にいって留学し、ロンドンの国際コーヒー機関にエコノミストとして職を得たサルガドは建築家の妻が仕事の必要から購入したカメラに惹かれていく。そして夫婦にとって大きな決断をする。安定したエコノミストという職を捨てて職業カメラマンとしてやっていくことを。


原題「地の塩」には以下の経験が深く関係しているように想われた。


今週末見るべき映画「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」 (3/4)
Excite ism(エキサイトイズム) http://ism.excite.co.jp/art/rid_E1438156218129/pid_3.html


1973年、ニジェール。1974年から1984年に撮影、初の写真集が「アザー・アメリカ」だ。エクアドル、ペルー、ボリビア、メキシコを撮る。サルガドは謙虚である。「写真を撮ると、被写体を少し理解出来る」、「目は大いに語り、表情が訴えかける」、「ポートレートは私ひとりで撮るのではなく相手から貰うのだ」。



職業カメラマンとしてのキャリアの最初の大型プロジェクト「アザー・アメリカ」で南米の奥地に取材旅行をしていくなかで、サルガドは現地部族のひとりから「おまえは天から遣わされて俺たちを録り(見)に来たのだろう?」といわれる。

「彼らの時間はひどくゆったりとしていて、そういうことを本当に信じているようだった」

ここでは「彼らはそれを本当に信じているようだった(そして彼らの生活もそういった信仰を日常に生きていた」というような言い方だったようにおもうけど、サルガド自身もこういったことに深く影響されて実際にその役割を生きようとすることになったのだとおもう。話の流れとは直接関係しないけどここでのサルガドの様子は文化人類学者のようだった。「一方的に撮影(シュート)して終わり」というのではなく「まず現地の人と親交を深めて、それから生の表情を見せてもらう」的なの。マグナムと袂を分かったことやポートレートに対する考え方(「ポートレートは相手から与えてもらうんだ」)もこういうことと関係してるのかもしれない。


いくつか解釈はあるのだろうけど「あなたたちは地の塩、世の光」というとき、それは天命というか天職(beruf)のようなものを表しているのだろう。単にお金とか日々の糧を得るためのそれというか、ただしく生きることを通じて得られる光や塩味のような。

塩が塩としての塩味をもち、光が光としての輝きを保つとき、それ自体が自分自身はおろか周りも引っ張っていく。


photo-grapherとしてのサルガドにとって、人々の営みは地の塩(塩の花)であり、彼のこの世における役割が世の光を写しとるもの、ということなのかもしれない。


「金ではなく天職のようなものを」という考え方、あるいは人々の苦しみや日々の営みに寄り添い、それらを慈しむような視点に行き着いたのはどういった経緯からなのかと思うけれど、それについてもはっきりとは語られてなかったので断片的に語られた彼の来歴から類推するに留める。

フランス系報道ジャーナリスト出身かと思っていたので自分的には意外だったのだけど、サルガドはブラジルの片田舎の農場で生まれて大学に行くために上京するまでお金の使い方も知らないような生活を送っていた。大学生活を通じて、あるいは生涯の伴侶となるレリアとの出会いを通じた影響からか学生運動にも身を投ずる。このときの経験が彼の写真のマルキスト的な視点にも表れているのかなあとか思えた。というか経済学を学んだことがそういった視点につながった、て映画ではいっていたけど。

結婚後しばらくして生まれた次男はダウン症だと分かる。このときサルガド夫妻はひどく落ち込んだようだけど、しばらくして次男には次男なりの、通常の言語コミュニケーションは不得手だけどそれ以外の感情の通わせ方があることを知り、サルガド家族はそれを学んでいく。それは世間的に見れば不幸だけれど、それを手放さず、日常として生きていくこと。一般的に不幸と想われるようなことが日常に当てられた時、人生の意味や運命について考える時間が増えるようにおもう。それらを通じて、いわゆる弱者への視点にも深みが増したのではないか?単に被写体としてそれがあるのではなく自らも不幸を日常とした弱者のひとりとして。



「なぜそこまで金にならないような、あるいはギリギリの危険が伴うような仕事(構図)にこだわるのか?」



そういうことを映画を見終わってしばらくしてから思ったのだけど、見ているときは半分寝ていたのもあってかその答えのようなものはわからなかった。なのでそのうちもっかいみたいなあと思うし、天命とか天職のようなものについて元気づけられたいときに見られると良いのかなあ。


蛇足だけどヴェンダースにもそういう傾向(光とか天使 - 静謐)があり、そういうとこもあって今回の映画でマッチしたのかなあとか。もっともヴェンダース色みたいなのはそんなに出してなかった?ようで、もっぱらサルガドのドキュメンタリー / モノローグ的な構成だったけど(白黒画面でサルガドアップの訥々としたモノローグが眠りを誘う)。互いに「撮るもの」のプロとして余計な編集を加えないことがサルガドに対する敬意の表れだったのかもしれない。



パリの断章 --- Mémentos à Paris: 映画 "Le Sel de la Terre" を観る
http://paul-ailleurs.blogspot.jp/2015/02/le-sel-de-la-terre.html












セバスチャン・サルガド写真展「Genesis」in ロンドン | 甘くて辛くてほろにがいイギリス
http://bit.ly/1KGpFXT




サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134989378.html




posted by m_um_u at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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