2015年04月15日

ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」




われわれの眼は所与の刺激に対して、その印象のなかでそれまでとは異なる、新しいものを登記するかわりに、それまでに何回となく生み出してきたイメージをもういちど再生産することによって反応するほうが、はるかに楽だと思っているのである。

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』







いかなる形態での魔術への逆戻りにもアレルギー反応を示すことで、芸術は、マックス・ウェーバーの術語を用いるならば「魔術からの解放」の重要部分を構成しているのである。芸術は合理化と分かちがたく絡まりあっている。芸術が揮うことのできる手段や製作方法は、すべてこの合理性との繋がりから由来している。

テオドール・アドルノ『美の理論』
















観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書) -
観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書) -


まとめるのがめんどくさい本なので以下は主に引用中心で。あとで見返すときにもそのほうが良いので。


フーコーとゲーテ、ショーペンハウアーとかを読んでると読みやすいだろうなあって感じの本だった。逆にそれらを読んでないとちょっとつらい。主張の構成がそれらを前提にした批評的な配列になってるので。これ単体だと読み終わった後にこの本単体での読了満足感はあまりない。それらのギロンにアクセスしてみようかという気は起こるけど。まあよくある難しげ人文的なあれといえばあれなんだけど。「玄人向け」とか「その方面詳しい人がさらに積むために必要な誤差の部分の修正」みたいなの。


「観察者の系譜」は予想通りすこし骨の折れる本だけど読み応え/読む価値は感じる。写真-見る/見られるの感覚の変容-それによる知覚や認識全体の変容などは最初から興味の対象だったのでそれについて語られることに驚きはないのだけれど、ざっとみたところ幻燈機やターナー(蒸気な絵画の)、ゲーテの色彩論、ショーペンハウアーなんかも関わってくるようで興味・関心の収斂、邂逅のようなものをおもう。

まださわりしか読んでないけれど、「観察者の系譜」ではそういった理性のドライブ - マトリクス化された認識-視角の地図とそこに絡め取られることを当然としていく現代人の在り方、すなわち近代の暴力的な認識が出来上がったのが19世紀前半であり、その表象的な足跡としてブリューゲル、フェルメール、ターナーなどが挙げられていく。


「観察者の系譜」をよみはじめた|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf8fe97cead1f




クレーリーの問題意識はおーざっぱにいうと以下のようになると思う(要約大意)。

一般的には現代に至る視覚、あるいは視覚に紐付いた認識/リアリティは過去から地続きで「進歩的に発展」してきたように捉えられ、そこに「客観的」「科学的」「進歩的」とする罠があるのだが、現代に至る視覚は地続きの発展的なものではなく19c初頭に断絶がある。

19c初頭(1810-40)の変化とは

マネや印象主義、そして/あるいはポスト印象主義の到来とともに、視覚表象と視覚映像(イメージ)の知覚に対する新しいモデルが生まれ、それは数世紀におよぶ別の視覚モデル――すなわちルネサンス的/遠近法的/規範的モデルとして大まかに定義可能なもの――からの切断面を形成している、と。近代の視覚文化に関する理論のうち大部分のものが、この「切断」のあれやこれやの焼き直しにいまだに縛り付けられているのである。
にもかかわらず、遠近法的空間、ミメーシスのコード、外界の指示対象といったものの終焉をめぐるこの物語は、同様に廃棄される必要のある、ヨーロッパの視覚文化史のもう一つの全然違った時代区分と、通常は無批判に共存してきた。この二番目のモデルは、写真やそれに関連した十九世紀の「リアリズム」形式の発明と普及とに関するものである。こういった発展の歴史は、圧倒的に、ルネサンスを基礎とした視覚のモードの連続的な展開の一部をなすものとして提示されてきたのであって、そのモードの内部では、写真は――そして最終的には映画までもが――遠近法的空間や遠近法的知覚の止むことのない展開の、後代における事例にすぎないとされている。かくしてわれわれはしばしば、十九世紀の視覚に対する、混乱した二叉の理論を掴まされることになる。一方の水準には、根底的に新しいものの見方と意味づけとを生み出した。比較的少数の進んだ芸術家たちがおり、他方、より凡庸な水準では、十五世紀以来視覚を組織していたのと同一の普遍的な「リアリズム」の拘束の内部に、視覚は埋め込まれつづけている、ということになる。古典的な空間は一方では覆されたように見えるが、しかし他方ではそれは相も変わらず存続している、といった具合なのだ。この概念上の分裂は、「リアリズム」の名で呼ばれる何物かが大衆的な表象化の実践を支配しており、一方、たとえしばしば、かかる大衆的な実践領域へと浸透していくにしても、ともかくもそれからは截然と区切られたモダニスト的芸術制作の闘争の現場で、さまざまな実験や革新が生まれたのだ、という誤った観念に辿り着くことになる。



「見る主体を状況から除外した完全客観(中立的で不可視の相関項である身体)をリアリズムとする」モデルから「主体も状況の一部として影響を受けている」というモデルへ変化していく。


私の主張は、十九世紀において、写真の登場以前に、観察者の再編成が行われているというということである。1810年から1840年頃にかけて生じていることは、カメラ・オブスキュラという姿に具象化されている、安定し固定された関係性から、視覚を引き剥がすことである。かりにカメラ・オブスキュラが、概念=認識枠組み(コンセプト)としては、視覚的真理の客観的土台としてそれまで存続していたとするならば、19世紀の初頭に、さまざまな言説や実践 ― 哲学や科学における、そして社会的正常化=規範化(ノーマライゼーション)の数々の方策における ― が、その土台のおおもとを突き崩していったのだ。ある意味では、生じているのは視覚的経験に対する新しい評価の仕方である。そしてその評価は、いかなる土台となる場所や指示対象からも引き離され、抽象化された、それまでには見られなかった可動性と交換可能性というかたちで与えられている。
第三章で私は、ゲーテやショーペンハウアーの著作や、十九世紀初期の心理学、生理学におけるこういった再評価のいくつかの側面を記述している。そこでは感覚や知覚の本性それ自体が、後に写真を始めとした商品や記号のネットワークの特性を示すことになる等価性や中立性といったものを構成する特徴の多くを帯びているのである。主観的な視覚―つまりあらゆる外界の指示対象(リファレント)から切り離された自律的な知覚をも包含するような視覚―についての経験科学的研究の前線に存在するのは、かかる視覚的「ニヒリズム」なのである。だが強調しておかねばならないのは、このあらたなる視覚の自律性や抽象化は、ただ単に十九世紀後半のモダニズム絵画の前提条件であるにとどまらず、それよりはるかに早く登場する視覚の大衆文化の条件でもあるということだ。
第四章で私は、ステレオスコープやフェナキスティスコープのような大衆的な娯楽の形式となった視覚器具が、もともとは観察者及び視覚の生理学的な身分をめぐる経験科学的知から生じてきたさまを論ずる。かくして、通常は無批判に「リアリズム」のカテゴリーに分類されてきた視覚経験のある種の形式は、事実上現代世界を無化してしまうような事実符合性をもたない視覚に関する理論に、じつは結びついているわけである。
十九世紀の視覚経験は、それを真正なもの(オーセンティケイト)とし、自然化しようとするあらゆる試みにもかかわらず、自分は真理を確立しているのだというカメラ・オブスキュラの断固たる権利要求に少しでも似たものを、もはや所有してはいない。表層の水準では、リアリズムをめぐるさまざまの擬制(フィクション)は円滑に作動しているのだが、十九世紀の近代化の諸過程は、そうした「リアリズム」の幻想に依存してはいなかった。流通、コミュニケーション、生産、消費、そして合理化において生じた新しい様態は、いずれも新しい種類の観察者/消費者を必要とし、かつそれをかたち作っていったのである。



クレーリーが「観察者」という言葉に込める含意は以下の様なものになる。


 たいていの辞書は「観察者(observer)」と「観客(spectator)」とのあいだにはほとんど意味論上の違いを設けていないし、日常の用法ではこれら二つの語は実質的に同義語となっている。私が「観察者」という語を選択したのは、主にこの語の語源的なひびきのためである。spectator のラテン語の語根である spectare とは異なり、observe の語根は字義的には「見る(to look at)」ことを意味していない。「観客」はまた、ことに十九世紀の文脈では、私が避けることにしたある特定のコノテーションを含んでいる。それはすなわち、画廊や劇場のようなスペクタクル(spectacle)の現場での受動的な傍観者という含意である。ある意味では私の研究にとってふさわしいことに、[ラテン語の]observare は、―規則、コード、規制、慣例といったものを遵守する(observe)ときのように―「人の行動を何かに従わせること、応ずること」を意味している。観察者とは、たしかに明らかに見る者なのではあるが、さらに重要なことには、彼は予め定められた可能性の集合の枠内で見る者であり、さまざまな約束事や限界のシステムに埋め込まれた存在なのである。十九世紀に固有の―あるいはどんな時代に固有なものでもかまわないが―観察者が存在するということができるとすれば、それは言説、社会、技術、制度といったものの相関関係が織りなす、還元不能なほど異種混濁的なシステムの効果としてでしかありえないだろう。絶え間なく変化していくこの領域に先立って存在する観察主体などありはしないのである。
 私が視覚の歴史という考えを述べてきたとしても、それはあくまで一つの仮説的な可能性としてのことにすぎない。知覚や視覚が実際に変化するのかという問いにはあまり意味がない。なぜならそれらは自律した歴史をもってはいないからだ。変化するのは、知覚がそのなかで生起するような領域を構成している、複数的な力や規則の方なのである。そしていかなる時代においても、視覚を決定しているのは、何らかの深層構造や経済的基礎、あるいは世界観などではなくて、ある単一の社会の表層上に犇く様々な要素の集団的な配置=配列(アセンブレージ)の作用なのである。それどころか、観察者という存在自体を、多くの異なった場所に配置された多様な出来事の分布図のようなものとして考えてみる必要さえあるかもしれない。自存せる目撃者、その人にとって世界が透明な明証性をもったものとして立ち現れるような観察者など、今までいたためしもないし、これからも誕生しないだろう。そのかわりに存在しているのは、諸力の多かれ少なかれ強力な布置なのであり、そのような布置によって、観察者が有するさまざまな能力が可能となるのである。



SFがハードSFからソフトSF(内面)へという歴史をたどったのと同じく、観察-視覚の対象となる場も外界からインナーワールドへと変わっていった。


透明で客観的な視覚-認識という考え方が幻想であることを一部の先端なひとたちはなんとなく知った。そしてそういった感覚とは別のリアリティ、人の内部におけるほんとのリアリティをできるだけそのままに表現しようとしはじめた。ゲーテなんかはその代表例としてあげられる。あるいは象徴主義の詩人たち。


ボードレールにとって万華鏡は、近代そのものと暗合するものだった。「意識を備えた万華鏡」になることが、「普遍的(=万人の)生活を愛する者」の目標だった。彼のテクストのなかでは、万華鏡は、単一的な主観性を解体し、そしてまた―形象=像(イコニシティ)をあらゆる地点で断片化し、安定状態を撹乱することで―新しい、変移していく不安定な配列状態へと、欲望を散乱させるための機械であった。
けれでも、1840年代の時点でのマルクス・エンゲルスの著作においては、万華鏡は全く異なる機能を担っていた。ボードレールをかくも誘惑した万華鏡の複数性は、彼らにとってはニセモノであり、文字通り、鏡を使った詐術の謂であった。万華鏡は、新しいものを生み出すのではなく、ただ単にひとつのイメージを反復するにすぎないのだ。




だからといって全てが幻想・解釈によって覆われているというわけでもなく、そういった人々も現実の生活の中ではリアリズムのフィクションに従わざるを得なくて、生活としては客観―リアリズムのフィクションに並行しつつ、主観-幻想を保っていった。

cf.ボードレール、クールベ





視覚とそれをめぐる認識はメディアや社会的通念によって完全に規定されるというわけでもなくある程度の主観的リアリティー幻想を保ちつつも、基層としてはそのメディアや社会的通念、あるいは共同幻想も含めたものに個々の認識が配置されていった。配置されているだけなので完全に規定されてるわけではないのだけれど影響は受ける。そして、その制約が状況に影響を与えていく。

「規定ではなく配置である。そして配置されることに依って環境的な影響を受けていく」というようなことをクレーリーはいっている。


おそらく、カメラ・オブスキュラを―あるいは、他のどんな視覚装置(アパトゥス)であってもよいが―理解するうえでもっとも主要な障害となるのは、視覚器具と観察者とがそれぞれ別個の実体であり、観察者の自己同一性は、テクノロジーによって生み出された物理的な器械である当の視覚器具からは独立して存在しているのだ、という発想であろう。というのも、カメラ・オブスキュラを構成しているのは、この装置の複数的な身分(アイデンティティー)そのもの、つまり言説の秩序の内部においては認識論的な形象であり、同時に、文化的諸実践の布置の内部ではモノでもあるような、その「混合的」な地位だからである。カメラ・オブスキュラとは、ドゥルーズならば「配置=配列(アセンブレージ)」と呼ぶだろうもの、「器械の配置=配列(アセンブレージ)であると同時に、かつそれと不可分に、言表行為の配置=配列でもある」ようなものなのだ。要するにそれは、言表の対象であり、また使用されるモノでもある。それは言説の編成と物質的な諸実践とが交錯する場所なのである。そうだとするならば、カメラ・オブスキュラは技術が生み出したモノにも言説の対象にも還元することはできない。それは、テクスト的な形象としての存在が機械としての使用と全く不可分であるような、複合的で社会的な混合の様態(アマルガム)だったのである。
 このことが意味しているのは、カメラ・オブスキュラは、影響力を持って流通している歴史研究 ―そういった研究のなかでは、カメラ・オブスキュラは、写真の誕生へと至る系譜のなかで、写真の先行者またはその開始点に位置づけられているのだが― において中心を占めているような技術決定論の進化論的な論理から解放されるべきである、ということだ。再びドゥルーズを引用するならば、「機械は技術的存在である前に社会的存在である」。たしかに、写真には技術的、物質的な基盤があったわけだし、写真機とカメラ・オブスキュラという二つの装置の構造原理が関連性をもっていないわけではないのは明らかだ。だが、ここで私が論じたいのは、カメラ・オブスキュラと写真機(カメラ)とは、[諸勢力の]配置=配列(アセンブレージ)の形状として、実践として、あるいは社会的な事物として、二つの全く異なった編成に ―すなわち、表象や観察者の異なる編成様式、また同時に観察者と可視的なものとのあいだの関係の異なった組織化の様態に― 属している、ということなのである。19世紀の始めごろには、カメラ・オブスキュラはもはや、真理の産出や、忠実に世界を見るように位置づけられた観察者といった概念と同義ではなくなっている。そうしたことを語り続けてきた言表の規則性は突然に終焉しているのである。カメラ・オブスキュラが構成していた[言説と物質的実践の]配置=配列(アセンブレージ)の姿は溶解する。それから写真機が、カメラ・オブスキュラとは似ても似つかぬモノとして登場し、根本的に異なった言表や実践のネットワークのなかに埋め込まれるのである。




配置=配列(アセンブレージ)について。訳注的には以下のように解釈・解説していた。



原文 assemblage。これは『ミル・プラトー』の英訳版において agencement に当てられた訳語である。なお原文中においてクレーリーは arrangement という語をきわめてしばしば用いている。厳密に言えばそれは「配置=配列」であるところの assemblage とは少し含意が異なるのだろう ―おそらく「配置=配列」にフーコー的な「布置(configuration)」のイメージが加味されたようなものなのだろう― が、大体において「布置」というよりもドゥルーズ的な意味が強いと考え、訳では原則としてどちらも「配置=配列」として処理しておいた。








そこで生活していた人たちの、あるいは視覚とそれにもとづいたリアリティに敏感なひとたちの感覚として。表面的には「客観的視覚に基づいたリアリズム」という幻想に従いつつ、それらはあくまで「配置」というほどの制約/自由度をもってモードの変化に対応していった。


カメラ・オブスキュラは客観的視覚という幻想が成立していた時代の代表的視覚装置となった。カメラ・オブスキュラを通じて人々は外界から隔絶された純粋で客観な監視が可能となっていたので。


1500年代末期から、カメラ・オブスキュラの形象は、観察者と世界との関係を設定し、定義づけるうえで、群を抜いた重要性をもつようになっていく。数十年のうちに、カメラ・オブスキュラは数ある視覚器具や光学上の選択肢の一つであることをやめ、視覚を認識し、再現=表象するためになくてはならない場(サイト)となるのである。それは、何よりも、新しい主観性=主体性(サブジェクティヴィティ)のモデル、新たな主体効果のヘゲモニーの誕生を示している。まず第一に、カメラ・オブスキュラは固体化という働きを遂行する。つまり、カメラ・オブスキュラは観察者というものを、必然的に、その暗い閉域の内部にあって他者から切り離され、囲い込まれた、自律的な存在として定義=限定しているのである。この仕組みは、人間と[暗室のなかから見た場合]今や[外部にある]世界との関係を制御し純化するために、一種の禁欲を、すなわち世界からの退隠を、強制する。このようにして、カメラ・オブスキュラは、内部=内面性(インテリオリティ)に対するある種の形而上学と不可分となる。カメラ・オブスキュラは、名目上は「自由」で「自己決定権をもった」観察者を表すと同時に、公的な外部世界から切り離され、いわば擬似家庭的(ドメスティック)な空間に閉じ込められた、私秘化した主体をも表示しうるような形象となるのだ(バークリー僧正その他の人々が、視角表象のことを、あたかも私有財産であるかのように語っていることに、ジャック・ラカンは言及している)。それと同時に、この第一のことと関連して入るが同じくらい重要な暗室(カメラ)の機能は、見るという行為を観察者の肉体としての身体から切り離すこと、視覚を非肉体化することであった。あたかも単子(モナド)のごとき個人の視点は、カメラ・オブスキュラによって真正なものと認証され(オーセンティケイト)、正統性を付与されているのだが、観察者の肉体的、感覚的な経験は、機械的な装置と所与のものとして与えられている客観的真理の世界とのあいだに結ばれる諸関係によって代謝されているのである。ニーチェはこのような思考様式を以下のように要約している。「感覚は人間を欺き、理性が誤りを正す。したがって、とひとは結論を出す、理性こそが不変なるものへの直道なのだ、と。もっとも感覚的でない観念が『本当の世界』に一番近いのだ、と。―大部分の不幸は感覚から来ている―感覚は人間を欺くもの、惑わせるもの、破壊者なのである、と」。

 
カメラ・オブスキュラと、内面化され、非身体化したその主体とについてのイメージが表れている著名なテクストに、ニュートンの『光学』(1704)とロックの『人間悟性論』(1690)がある。彼らが一致して示しているのは、カメラ・オブスキュラが経験的現象の観察のためのモデルであったと同時に、反省的内観や自己省察のモデルであったさまである。ニュートンの全テキストを通じて、彼の帰納法的方法論が展開される中心的な場所はカメラ・オブスキュラである。それは彼の知が可能になるための土台なのである。『光学』の冒頭近くで彼はこのように述べている。
  非常に暗い部屋[=暗室(カメラ・オブスキュラ)]のなかで、窓板に作られた直径三分の一インチの丸い穴のところに、私はガラスのプリズムを置いた。そのプリズムによって、穴から入ってきた太陽光線が上方に反射され、部屋の反対側の壁に向かい、そこで太陽光線の色彩像を生じさせるために、私はそうしたのである。


 一人称代名詞「私」によってニュートンが記述している身体的活動は、彼自身の視覚の働きに言及しているのではなく、むしろ、透明な、屈折作用を利用した再現=表象化(リプレゼンテーション)の手段の使用に言及している。ニュートンは観察者であるというよりも場面全体を組織する者であり、彼自身の肉体はその具体的な働きからは切り離されているようなある装置を、舞台装置よろしくセッティングしているのである。ここで記述されている装置は厳密にはカメラ・オブスキュラとは言えないが(平レンズや針穴のかわりにプリズムが用いられている)、その構造は基本的に同一である。外界の現象の再現=表象化は、暗くされた一室 ―部屋(カメラ)、あるいはロックの言葉で言えば「空っぽな部屋(エンプティ・キャビネット)」― の直線で囲まれた閉域内で生じているのだ。外部の映像が姿を現す二次元平面は、その反対側の壁に開いた開口とある特定の距離をもって対峙しているという関係のもとでのみ存在している。だがこの二つの位置(一つの点と一つの平面)のあいだにあるのは、観察者が曖昧に位置づけられることになる、漠然と広がる空間なのである。遠近法的画面構成 ―こちらの方も、客観的な秩序を与えられた表象を描き出すことを大胆にも主張していた― とはちがって、イメージが己れの十全な凝集性と一貫性とを顕わにするような限定された場(あるいは領域)を、カメラ・オブスキュラは強制しはしなかった。観察者は、一方ではこの仕組みの働きそのものからは切り離され、機械的・超越的なかたちで世界の客観性を再-現した像に対する、非身体化された目撃者として存在している。しかし他方では、暗室のなかに彼または彼女が居るということは、人間の主観性=主体性(サブジェクティヴィティ)と客観的=客体的(オブジェクティヴ)な装置との時間的および学問的な同時存在性を意味してもいる。かくして[カメラ・オブスキュラのなかにいる]観客は、[遠近法絵画を眺めるときと比較すれば]再現=表象化の仕掛けからより独立した、周縁的で補足的な存在として、暗闇のなかにあって自由に浮遊する存在となるのである。フーコーがヴェラスケスの[侍女たち]の分析のなかで論証したように、それは、同時に主体でありかつ客体である者としては自己を表象することができないような主体の問題なのだ。カメラ・オブスキュラは観察者が自分の位置を表象の一部に繰り込まれたものとして見ることを、アプリオリに妨げる。そうだとすれば、身体は、理性の空間を打ち立てるために幻像めいた存在へと周縁化してしまわないことには、カメラ・オブスキュラにとっては解決不能な問題であったということになろう。ある意味では、カメラ・オブスキュラは、エドムント・フッサールが17世紀における哲学上の大問題として定義したものに対する危うげな解決策を形象化=比喩化したものなのである ―すなわち、「主観のなかに己れの究極的な基礎付けを模索した哲学的思考が……客観的に『真実』でありかつ形而上学的に超越論的な妥当性をいかにして主張しうるか」というジレンマ。




こういった客観的視覚-認識という幻想に対して、ゲーテは様々な経験-感覚、実践を通じて異を唱えていった。たとえば生理学的な変化、人間身体がもつ不安定な生理機能と時間性という新たな装置がそれに当たる。われわれの視覚は疲労とともに変化するということ。視覚は完全に客観で中立的で、いつでも同じというわけではないということ。


ゲーテが『色彩論』を刊行する七年前に、メーヌ・ド・ビランは、われわれの色彩の知覚が(時間の経過のなかで生じる生理的変調により)疲労へと向かう身体の傾性によってどれほど決定されているかということ、また、疲労してくる、というその過程自体が、じつは知覚に他ならないことを論じていた。

 眼をある単一の色のうえに一定時間固定するとき、眼が疲労してくるのに応じて、その色と他の何種類かの色とが混合した様態が生じてくる。そしてさらに時間がたつと、もとの色彩は、もはやこの新しい色彩には含まれなくなるだろう。

ゲーテ、メーヌ・ド・ビランの両者にとって、ニュートン理論が色彩に与えていた絶対的価値は、人間主体の内部で移りかわっていく色彩の展開過程に取って代わられるのである。




ヘルムホルツ「光学」では光の感覚を生み出すことのできる媒体列挙されている


1.眼に対する振る舞いから「光」と呼ばれている波動現象や放射現象(もっとも光の波動や放射の作用はこれ以外にも数多くある。例えばそれらは化学反応に影響をおよぼしたり、植物の生態過程を維持する手段であったりする)。

2.物理的影響。[脳]震盪や殴打を被った場合など。

3.電気。

4.麻酔薬、ジギタリスのような化学薬品。こういった薬品は血液に吸収されると、外的原因がまったくないのに閃光等々を眼前に生じさせる。

5.鬱血状態にある血液を刺激した場合。

(『人間生理学教本』、英訳1064頁)






ゲーテの「色彩論」では錯覚-生理学的視覚変化について網膜残像が扱われたが、それらをより詳細に記録していったのがプルキニェの残像研究だった。

http://twitter.com/m_um_u/status/583634668131524609



目にうつる外界の色は一定不変ではなく時間とともに目に残った残像の色は変わっていく。



ゲーテが『色彩論』のなかで記述している現象の大部分は、時間の経過とともに展開するという要素を内包している。「周縁部は青くなりはじめ……その青が次第に内側に侵食していく……そしてイメージは次第に薄くなっていく」。視覚[情報の]伝達(それが[身体の]内側への伝達であれ、外に向かうそれであれ)の事実上の即時性は、アリストテレスからロックに至る古典的光学や知覚理論の、疑われたことのない基礎だった。そしてカメラ・オブスキュラが生み出す映像とその外部対象との同時性もまた、疑問に付されたことはなかった。けれども19世紀の初頭に、観察行為がますます身体に結びつけられるようになると、時間性と視覚とは不可分になるのである。時間のなかで経験される観察者自身の主観性の変容過程は、「見る」という行為と同義になり、対象に完全に集中する観察者というデカルト的理想を解体していく。




残像現象、その中でも運動錯覚を利用した視覚器具は大衆的娯楽道具となっていった。ソーマトロープやフェナキスティスコープなどなど。


200年前のアニメーション(フェナキストスコープ)の世界へようこそ。 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2142002622726878901


あらたな視覚装置は大衆の娯楽として消費されていったがそのことが時代のモードを決定していったとするような技術決定論は拙速となる。このような視覚装置は大衆の娯楽であるのと平行して観察者が、視覚という現象を捉えるための装置としての側面も持っていた。たとえばフェナキスティスコープが観察者に要求した物理的ポジション自体が3つのモードの混濁を物語っている。


すなわち観客であり、経験科学的な探求と観察の主題(サブジェクト)であり、かつまた[身体-機械接合系をかたちづくる]機械生産の一要素であるような個人身体である。この地点において、フーコーによる見世物(スペクタクル)と監視の二項対立は維持できなくなる。彼が立てた、独立した二つの[視線の]モデルはここでお互いに重なり合ってしまうのである。19世紀における観察者の産出は、規律と制御の新たなる方策の成立と一致していた。右で述べた三つのモードのそれぞれにおいて、それは、回転し、規則正しく動く歯車や車輪からなる機械の配置=配列(アセンブレージ)と組み合わされる。またそうした機械を動かすような身体の問題であったのだ。生産の場での時間と運動の合理的組織化を生み出した社会的要請が、同時にまた、社会活動の多様な領域へと浸透していった。かかる領域の多くを支配していたのが、眼の能力に関する知への欲求、そうした体の組織編成の必要性だったのである。






少し前にあるドレスが青に見えるか茶色に見えるかといったことが話題になったけど、これもゲーテの色彩論、生理的色彩に関連するものといえるだろう。

とりとめもなく/とりとめなくもなく|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/neffc0f67ec12

人の思いは色々と|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n75e129e08834


ステレオスコープよりもメガネのほうが|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ncb434743ecd8



大衆にとっては錯覚などといった現象は珍奇なものとして娯楽の対象となっていったが、科学者にとってそれは探求・追求し、理論-実験-実証すべき対象となっていった。様々の視覚装置、そのうちのひとつとしてのステレオスコープもこのような背景から誕生した。

 ステレオスコープはまた、空間知覚をめぐる19世紀の論争 ―この論争は延々と、解決を見ることなく続くことになるのだが― からも切り離せない。空間は先天的形式なのか、それとも生まれてから、さまざまな手がかりを学ぶことで認識されていくものなのだろうか?18世紀におけるあのモリヌー問題は、19世紀になると、全く異なった解決策を求めて転位するのである。だが、19世紀を悩ませた問題は、それ以前には実質的には全く中心的な難問とはされていなかったものだ。両眼の不同位(ディスバリティー)、すなわち各々の眼が少しづつ異なる映像(イメージ)を見ているという自明の事実は、はるか古代からよく知られた現象だった。しかし、1830年代に入って初めて、ものを見る身体を両眼(ピノキュラー)的存在として定義すること、左右の眼の視軸の角度の微小な差異を測定し、不同性の生理学的基礎を特定することが、科学者にとて決定的重要性をもつものとなったのである。研究たちの頭を占めていたこのは以下の問題だった。観察者が各々の眼で異なった映像を知覚しているとするならば、二つの映像はいかにして一つの映像、あるいは統一像として経験されているのだろうか?1800年以前には、この問題が口にされたとしても、どちらかといえば興味半分にであり、中心的な大問題では全くなかった。何世紀ものあいだ、二つの説明の選択肢が与えられてきた。一つの説明は、我々はひと時に一つの眼でしかものを見ていないのだ、という答え方をした。もう一つの説明はケプラーが編み出した投影(プロジェクション)理論に基づくものであり、これは1750年代という遅い年代に提出されている。この理論は、各々の眼は自分が見ている対象[の映像]を、それが置かれている実際の場所に投影しているのだ、と主張した。だが19世紀になると、視覚野の統一の問題はそれほど簡単には確定できなくなっていった。
 1820年代の末期までには、生理学者たちは視神経交叉構造 ―網膜から脳へと伸びていく神経束が両眼の背後でお互いに交差し、左右それぞれの網膜から出ていく神経のそれぞれ半分を、左右の脳につなげていく点 ―にその解剖学的な証拠を求めるようになっていた。けれども、その当時は、かかる生理学的証拠は、未だ決定的な結論を導くものではなかった。1833年にホィートストーンが出した一連の結論は、両眼視差(パララックス) ―左右の眼が同一点に焦点を合わせたとき、視軸のずれが作る角度― の測定に成功したことから得られたものだ。人間の有機組織は、大部分の状況下で、網膜の不同性を単一の統一的映像へと綜合する能力を有している、と彼は主張した。現在のわれわれの観点からすれば、これは当り前の主張のように見えるが、ホィートストーンの著作は、両眼をそなえた身体に関するそれ以前の説明(あるいはしばしば、問題そのものの無視)からの、決定的な切断を徴づけるものなのだ。
 ステレオスコープの形態は、ホィートストーンが初めに発見したいくつかの事例と関連している。彼の研究は眼に比較的近い距離に置かれた物体を見る経験に関するものだった。


  ある物体を両眼で見るとき、両方の眼の視軸がほぼ平行になるほど遠い距離にそれが置かれている場合、各々の眼に映るその物体の遠近法的投影像も、二つの眼を用いて見たときに見える姿も、一方だけの眼で見える物体と同じである。
  
 その代わりにホィートストーンが熱中していたのは、左右の視軸が異なった角度を形成するほど、観察者の近くにある物体である。
  視軸が重ならなければ見ることができないほどその物体が眼の近くに置かれているときには……左右それぞれの眼には違った遠近法的投影像が見えている。そして左右の眼に映る遠近法的眺望は、視軸の重なりの角度が大きくなればなるほど、お互いに相違したものとなる
 
 かくして、物理的な距離の近接性によって両眼視は、不同性を調整し、二つの独立した眺めを一つのものに見えるようにする操作として働くことになる。このことこそ、ステレオスコープと、フェナキストスコープのごとき1830年代のその他の視覚器具とを結びつけるつけるものなのだ。




ホィートストーンがステレオスコープで表そうとしたのは物体が近くにある時の錯覚を確認し理論化しようとしたためだった。

 
ステレオスコープを制作するに際してホィートストーンが目指したのは、物理的な対象や場面の具体的な現前を模倣することであって、版画や絵画のための新手の展示方法を発見することではなかった。絵画は遠い距離にある物体のイメージを描くことのみに適した表象形式だった、と彼は論じる。風景画が鑑賞者に提示されるとき、「[現実と表象とのあいだの]錯視をさまたげるような状況がとり除かれているならば」、われわれは風景の表象を現実ととりちがえることもありうるだろう。それにひきかえ、近傍にある対象に関しては、どんな芸術家も、一つとして忠実に再現=表象(リプレゼント)することができないでいる、と彼は断言する。
 
  絵画と物体とを両目で見るとき、絵画の場合は二つの似たような対象像が網膜上に映し出されるが、具体的な形を有した物体の場合には左右の目に映る像は異なっている。それゆえこの二つの場合において、感覚器官が受ける印象には本質的な差異があり、したがって精神の中で形成される知覚像にも違いがある。そのために絵画は具体的な物体と混同されることはありえない。
 
 つまり彼が追求しているのはステレオスコープが生み出す映像と物体との完全な等価性である、ということになる。ステレオスコープの発明は絵画の血管を克服するだけではない。それは ―ホィートストーンはわざわざ特に名指しているのだが― ジオラマの欠陥をも乗り越えるだろう。



ステレオスコープの世界では従来の決まりは失われ立体が平面になる(ステレオスコープ映像の本質的組織構造は多層平面的なところにある。そういうのは逆遠近法的視角、古来の日本画の手法、あるいはそれらを意識した現代画家の手法を想わせる(cf.cf.束芋、山口晃)。




視覚はそれ自体中立で客観不動なものではなく外部や内部のさまざまの与件の影響を受ける。内部の影響としては物理的刺激によって目に映る像や色は異なってくるし、電気刺激に依っても異なってくる。それらを科学的に措定すれば、たとえば「異常」とされる色覚の人たちも「正常」な色覚をもつことができるようになる。


色覚異常を改善するメガネが誕生!生まれて初めて“色”を見た人々の反応が感動的 - IRORIO(イロリオ)
http://irorio.jp/daikohkai/20150327/216702/



電極で刺激して視覚が変化するならば、同様に電極によって脳内に外部の像を現象させることはできないのだろうか。これならばたとえば先天的・後天的に目が見えなくても「見る」ことができるのではないか…。そういったことも想わせる。






ゲージツ家はそういった従来の通念-視覚に違和感を感じてエッジにはみ出し、それを表現できることの出来る人々でもある。その意味で「観察者」であり実践者とも言える。


ターナーの晩年の作品ほどカメラ・オブスキュラの視角モデルの決定的失効をあらわしているものはない。いかなる継承の線分をももたず、突然変異的に生まれてきたようにみえる。1830年代後期から1840年代にかけての彼の絵画は、固定光源や光円錐がもはや後戻りのきかないかたちで失われ、消失してしまっていること、そしてまた観察者を視覚経験の現場(サイト)から分かつ距離が崩壊したことを告知しているのである。


ターナーは太陽を描こうとしていたようだった。あるいは見えることのすべてとしての光を。


 ターナーによって告知されている観察者の新しい位置は、おそらくターナーと太陽の有名な関係によって、もっともうまく論じることができよう。古典力学によって記述された太陽の像が、熱、時間、死やエントロピーといった新しい概念に取って代わられたのと同様に、カメラ・オブスキュラが前提としていた太陽(すなわち人間の眼に対して間接的にしか再現=表象(リプレゼント)されえないような太陽である)は、19世紀に誕生した芸術家=観察者の形象が占める位置によって変容をこうむるのである。かつて観察者を太陽の危険な光輝から遠ざけ、保護していたあらゆる媒介物を、ターナーはかなぐり捨ててしまう。ケプラーやニュートンといった[古典主義の]偉人たちは、太陽や太陽光線に関する知を獲得しようとするさいに太陽を直接見ることを避けるというまさにその目的のために、カメラ・オブスキュラを用いた。すでに論じたように、デカルトの『屈折光学』のなかでは、カメラ・オブスキュラという形態は[太陽を直視することで生じる]幻惑の狂気と非理性から身を守るためのものだったのだ。
 ところが、太陽に直面し、それを直視するというターナーの振る舞いは、カメラ・オブスキュラが保証しようとしていた表象の可能性そのものを溶解させてしまうのである。網膜上で生じる視覚課程を作品の中心に据えたことによって、太陽[光線]に対するターナーの熱中は[幻視者(ヴィジョナリー)]のそれとなっている。そして、カメラ・オブスキュラがまさに否認し抑圧していたのは、視覚を具体的身体へとこのようなかたちで受肉させることなのである。後期の偉大な作品の一つである、1843年の『光と色彩(ゲーテの理論) ―洪水のあとの朝』では、かつての表象モデルの崩壊が完全なかたちで成し遂げられている。それ以前のターナーの絵画イメージのあれほど多くを支配していた太陽の光景は、この絵において今や眼と太陽との融合像となる。一方でそれは、ただただ眼を潰さんばかりの、それまで人間が目にしたことのないような発光体の、ありえないイメージとして現出しいるが、他方でまた、全てを飲み込んでしまうその光輝の[網膜]残像に似てもいるのである。この絵や同時期の他の作品における円形構造が太陽の形を模しているのだとしても、それは同時に、残像の時間的体験がそのうえで展開する眼の瞳孔や網膜野にも符合している。残像を通じて太陽[光線]は身体に帰属させられる。そして事実上、身体こそが、そうした効果を算出する源泉として、太陽を引き継ぐのである。ターナーの太陽が自画像であるといいうるのは、おそらくこの意味においてである。

 

アートまとめんblog : 『光と色彩(ゲーテの理論)−洪水の後の朝』 ターナー
http://blog.livedoor.jp/art_matomen/archives/1023343238.html



なぜ観察者たちはそんなにも太陽を注視したのか?太陽に飛び込むイカロスのように



本書のなかですでに言及の対象となった三人の科学者たち、デヴィッド・ブルースター卿、ジョセフ・プラトー、グスタフ・フェヒナーは、いずれも網膜残像の研究の過程で太陽を直視しすぎることにより、視力をひどく損ねている。フェナキスティスコープの発明者であるプラトーなどは、永久に視力を失ったほどである。科学者としての彼らの直接的な目的はターナーのそれとは明らかに異なっていたが、より深い水準においては、彼らのなしたこともまた、身体の「幻視的(ヴィジョナリー)」諸能力の発見という共通の主題であり、これらの科学研究にともなっていた異様な強度と興奮に留意しなければ、こうした研究の意義を見逃すことになってしまう。[身体の[幻視的]諸能力をめぐる]こうした科学研究にしばしば随伴していたのは、太陽を直視する体験、あるいは太陽光線によって身体に焼き印を押され、身体[作用]の壊乱のただなかで白熱色の光の洪水を触知させられるという体験だったのである。明らかにこれらの科学者たちは、視覚の身体性を痛切に認識するに至っていた。




視覚-感覚の完全な定量化。そのために科学者たちは偏執的に光の変化を測定しようとした。



ターナー:太陽のなかに立つ天使
http://bit.ly/1Gl9Wts

http://bit.ly/1Gl9XgN


フェヒナーの宣言

かくしてわれわれは、われわれ自身の眼を、地上における太陽の被造物とみなすことができるかもしれない ―太陽光線のなかに住まい、それによって滋養を与えられている存在、それゆえ太陽に住むその同胞と構造的に似通った存在として……だが太陽に住むその存在とは―私が天使と呼ぶ、より高度な存在だが―自律した眼である、つまり、内的に最高度に発達しながら、にもかかわらず眼としての理想的構造を保っているような眼なのである。光が彼らの生息する領分なのだ―ちょうどわれわれにとって、空気がそうであるように。







けっきょく本書の主張、ポイントとはどのようなものだったか?



 
本書でわたしが試みてきたのは、1840年代までに生じた視覚の布置の変動が、どれほど根底的なものであったかを示唆することであった。視覚と近代との相関関係を問題にするのであれば、1870年代や80年代のモダニズム絵画などではなく、なによりもまず、こうしたより以前の時代を調べてみなければならない。あらたなる観察者はこの時期に誕生したのであり、しかもこの観察者は絵画や版画に描かれた人物形象とはちがった存在なのである。われわれは、観察者というものはつねに可視的な痕跡を残す、つまり画像(イメージ)との関係において認定可能である、という前提をとるような思考の訓練を受けている。しかし本書で問題としたのは、そうしたものとはちがう、実践と言説のより曖昧な境界領域(グレイ・ゾーン)のなかに立ち現れてくる同種の観察者なのであって、20世紀のイメージ産業とスペクタクルの総体こそが、この観察者が残した莫大な遺産なのである。視覚においてかつては中立的で不可視の相関項にすぎなかった身体は、今やそこから観察者に関する知が得られるような、ある厚みとなる。視覚のこの触知可能な不透明性、この身体的濃度はあまりにも突然に視界に浮かび上がってきたのであり、それがもたらす帰結や効果の総体をただちに見通すことはできない。ただしかし、ひとたび視覚が観察者の主体性=主観性(サブジェクティヴィティー)のなかに位置づけ直されるやいなや、相互に絡み合った二つの道筋が開かれたのである。一つの道は、モダニズムその他の領域において見出されるものであり、新たに力を与えられた(エンパワード)身体から引き出されてくる視覚の至高性(サブレンティー)と自律性とを、さまざまなやり方で肯定するという営みへと至ることになる。もう一つの道の方は、観察者を規格化(スタンダイゼーション)し制御していく過程(それはもともとは視覚的=幻視的身体をめぐる知をもとにして生まれてきたものだ)、すなわち視覚の抽象化と形式化とに依拠した権力の諸形態の、さらなる進行へと通ずるものだった。われわれにとって重要なのは、同じ一つの社会の領野の平面上にあって、多様な具体的視覚行為が生起する数限りない局所的実践のただなかを、この二つの道が、いまだに交錯し、ときには重なり合いながら現在をも貫いている、その様態なのである。

 
 

布置を解釈なしに描写すること。結果としてよりリアリズムを重んじる方向(フェヒナー)とそれがゆえの幻想を重んじる方向(ターナー)が生まれた。こういった二叉の理論のあり方はそのまま象徴主義の時代へと通じて行ったように想う。あるいは視覚、表象芸術においても。リアリズムの追求を守りつつ、それと並行してロマンティシズム、幻想を載せていく・表現していくという方向へ。













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ところで絵を描く時、本当に眼差が対象に迫るのだろうか。おそらく嘘だろう。もし心眼で対象に迫ろうとする画家がいるとしたら、彼は分裂病者に違いない。少なくとも画家や彫刻家においては、見ることはもっと違った出来事と言わなければならない。通常の見ることの中に起こる自己分裂は、制作を契機に、見事に二つに分離される。対象を見る眼と絵画を見る眼とに。画家は、ただ見ているのではなく、描きながら、つまり描かれる絵画を見る一方、また対象をも見るのだ。この時対象と出会う眼差は、ほとんどイマジネーションなしの、いわば生理的なそれに近い。そしてこの実眼が見たものが媒介的な喚起力となって、イマジネーションの心眼を刺激する。

(李禹煥、「余白の芸術」)






見る/見られる/見る/見られる/見る/見られる/見る/見られる/見る……|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n50de8b10e49b


body(視る/視られる/削る)- camera-camera|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/naf1fbc40d0ba


フロム・ザ・バレル|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n87bbf28f367c







ターナー展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/377110397.html



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