2015年07月04日

是枝裕和、2015、「海街diary」


1日に時間が合ったので「海街diary」を見てきた。



感想は特にエントリする気もなく簡単につぶやいて終わりにしようかと思っていたのだけれど、cakesほかでこの映画がどういう意図で作られていったかを読んでるうちにメモしたくなったのでエントリしておく。特に批評的な創意というわけでもなくメモ。




人は、もう居ない誰かとつながりあって生きている。|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9825


「ここにいていい」ということを歌えるよう|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9827



是枝裕和×菅野よう子『海街diary』インタビュー | NeoL
http://bit.ly/1FZIAow



cakesのほうは有料購読が必要なので読まない人がいるかもだけどNeoLに載ってる内容とも重なっていて、そこにあるようにこの映画は是枝監督が中心でグイグイ進めていった作品というわけではなく、むしろ菅野よう子さんとのセッションを通じて出来上がっていった作品ということがわかる。あるいは菅野さんだけではなく俳優やスタッフとのやりとりを通じてその場その場で変化させていった結果(アルバム)のようなもの。菅野さんが「こんなにゆるくて意見が通って行く現場ははじめてだったかも」というようなことを言っていたけれど、そういえば是枝監督はそういう創り方をしていたなあとかおもった。ちらっとTLで見た程度だけど、広瀬すずさんの演技なんかは特にセリフも決めずに状況だけ説明してアドリブでやってもらったところもあったようだけど、そういうやり方は「ディスタンス」なんかを想わせたし。




「過去が書き替えられていくことが、そのひとの成長になっていく」―『海街diary』是枝裕和監督インタビュー [T-SITE]
http://top.tsite.jp/news/i/24272142/

「これ、誰か撮るよな。撮られたくない、と思いました」
吉田秋生の漫画「海街diary」を読み、ある場面に遭遇したとき、是枝裕和監督はまずそう思った。そして、映像が浮かんだのだという。
「漫画なんだけど、ここ、カメラ、確実にクレーンアップだよなと。すごく映像的に出来上がってる。音も含めて。あれは絶対、映像にしてほしいという画になってる。映画になるために描かれてある、と思った。絶対、誰か『やる』と言うはずだと思い、その前に手をあげました」



「想いのたけをぶつけてみようと思いました。吉田さんは何を考えて、こういうシーンにしたんだろうか。ひとつひとつ読み解いていく。こんなに他人(ひと)の作品を繰り返し読んだことはなかった。吉田さんのなかに“潜っていく”ことからスタートしていますよ。それがわからないと映画にできない。わかりたい、と思いました」


「漫画、読んでいたときも感じていたんだけど、吉田さんとお会いして話して、この原作は、登場してこない人間がすごく重要な役割を果たす物語なんだなと、あらためて思って。読み直してみると、キーになるひとが姿を現していない。結局、そのひとたちを意識しながら、みんなは生きている。出てこない人間を回想で出さずに、どう生きている人間に重ね合わせながら描いていくか。すごくアクロバティックなことを要求されているんだなと。動作を、誰かから誰かに受け継いでいくとか、反復するとか、そういうことの積み重ねで、どう“いない”ひとを感じるか。それをやれるだけやろう。その覚悟は決めていましたね」



「原作のキャラクターを踏まえた上で、この4人を頭のなかで動かせるようになったので、そこからはオリジナルなのか、原作(通り)なのか、自分ではわからないまま動かせているんです。違和感なく描けていて、原作ファンに怒られるかもしれないけど、いま映画を観て、あれ?ここ、原作にあったかな? なかったかな?という感じだから、たぶん“移植”はうまくいっているんだと思います」
静の綾瀬はるか。動の長澤まさみ。「このふたりに影響されずに自分の時間を生きている」夏帆。大竹しのぶ相手に、当日いきなりふたり芝居をすることになっても「緊張しない」広瀬すず。絶妙なバランスのキャスティングも、「その先」を捉える映画の力になった。
「この原作は、少女漫画という枠を超えて、すごく大きなものを描こうとしている。それは、人間よりも、街だったり、時間だったり。だから『海街diary』なんだと思う、『鎌倉四姉妹物語』ではなくて。その大きさ。人に(向かって作品が)閉じていかない話にするにはどうしたらいいか。これは叙事詩的な作品だと思うから、そこはちゃんとやりたかったんですよね。読み込んだから、この作品が大きなものに辿り着こうとしている話なんだとわかったんです」





「吉田さんの『櫻の園』(1990年に映画化もされている)は、過ぎ去った時間は二度と戻ってこないという素晴らしくも残酷な漫画だった。でも『海街diary』は、過ぎ去った時間が、ときとともに自分のなかで、かたちを変えていく話だと思う。過去が書き替えられていくことが、そのひとの成長になっていく。その時間が彼女のなかでどう変化するかは見えない。そこが、この原作のいちばんの豊かさ。そこをなんとか描きたかった。僕自身父親が亡くなって15年ぐらい経ちますが、父親になったことで、自分の父親のことを思い返している自分がいる。いまの自分の年齢のとき、父親はああだったよな、とか。父親とは疎遠だったんだけど、その父親が自分のなかで、ちょっとかたちを変えてるわけ。自分も似ているところあるなとか。自分が父親として子供に接しているなかで、同じようなことが自分に起きている。この物語にはシンパシーを感じていました」





監督が「他の人に撮られたくない」とおもった印象的なシーンは原作一巻で四姉妹がはじめてあったとき、すずのお気に入りの場所に3姉妹が案内されて、「ここって鎌倉と似てるねー」といった後に四人の気持ちがはじめて少し触れ合って、そこに蝉しぐれが重なる場面。

自分的にはマンガでみたときにはそれほど印象的に想わなかったのだけど、監督に言われて見てみると「そういえばクレーンアップから4姉妹の輪を俯瞰するような場面だな」と気づいた。そういう画面構成になってるのはいまは亡き父親の視点を反映しているからだろうけど。

先に言ってしまったけど、原作の漫画は自分的にはそれほど印象的なものではなく地味なものに感じた。

それは先に映画を見て、それから「原作も当たってみないとなあ。。」ということでチラ見した程度だからかもだし、ストーリーに対する新鮮味がすでに失われていた+音楽や映像で演出が強化されたものを先に見ていたからかもだけど。そういった意味では「自分が吉田秋生のこの作品に映画よりも先に出会っていたらどういう印象をしただろう…?」とはおもう。



「先にあたっていたらどうだったかなあ」つながりでいうと是枝監督と菅野よう子さんの対談もそんな感じで、この対談を先に読んでいたらそういった見方に感性や感想が誘導されていたかもしれない。後出しジャンケン的に対談で語られていた内容を自分の感想のように述べる、みたいなの。映画を見た直後に、特にこの映画に対する感想や解説のようなものに当たる前に自分なりの印象をつぶやいたのはそういうことで、なにかに影響される前に自分の印象を封じ手的に遺しておいた。で、翌日cakesほかで監督のインタビューを読んでいったら思ったより自分の感性、読みが正しかったのだなあて思った。というよりは、自分固有の感想かな?とおもっていたのだけど映画や原作自体のメッセージだったのだなあてとこで答え合わせ → 正解、的な。

この映画の最初の印象は、「なんか、、物語らしい物語、というか映画や小説らしいドラマティックな物語性がない、全体的にPVみたいな内容なのでわかんないひとにはわからない『ぼんやりした』映画にも想われるだろうなあ。。」、というもの。

じっさい自分が見終わったときにもエンドロールで早々に席を立っている人たちが散見された。あるいは映画の途中にトイレかなんかで出てく人たちとか。

まあそういうのは映画のおもしろさに関係なく何割かはいるものだろうからあまり関係ないのかもだけど、カンヌでも特に賞をとらなかったのはそういうことかなあ。


この映画は全体的に海と波音、海に映える光、あるいは海の側の街に映える光や風によって構成されている。


人の言葉や論理、理性以前に光や音やにおい、あるいはそれらの積み重なった時間によって了解されていくものがあって、あるいはそれらを総称して時間というのかもしれない。


この映画で描かれているのはそういうもので、そういったものに対する慈しみをもった視線はこれまでの是枝作品の系譜に属する。たとえば「奇跡」とか。


人は不幸にあって、それを論理的-理性的に受け止めて正面から向かっていくことも大事だろうけど、食べたり歌ったり笑ったりすることも含めて人の生というもので、不幸の中でもそういうものから少しずつ影響されて、納得とはいかないまでも強烈に反発することがなくなってとどまったり方向を変えていったりする。許す、というわけではないのだけど、赦すというか…。忘れるわけでもないのだけど、怒ったりわだかまりをもつような意識をするのではなく、なんとなく方向をずらして行く。そういう考えもあるのか、というように。


人の生を生きるというのはそういうもので特に正解があるものでもなくて、いろいろな雑音に流され吸収し影響されていくことも含めて生きるということになる。人は理性だけでは生きていけないので。なので食事もすれば排泄もするし性行為もする。菅野よう子さんとの対談にも出ていたように是枝監督が「食べる」「料理する」ことをフィーチャーするのもたぶんそういうことなのだろう。

映画冒頭で天ぷらをあげる場面は「歩いても歩いても」のとうもろこしの天ぷらを想わせた。



自分がこの映画の初見で「物語としては出オチで終わっているので一般にはわかりにくそう」といったのは、「ふつーの作品なら父親の不倫相手の子どもを赦すということが大きなドラマになり、途中にいじめやらなんやらはさみつつ和解(あるいはそれに向かう一歩)をクライマックスとして物語が構成されていくはずなのに冒頭であっさりと『一緒に暮らさない?』と言ってしまっている」、ということ。なのでこの物語はそういった物語的な物語の構成をその時点で解体-迂回してしまっている。そういうやり方を選んだのは是枝監督らしいなあとおもったのだけどインタビューを見てみるとこれは原作の吉田秋生さんに依るものでそこに是枝監督も感心していた。

この作品はそういったクライマックス、ふつーの物語の最後の場面から始まっているエピローグのようなもので、それがずっと続いていく。「あの四姉妹のその後」的に。

インタビューの中で「この作品は誰かの不在がキーワードになっている。語られて入るけれどずっと画面に現れてこない人々」というようなことが語られていたけれど、そういった意味では描かれなかったこのクライマックス自体も『不在』なものということになる。あるいは並行世界の物語。

本当なら修羅場で終わっていたのが当然だったはずの世界-物語からするとこの物語の四姉妹の在り方はファンタジーであり奇跡のようなもので、そこに是枝監督的なひとつひとつの生の軌跡を切り取ったカメラ視点が重なっていく。そして、原作の物語の日常の中でいつの間にかふつーに実現してしまってる幸運を宝物のような幸運-奇跡として観るものに伝わりやすいように演出する。


映画の中盤から後半では父親の不在、家庭の崩壊という不幸がすでに生活の一部として慣れられて、父親の忘れ形見の妹との仲がある程度深まり、姉妹らしくなってきたところで近所のおばちゃんの死があらたな不幸として近づいてくる。

そこで映画全体に漂う「奇跡のような時間」を見つめる視点にあらたな意味、現実的な意味合いが付される。あるいは、その視点が「父親の死」「不在」をめぐるものだったのか、と気付かされる。死(不在や不幸)と生(の奇跡)というこの視点はこの作品の通奏低音となっていく。


自分的に意外だったのは「死や不在というこの視点は後景的なメッセージであって、一般的な観客にはそれほど伝わらない程度に設定されたものだったのではないか」とおもっていたのだけれど監督的にはそれを作品メッセージとして押し出していたということだった。もっと意外だったのは最初それをあまり出さずに、単に鎌倉四姉妹物語として描こうとしていたところを菅野よう子さんに映像の印象や意味を読み解かれて「むしろこっちではないか?」と誘導されていったというところ。

監督が最初に菅野さんに曲発注した時には四姉妹ということで弦楽四重奏的なものをということだったようなのだけど、それは理性先行の「頭で考えたもの」で、菅野さんとの何度かのやりとりを通じてそれが修正されていったらしい。修正というか、セッションを通じてアレンジされていったというか。四姉妹の長女のテーマとして考えられていたのはjazz的なものだったらしいけど、そういうのももうちょっとゆるやかに、全体的にクラシックな感じに変更されていった。


弦楽四重奏的なもの、という依頼は「そして父になる」同様にセリフ的な物語だけでは語られない部分を音楽によって印象していくためかなあとおもったのだけど、そこでイメージされていたのはたぶん原作のほうの四姉妹の様子で、映像として出来上がってきたものを菅野さんが見て違和感を感じたのだと想う。映像作品としては綾瀬はるかさんを始めとした俳優たちの演技や存在感そのものが意味を付加しているので。

蛇足で言えば原作の長女はもっとキリッとした行き遅れな感じだけど、綾瀬さんの場合は基本に癒し系というか、しっとりとしたたおやかさみたいなものが印象される。次女も長澤まさみさんの場合は「モテキ」「世界の中心で、愛をさけぶ」的なそれが、夏帆さんの場合もそれに準ずる。そういった意味だと夏帆さんは今回よく化けたなあとかおもった(逆にものすごく存在感を消してるという意味で存在感を感じたのが大竹しのぶさんとか樹木希林さんだったけど)。



もしかしたら菅野さんに依頼しなかったらこの作品は弦楽四重奏的なものを基本に鎌倉四姉妹的なものを描いた物語になっていたのかもしれない。グリコポッキー四姉妹物語的な。長女と次女の対決や仕事上での成長なんか、あるいは母親との葛藤や和解がドラマのメインとして付されていくような。特に母親、あるいはそれを通じた父親との和解は「そして父になる」にも通じる親子の葛藤と和解の女性版のようにおもう。


それはそれで良かったのかもしれないけど、原作も含めたこの作品の通奏低音的なテーマ、死や不在を片隅に意識させつつ、それに対するぢんわりとした了解を出せたのは地味な成功だったのだろう。


家族、あるいは機能不全家族の快復、自らが大人になることを通じてそれを何らかの形で了解し引き受けていくということについては「そして父になる」でひとつの完成に到達していたように思っていたけれど、菅野よう子という触媒が加わることでそこに新たなステージが拓けたのかなあとおもった。






死や不幸、それらの赦しと生きること、生活すること、時間





















SWITCH Vol.33 No.6  是枝裕和の20年 ”海街”へー ある家族の物語 -
SWITCH Vol.33 No.6 是枝裕和の20年 ”海街”へー ある家族の物語 -


海街diary オリジナルサウンドトラック - 音楽:菅野よう子
海街diary オリジナルサウンドトラック - 音楽:菅野よう子


海街diary -
海街diary -








--
是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html


見た映画についてちょっと(「奇跡」、「恋に落ちたシェイクスピア」)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n628a6a9ebd87







人は、もう居ない誰かとつながりあって生きている。|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9825


−− 菅野さんは、映画もドラマもその作品のテーマや魅力を深くくみ取りながらも、ドラマティックな音楽をつけられますが、本作の音楽はどのようにアプローチしていったんですか?

菅野 是枝さんの脚本と映像のみでイメージをふくらませていきました。映画は監督の作品だから、まずは敢えて原作を読まずに、まっさらな状態で挑みたいなと。打ち合せで監督とたくさんお話もしたんですけど、監督の「言葉」は聞いていなかったです(笑)。

−− 聞いていなかったといいますと?(笑)

菅野 脚本もそうですけど、言葉が意味する内容と、その奥にある感情って別物ですよね。「元気です」と言いながらも、実は悲しいとか。その感情の下には、さらに過去からの突き上げや無意識の世界があると思うから。そこまで深掘りして、深みから吸い上げたものを音楽にしたいと思うんです。

−− なるほど。

菅野 たとえば、今回、是枝監督の最初のオーダーは、「弦楽四重奏にしたい」だったんです。四姉妹をヴァイオリン、チェロ、ビオラにみたててね。意図はよく分かるんですけど、それは頭で考えた世界なんです。耳でとらえる言葉の下には、ざわざわしていて嫌だなぁとか、でも好きだなぁっていう不協和音のような心の動きがある。でも、それも氷山の一角で。さらにその下には、それらの感情さえ動かす無意識の大きな世界がある。死とか暗闇とか、人類、動物に共通するもの。

−− とても根っこの感覚ですね。

菅野 そう。「ひとりになると安心するけれど、なぜかさびしい」みたいなものとかね。そちらもくみ取った音楽を作りたかったというか……、これ言葉で説明するのはすごく難しいです!(笑)

是枝 わかります(笑)。僕も未完成の映画のことを「こういうことがやりたいから、こういう音楽を」って説明できないんですよ。だから、結局は、言葉ではない部分でキャッチボールしていましたよね。菅野さんが「こういう感じですか?」と上げてくれたものを映像に当てて、「良いです!」とか「少し違いますね」とか。

−− 具体的には、どんなキャッチボールがあったんですか?

是枝 最初、菅野さんは長女の幸に寄せて、もっと大人っぽいジャズみたいな音楽を書いてくださった。でも、編集中の映像を見せたら菅野さんのほうから「先日のdemoはちょっと違いました。クラシカルな雰囲気に振ったほうがこの世界に合うと思う」って。それで新たに書かれた曲をあててみたら、「こういうことだったんだ!」と。

菅野 映像を観た時に「これは答えがわかる類いの話じゃないんだな」と思ったんです。最初は人間の感情とか、四姉妹に寄り添った音楽を作っていたけれど、そうじゃない。この世界には、流れゆく大きな時間やめぐる季節があって、4人は“私”という日々を野良猫のように生きている存在、と映った。
 だから、音楽もその世界にあるひとつの要素。たとえば、寄せては返す海の波のように、お日様や星の光のようにいつもそこにあるけれど、問答無用に刻一刻と変化していくものとして、存在したいなと思ったんです。

−− すごく伝わりました。姉妹が生きている世界のどこかで流れているような美しい音だなと。それと、自然の四季のうねりや変化する風景のように、とても豊かな音楽であり、映画だなと感じました。

菅野 制作しながら私も「豊かでありたい」とは思っていたんです。豊かさって、わかりやすく言うと、メロディも楽器の編成もミュージシャンの演奏も、情報をすごく入れてあるんです。音響にも、深みとか広さとか複雑なレイヤーがある。でも、ぱっと聴いた時には、さらっと耳心地が良くて気付かないもの。隠し味のスパイスのようなものがたくさん入っているほうが合う映画だなと思ったから。

是枝 そうですよね。僕も菅野さんにこの音楽をいただいた時、「これは鎌倉四姉妹物語ではない」っていうことを改めて自覚して。時間とか街とか人や命の営みとか、大きなものにつながって行く話なんですよね。音楽と同様に、どう重層的にレイヤーを見せるかを考えました。姉妹のことを描きながらも、その背後には離れていた人やもう居ない人の気配も感じさせたいなと。
 たとえば、すず(四女、広瀬すず)はずっと離れていたのに幸(長女、綾瀬はるか)に似ていたり、千佳(三女、夏帆)は父親の記憶はなくとも会話から感じ取ったり。原作もそうですが、人は自分だけじゃない、他者とつながりあっているし、今だけじゃない、もうここに居ない人ともつながって生きている。そこを描けたら、表層的な物語じゃなくなるなと。話していると改めて、音楽とすごくリンクしているし、影響を受けているんだなと思いました。


posted by m_um_u at 15:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック