2015年05月02日

「栄養が行き届いていれば花は必要ないのです」 → 性 / 生 / 死 とそれらを共同体的に包摂すること


















ドングリと文明 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/780214


この辺をうんたらしたのは読んでるものと響いたからで、その辺りについて軽くnoteしとこうかとおもったんだけどけっこう長くなりそうなのでこっちにすることにした。…んだけど環境のせいで書くまでにやたら時間かかってげんなりしてきた。。







うわ、、1時間ぐらいかかってるな。。ひどい。。

とりあえずFirefox起動したのでそちらでblogの編集はしつつ、いつもどおり本文のテキストデータはメモ帳に書いてる。Seesaaの編集画面からだとレスポンス悪いしあぶなっかしくてやってられないので。noteはわりとレスポンス良いのでそのままあっちに書いてるけど。そんなに長文にしないし。


さておき

響いたのはドングリと文明のtogetterにまとめたところからか










「人類はほかの生物の死をまとって暮らしている」ということについて。自分の幻想もあるかもだけどたぶん現代人より古代、中世の人たちのほうがそういう感覚には近かったのではないかとおもう。自分で殺すし、殺したものを纏ったり栄養として摂ったりするので。また死との距離も現代人ほど隔絶したものでもなく死がふだんに生活の近くにあってそれを通じた生活のサイクルがあったような。王の二つの身体なんかで表されてるのだろうけど、昔は神性をもった王の死骸はそれによって土地に豊穣をもたらすとされた。ちょうどもののけ姫とかギガントマキアで表されていたように。


現代の都市生活者は基本的に死やなにかを殺すというところから遠い。場所によっては霊柩車が目の前を通るのや墓が近くにあることも厭われる。料理する人は魚をさばくぐらいはするけど、それは生物の命を奪るということとはまた違うような気がする。昔の人が小動物はすべて「虫」とあらわしたのと同じように。虫は「命を奪う」ってかんじでもなかっただろうし、それは「四つ足」と鳥や魚なんかとの関係とも同じだった(日本ではうさぎは鳥あつかいだったので食べられた)。



体験の範囲、実感の及ぶところ : 蜜蜂を弄ぶ
http://liyehuku.exblog.jp/24002926/


河P直美、2014、「2つ目の窓」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417488578.html



ゲーテの形態学のつながりから三木成夫さんを読んでる。

生命とリズム (河出文庫) -
生命とリズム (河出文庫) -
生命とリズム 三木生命学 (河出文庫) -
生命とリズム 三木生命学 (河出文庫) -

まだはじめのほうだし、いまのところ講演集ぽいのでぼんやりした内容だけど、<解剖学とか医学とかやってると生と死がそんなに判然と分けられるものではないような気がしてきます>、というのがいまのところの全体的内容になってる。「生と死は近代になって分けられていった」みたいなの。このへんは別件で見たデーケンさんの放送大学でもいってたけど





いわゆる死生学というやつ。


こういうのは言語化すると「生と死は別れてない」「あの世があってつながってる」みたいなことになって「ハナハダ非科学的ダ」みたいな話になっていくんだろうけど、そういう言語化とか理性としてのうんたら以前に、なんとなくの感覚としてそんなに死と生って判然と分けられるのかな?みたいなのはある。ちょうど現代の日本の都市生活者がスーパーのパック肉や魚の切り身と実際に生きてる牛や魚を実感として繋げられないのと同じように。飯島愛のひとは「こんにゃくってああいう形で海に浮かんでるものだと想ってた」っていってたし「紙婚式」にもそういう話あった。生き物がさばけない嫁の話。


紙婚式 (角川文庫) -
紙婚式 (角川文庫) -
紙婚式 角川文庫 -
紙婚式 角川文庫 -
紙婚式 (Feelコミックス) -
紙婚式 (Feelコミックス) -



医学的にはアポトーシスがどうとかな話になってくのかなとおもう。そこで癌なんかも絡むのだろうし、地球にとっての癌としての人間とか、あるいはウイルスとしての人間とかも絡んで来るのかなとおもうけど。


隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -
隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -
ストーリー -
ストーリー -


「生きるために死が、あるいは細胞の劣化と新陳代謝がプログラムされている」というところに形態学的な興味もからんでくるのだろうか。すなわち「変わりつつも変わらないもの」「変わらないけど変わるもの」。


三木さん的には

人間の原形は、動物のそれ、さらには植物のそれと比較することによってのみ明らかにされるものと思われる。言い換えれば、これらの三者に共通した生過程の原形を求め、その原形の人間における変容(Metamorphose)を求めれば良い。これがゲーテ形態学の根底をなす方法論である。

とかだけど

形態学的な興味?といえるのか似たようなものは自分にもあって以前に手の形とか人の身体の形のことを想ったりした。


position 1  「立つこと」「動くこと」「生きること」「性」「動くこと」「思考すること」 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/147666



人の身体というのは基幹の部分と枝葉の部分にわかれていて、身体技法的なことを専門でやっていくと「基幹を中心として身体をひとつのものとして認識して使うようにしろ」みたいなことが共通して言われるようにおもう。ボイストレーニングでは「喉や口だけで歌うのではない。体全体をひとつの土管のようなものと思って全身で声を出せ」とかいうし武術だとよく「腕だけじゃなく肚でいけ」みたいなことをいう。ジョギングでもそうだし、水泳だと特にそんな感じ。長距離を走ったり泳いだりしてると腕や足が邪魔になってきて、なるべく無駄なく/抵抗をうけないように最小限で基幹の動きに合わせるようになる。水泳の時はなるべく魚のように、走ってる時は…とくによい譬えが思い浮かばないけど、自分的には帆のようなイメージだった。帆とオール。基幹が帆で足がオール。基本姿勢を保ってれば推進しやすすく帆のほうがメインとなるのだからなるべく帆の邪魔をしないように、足≠オールは「付いてくる」/「勝手に動く」感じで。

で、そういうことをしてると、腕とか足とかはそもそも邪魔なものだなあ、とか思ったりする。まあでも現在の文明というのは手の仕事によって作られていったのだし、その恩恵は受けてるのだけど(こうしてタッチタイプなんかしてるし)。んでもより高度な文明?があれば手とか足とかいらないのではないか?とかおもったりする。そして、そこでは生きることも死ぬことも、性も生も超越されてる。




性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html




吉野弘さんの詩集を読んでると「栄養状態が十分だと茶は花を咲かさないのですよ」という話があった。茶というのは、あるいは植物は栄養状態が危機的になると花を咲かすらしい。

新選吉野弘詩集 (1982年) (新選現代詩文庫〈121〉) -
新選吉野弘詩集 (1982年) (新選現代詩文庫〈121〉) -

   茶の花おぼえがき

 井戸端園の若旦那が、或る日、私に話してくれました。「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません。」

 花は言うまでもなく植物の繁殖器官、次の世代へ生命を受け継がせるための種子を作る器官です。その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚できるほどの、エネルギーの充足状態をが内部に生じるからでしょうか。

 死を超えることのできない生命が、超えようとするいとなみ―それが繁殖ですが、そのいとなみを忘れさせるほどの生の充溢を、肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きです。幸か不幸かは、別にして。

 施肥を打ち切って放置すると、茶の木は再び花を咲かせるそうです。多分、永遠を夢見させてはくれないほどの、天与の栄養状態に戻るのでしょう。

 茶はもともと種子でふえる植物ですが、現在、茶園で栽培されている茶の木のほとんどは挿し木もしくは取り木という方法でふやされています。

 井戸端園の若旦那から、こんな話を聞くことなったのは、私が茶所・狭山に引っ越した翌年の春、彼岸ごろ、たまたま、取り木という苗木づくりの作業を、家の近くで見たのがきっかけです。

 取り木は、挿し木と、ほぼ同じ原理の繁殖法ですが、挿し木が、枝を親木から切り離して土に挿しこむところを、取り木の場合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り口を土に挿しこむのです。親木とは皮一枚でつながっていて、栄養を補給される通路が残されているわけでです。

 茶の木は、根もとからたくさんの枝に分かれて成長しますから、かもぼこ型に仕上げられた茶の木の畝を縦に切ったと仮定すれば、その断面図は、枝がまるで扇でもひろげたようにひろがり、縁が、密生した葉で覆われています。取り木はその枝の主要なものを、横に引き出し、中ほどをポキリと折って、折り口を土に挿し込み、地面に這った部分は、根もとへ引き戻されないよう、逆U字型の割竹で上から押さえ、固定します。土の中の枝の基部に根が生えた頃、親木とつながっている部分は切断され、一本の独立した苗木になる訳ですが、取り木作業をぼんやり見ている限りでは、尺余の高さで枝先の揃っている広い茶畑が、みるみる、地面に這いつくばってゆくという光景です。

 もともと、種子でふえる茶の木を、このような方法でふやすようになった理由は、種子には変種が生じることが多く、また、交配によって作った新種は、種子による繁殖を繰り返している過程で、元の品種のいずれか一方の性質に戻る傾向があるからです。

 これでは茶の品質を一定に保つ上に不都合がある。そこで試みられたのが、取り木、挿し木という繁殖法でした。この方法でふやされた苗木は、遺伝的に、親木の特性をそのまま受け継ぐことが判り、昭和初期以後、急速に普及し現在に至っているそうです。

 話を本筋に戻しますと―充分な肥料を施された茶の木が花を咲かせなくなるということは、茶園を経営する上で、何等の不都合もないどころか、かえって好都合なのです。新品種を作り出す場合のほか、種子は不要なのです。

 また、花は、植物の栄養を大量に消費するものだそうで、花を咲かせるにまかせておくと、それだけ、葉にまわる栄養が減るわけです。ここでも、花は、咲かないに越したことはないのです。

「随分、人間本位な木に作り変えられているわけです」若旦那は笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長という状態に置かれている」と付け加えてくれました。

 外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっているような、けだるい生長―そんな状態を私は、栄養成長という言葉に感じました。

 で、私は聞きました。

「花を咲かせて種子をつくる、そういう、普通の生長は、何と言うのですか?」

「成熟生長と言っています」

 成熟が死ぬことであったとは!

栄養成長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちにあった私は、二つの成長を瞬時に体験してしまった一株の茶の木でもありました。それを私は、こんな風に思い出すことができます。

 ―過度な栄養が残りなく私の体の外に抜け落ち、重苦しい脂肪のマントを脱いだように私は身軽になり、快い空腹をおぼえる。脱ぎ捨てたものと入れ替わりに、長く忘れていた鋭い死の予感が、土の中の私の足先から、膕(ひかがみ)から、皮膚のくまぐまから、清水のようにしみこみ、刻々、満ちてくる。満ちるより早く、それは私の胸へ咽喉へ駆けのぼり、私の睫に、眉に、頭髪に、振り上げた手の指先に、、白い無数の花となってはじける。まるで、私自身の終わりを眺める快活な明るい末期の瞳のように―

 その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那から聞いたこういう話がありました。

 ―長い間、肥料を吸収し続けた茶の木が老化して、もはや吸収力を失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。

 花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか。

 追而、

 茶畑の茶の木は、肥料を与えられない茶の木、たとえば生け垣代わりのものや、境界代わりのものにくらべて花が少ないことは確かです。しかし、花はやはり咲きます。木の下枝の先に着くため、あまり目立たないというだけです。その花を見て私は思うのです。どんな潤沢な栄養に満たされても、茶の木が死から完全に解放されることなどあり得ない、彼らもまた、死と生の間で揺れ動いて花を咲かせている。生命から死を追い出すなんて、できる筈はないと。



註 井戸端園の若旦那から、あとで聞いたところによると、成熟生長は「生殖生長」とも謂う。

 栄養生長、生殖生長については、、田口亮平氏の著書「植物生理学大要」の中に詳しい説明がある。それによると、この二つの生長は、植物が一生の間に経過する二つの段階であって、種子発芽後、茎、葉、根が生長することを「栄養成長」と謂う。(茎、葉、根が、植物の栄養器官と呼ばれるところからこの名がある)

 栄養生長が進み、植物がある大きさに達すると、それまで葉を形成していた箇所(生長点)に、花芽、もしくは幼穂が形成されるようになり、それが次第に発達し、蕾、花、果実、種子等の生殖器官を形成する。この過程が「生殖生長」である。

 井戸端園の若旦那から当初聞かされた言葉が、かりに「成熟生長」でなくて、「生殖生長」であったら、この「茶の花おぼえがき」は、おそらくは書けなかったろう。成熟は生殖を抱合できるように思えるが、生殖は成熟という概念を包みきれないように思う。また、彼から「栄養生長」という言葉を聞いたときその内容を確かめもせず一人合点したことを「植物生理学大要」を読んで知ったが、理解の不十分だったことが、かえって鮮烈に「成熟」という言葉に出会う結果となったようだ。

 なお、栄養生長、生殖生長の二語は、植物のどの部分を収穫の対象にするかを考えるときに便利な概念である。茎、葉、根を収穫の対象にする場合は、栄養生長を助長すればいいし、花、果実、種子収穫対象とする場合は、生殖生長を助長すればいい。茶の場合は、言うまでもなく前者で、若主人が「茶畑の茶の木はみな栄養生長の状態にある」と言ってくれたのは、葉の収穫を最重点に管理している畑の状態を指していたわけである。

 種子繁殖に対し、葉、茎、根の一部を分離してふやす方法を栄養繁殖と言う。これは前述した通り葉、茎、根が植物の栄養体もしくは栄養器官と呼ばれるところから、その名がある。栄養繁殖は、球根植物やその他の植物の間では自然に行われていることで、サツマイモ、ユリ、タマネギ、クワイなどは、自然に栄養繁殖を行っている例である。茶の木の場合の取り木は、、いわば人為的栄養繁殖である。だがこの作品の中では「栄養生長」との混乱を避けるため、用いなかった。

 因みに、狭山「市の花」はツツジであって、茶の花ではない。「市の木」として「茶の木」が指定されている。茶の花は茶所を代表していないわけだ。

久しぶりの雨と吉野弘「茶の花おぼえがき」 - 現代田んぼ生活 辻井農園
http://d.hatena.ne.jp/tsujii_hiroaki/20090912


盆栽なんかだとそんなこといって「来年も花を咲かせようと思うなら葉っぱはきちんと剪定しとかなきゃダメだ」とかいうのだけど、うちの梅の鉢植えはそのままダラーッと育ててて新緑してる。めんどうくさいというのもあるけどなんだか忍びなくもあるので。葉っぱが成って行くのを見るのも好きだし。

花というのは生殖のために必要なものだから人間にとっての第二次性徴とかセックスとかにあたるのだろうけど、そうすると人間がセックスするのは、あるいはそのために第二次性徴とか、ファッションなんかで擬似的/儀礼的に性徴を装うのは生物として完全ではないからなのかな?とおもったりする。危機とまではいかないだろうけど。単純には死が設定されてるので性によって生をつなごうとしてるということになる。そういえば宮本輝の小説でそういうのあった。かつては栄華を極めた男が死の淵に追い詰められたギリギリでむしょうに自慰がしたくなって自慰にふける、みたいなの。「生物は死の淵に追い詰められると自らの種を遺そうとする」とかなんとか(シグルイでもあったな)。んでもセックスなんかも現代人からすると生物/生殖合理的なものではなく快楽の合理性を軸としたコンサマトリーなものになってるわけだけど。

人が、あるいは人の生が完全なものになってしまえば性もセックスもいらなくなるのかなあ、とか思う。究極的には脳みそだけでうんたらということだし、その前段階だと身体を義体に入れ替えてうんたらだろうけど。でも、そうするとアポトーシスが設定されてるのと同じような問題として「ゴーストがささやくのよ」ってことになるのだろう(なので草薙素子はわざわざローテクな女性型身体をまとい、擬似的なセックスをし、中国茶器で茶を喫したりする)。まあけっきょく冗長性の問題なのかなあとか思ったりするけど。






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「墓が捨てられる」時代: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/10/post-b2c6.html



墓≠死といった不可解も共同体によってなんとなく意味づけられ回収される側面がある/あったのかもしれない。そしてそれらが変化してしまってきている。ネットも含めて。


川崎市中1男子生徒殺害事件について: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/04/post-cfe6.html


彼ノ花|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n461594ceb71d


川村壮志、2014,「謝るなら、いつでもおいで」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416879101.html



鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html


無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 -
無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 -




「死」も含めて、あるいは誕生や乳幼児への態度も含めて、以前の公共性 - 市民社会的な「ふつー」の感覚であれば特に問題でもなかったもの、常識として儀礼的・大人的に片付けられていたものが通じなくなってきてる現状がある。そういうのにセックスも含まれる。セックスとそれをめぐる表象や実存は刺激的な商品として商品として回収されてるので。こういうのは吉田健一やそのあたりのふつーな大人だったら「馬鹿らしいのでそんなにわざわざ言わないことだ」みたいなこといいそう。

痴漢とか強姦とか、その他を含めてのステロタイプな男性性欲にうれぴっぷるなんかが違和感とか嫌悪をもつのはそのへんかなとおもうんだけど、あのへんもセックスとかにみょーに期待したり幻想や欲望が過剰に集中してるのがみょーな感じであって、たぶんそれは消費的、産業的に表象や実存、欲望が回収され影響された結果としての軽度なフェティシズム(ビール依存なアルコール依存ぐらいな意味でのそれ)だろうから、ほかに楽しみが見つかればそっちにそれるのかなあとか思ったりする。

逆にいうとそういうところに過剰にフェチしてしまう人たち、痴漢とか強姦/准強姦のような犯罪のように通常の人間的付き合いを越えて性欲がオーバードライブしてしまうひとたちは性欲があらわれると全身性器みたいになってほかの愉しみ/自我の規制がゼロになるほどに性欲≠ちんこまんこに支配された貧困というか、そういうのはもう軽く依存ということだろうから特にバカにするわけでもなくかわいそうなんだけど(そういうのも消費産業の影響の結果だろうし)。そして、たぶん世の中の大部分はそういう人たちの割合のほうが「ふつー」に多くて彼や彼女たちの自己認識的にもそれが「ふつー」ということになってる。ちょうどビール依存の日本人が軽度アルコール依存になってるにもかかわらず「アル中じゃないよ」とかいうように。


なので、ネットも含めた公共圏 / 市民社会的共同体をどのように設定し、生きること / 死ぬこと / あるいは性があること、それらに対してふだんの生活の中で、人としての当然のあり方 / 接し方をどのように設定していくかが地味に考えられるのだろうなあとか思う(そのへんに関心がある人たちとしては)。

まあでも性欲とかはとくにハビトゥスというかエートスというか、理性とかその場での教育ではすぐに方向修正できない染み込んだものだろうから、その辺を納得していくのには教条的な教育というか、彼らが志向する性欲 / 性行動 / 性快楽よりもまさるものを得られる環境を整える/整えられるようにサジェストする、もしくは彼や彼女たちがセックスに依存することで思ったよりの快や満足を得られない(却ってさびしくなる場面もある)ということを体験的に実感していくしかないのではないかとおもうけど。

花と同じで栄養が足りてれば無理に咲くこともないのだろうし、逆にいうと栄養が足りてなければ花を咲かさざるを得ないのだろうから。





花を届ける|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n03476ff2dc8e

fleur|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nf07dcfb9d660



Rebecca Horn    性と生の超越: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/133818125.html


posted by m_um_u at 17:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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