2015年04月11日

李禹煥、2000、「余白の芸術」



余白の芸術 -
余白の芸術 -



どういう経緯だったかわすれたけどついった経由で李禹煥ともの派について教えられてウィキペディアを見たら自分の趣味・嗜好と似てる方向性だったので興味を持って、いちお読んでみたら思ったより良かった。


李禹煥 - Wikipedia http://bit.ly/1HcCl5F

もの派 - Wikipedia http://bit.ly/1HcCplV


といっても400頁あるなかで自分が「良い」と思えた文は150頁ぐらいだし、それぞれの頁はけっこうな余白で構成されてるあーてすとエッセイ本的な趣きは否めないのだけど。その辺のことについてはあとがきで著者も「展覧会のカタログ用などに書いていた文章などを集めたものだから」とエクスキューズ?していた。

それでもアートについて、特に抽象作品について思考するときの見方/スコープ/視角(パース)として参考になった。特に体系的でもないのだけど現代アートにおける抽象作品の文脈、有名ドコロのリスト、各作品の見どころみたいなものが参考になる。


全体は「余白の芸術」「さまざまな作家」「芸術の領分」「新しい表現の場のために」「ものと言葉について」という章立てて区切られていて、「余白の芸術」「芸術の領分」が読み応えがあった。「余白の芸術」は李禹煥自身の作品に対する考え方、どういったことを気にして作品を構成しているかについて。「芸術の領分」は抽象作品の文脈から絵画や彫刻、いけばななどについて。「ものと言葉について」ではもの派について触れているけどここはそんなにボリュームなかった(芸術の領分で触れていることの繰り返し的な感じもあった)。「新しい表現の場のために」では日米韓の現代アートについて触れ「なんか、いまの現代アートは停滞してるなあ。。」て感じ。「(近代という同一性の圧のなかで既成のものができあがってしまった環境にある)哲学・現代アートは基本的に繰り返し、ずらし(差延)、組み換えで構成されてるけど、そういうのもマンネリになるのでたまには青空でも眺めたらどうか?(そのほうがより既成の価値観から離れたものが見えてくるかもだし)」てとこ。こういうのはデリダとかドゥルーズとかも読み漁ってきた(あるいはそれらを受けたニューアカ的芸術批評の)影響ぽい。


「さまざまな作家」で紹介されていたリストはネットにも載ってたので参照



八木山人「木蓮の図」

セザンヌ「サントビィクトワール」

マチス「ダンス」※絵を時用に見る事の難しさ

モンドリアン「一本の木を見る試み」「ニューヨークシリーズ」 (1)外界との素朴なかかわり(2)外界の一部を対象として捉える(3)その対象物を構成概念とダブらせながら整理(4)そして構成概念だけの展開図となる絵画

ゲルハルト・リヒター 一度写真を媒介とさせ再び描く→外界との対話?

ダニエル・ビュレン ストライプの作家 覆う:全体主義 部分に限定:外部性の活性化を呼び起こす非同一性

ペノーネ

アニシ・カプア

F・ステラ ××

若林奮

高松次郎

ウルリヒ・リュックリエム

白南準ナム・ジュン・パイク

ヨーゼフ・ボイス

谷川雁

古井由吉

中上健次
http://yamamotoman.tumblr.com/post/14339774452


自分的にはリヒターが特にピンポイントでそのうち展覧会あったら行きたいし、iPhoneつかってリヒターごっことかできないものかと思う。


ゲルハルト・リヒター - Wikipedia http://bit.ly/1HcCbv8


ペノーネと高松次郎も。




リヒターのそれは「観察者の系譜」で表されていた近代的視覚の擬制とそれを超える感覚-認識-問題意識を写真-絵画としてアートしたものといえる。このへんは書くと長くなるし、そのうち観察者の系譜のエントリで説明するだろうからいまはしない。たんぶらーなんかでもこういう作風はちょこちょこクリップしていたように思う。知らないうちにリヒターを通っていたのか。

近代的な視覚、あるいは認識の超越はそのまま李禹煥ともの派の課題であり、それについて書かれていたエッセイ周辺がおもしろかった。まあこれもそのうちエントリする。


李禹煥が語る作家リスト/リヒター/Coccoのこと|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n201430d197cb


ニューロマンサー - 攻殻機動隊 / 松浦寿輝 - リバーズエッジ - 松本次郎て感じ。


Gerhard Richter / ゲルハルト・リヒター 作品まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134890993549241601

richter / niji-mu gen-jitsu|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb087e4cd040b





李禹煥語るところの抽象アートの文脈とは


 二十世紀中盤まで猛威を振るった植民地主義帝国主義のように、そこでは特定概念の拡大と増殖が価値であり、従って世界と自我との同一性が真理だった。これがヴァルター・ベンヤミンが言う再現性の秘密であり、複製技術時代の芸術の原理である。ここではアウラ(唯一性)的本質が存在しない。同一性通念が再生産されるためだ。六十年代、リヒテンシュタインの漫画拡大やウォホールの増殖されたモナリザ絵が抽象的に見える理由もそこにある。近来の絵画の多くが具象的様相を帯びたものであっても、底に近代主義による抽象性の作用を見抜かなければならない。
 概念の拡大性と増殖を、もっとしっかり様式化する方向を主張した批評家がゲリンバーグである。彼はマルクス主義から遠ざかりながらカントを自己流に導入して、物語性やイデオロギーを排撃し、絵画を透明性、明証性の形式として、言い換えれば純粋な平面条件として成立させようとした。バーネット・ニューマンの分割された画面とか、フランク・ステラの同一パターンの反復のように、偶然性や不透明性を排除して、徹底的に概念の形式化を全面化すべきとのことである。
 これらの傾向の作品をミニマル・アートと呼ぶ。ドナルド・ジャッドの言い方を借りれば、それ以外のなにものでもない。極限的にして最低限のものが作品なのだ。こうしてフォマリストになった芸術家は、自我形式の極北にまで進んだ。
 ところで、ここで面白いパラドックス現象を見ることになった。従来の世界が同一性の幻想に覆われていたように、作品においても意味と支持体が一体となっていたが、フォマリズムの極地において、意味と支持体が分離する状態があらわれたのである。画家が表明する意味は宙に浮き、かつてそれによって覆われていたものは、ジャッドの指摘のように、物体でも概念でもない。名づけ難い何かとしてそこに在ることになったのだ。支持体が材料性から抜け出した。
 明確な存在であり極限的な形態にありながら、しかも何も意味することが出来ない、無名性と非概念性の貧しくニュートラルな裸の対象―。ミラン・クンデラの小説題目に似た「存在の耐え難い軽さ」で、そこに在るということ。そうしてみると、作品を作品たらしめる要因が、暗黙のうちに展覧会の制度性とか一定の場所性に拠りかかっていることが解る。ラウシェンバーグの何も描いていないカンバスの展示、エスワズ・ケリーの単純な彩色パネルと周辺空間など、それらに視線を向けられるのも、そのためと言っていい。
 アドルノの言うように、世界の同一性幻想は壊れた。ジョセフ・コスズは、「一つと三つのChair」という作品で、辞典にあるその意味の解釈を複写したパネルとChairの写真とChairの実物を一緒に陳列することによって、それらの差異性を見せている。また別な多くの作家たちは、彫刻や絵画として凝り固まっていたものを、世界からまたは壁から引き降ろしながら解きほぐし、画廊とか美術館に撒き散らす解体作業―意味のメッキを剥ぎ取るインスタレーションを繰り広げたのである。
 地球が狭くなり、複合性による、複雑で多様な社会になるほどに、人間の表現方法は単純で相互的な行為性と、メカニックで客観的な記号性によって抽象化様式化、コード化されてゆく。もはやこれは日常的なリアリズムと言っていい。抽象概念は、対象のデフォルメから離れて久しく、カンディンスキーが提示した自我原理的な「点・線・画」からも遠くなり、すでにそれは現実そのものであり、思考と行動の社会的規範なのだ。抽象の到達点であるミニマルアートに見られたように、物質でも観念でもないものが材料性を越えて、極限的な単位のままで、作品の構成員として一般性を帯びることになった。
 現代美術において、近代的な材料と現代的な要素は同居しがちである。今や材料ではなく構成員としてのように、同じ対象であってもそれに接する画家の態度と方法によってまるで違う次元のものになり得る。フォマリズムやコンセプチュアリズムで読み取れた物質と概念の分離、差異性からくる空白、最低限のパターン、匿名的なニュートラルな構造などは、自己限定と外部喚起のための活性的要素として甦った。
 ピエト・モンドリアンの都市と画面との照応、モリス・ルイスの色彩と空白、マルタン・バーレの色面とフィルド、アントニオ・タピエスの記号と物質、ルチオ・フォンタナの行為と空間、サイ・トゥオンブリの落書きと空白、ゲルハルト・リヒターの外界と内部の対話によるブレとズレ、ダニエル・ビュレンのニュートラルなパターンの設置と外界との接合、榎倉康二の支持体と浸透、伊享根の設定と放置、そして私の絵における描いたものと描かざる部分との相互作用による余白などは、表現の限界と外界の連携を試みる新しい抽象画と捉えることが出来る。ここでは表現と非表現の同居、あるいは外部性の受容と対応が重要イッシュである。それゆえ画面がミニマル・アートとは違い、簡潔でありながら非確定的であり、関係項としての未知性が息づいていると思われる。画面が、端的な自立性よりは横的な連帯性と、規定されざる無規定性を抱えるだけあって、これによる超越性の議論も可能である。


いきなり植民地的帝国主義とか言われてもわかりにくいだろうけど、こういった視点は近代における「まなざし」とそれをめぐる権力という文脈を背景とする。すなわちフーコー的な「近代国家が成立するにあたって『正しい』『当然の』ものが規定・確立されていき、それに合わないものが『その他』として除外・排除・異常されるようになった。そして、そういった規律・規格は排除されてない近代人にも内面化され当然のものとなっていった」という問題意識。「まなざし」は隠喩にとどまらずそのまま視覚にも影響していく。代表的には遠近法の擬制の問題。

 ルネッサンス以後の遠近法の発達で解るように、意志的な視覚主義は、客観性と科学性を標榜した脳中心思想から来たものである。それを合理的に図式化した人がデカルトであり、彼において、見るということは、エゴーによる視覚の規定力を指している。
 ところで実は、広い世界を前にしたごく限られた眼は、逆遠近法的に開いている。自分の目の前のものより遠いところをもっと広く思い、そのように見るということは誰でも知っており経験していることだ。もちろん具体的な対象世界において、近くのものが大きく見え、ずっと遠いものは小さく見えるということが科学的であることは明らかだが、眼の限定性から来る感じ(思い)が、その反対であることもまた否定できない。最近では、古代社会の絵画や中世のイコン、または東洋の山水画などの分析から、逆遠近法の考え方が再照明されていることも注目に値する。むしろ近代の遠近法というものが、人類文化史の中では特異な時代の産物であるという者さえいる。
 今日、視覚と言う時、こちらからあちらを一方的に捉え定めることを言う。対象物自体とか世界が重要なのではなく、見る主体の意識と知識による規定力が決定的であるということだ。ここでは見ることが、設定された素材やデータで組み立てたテクストと向き合う態度である。
 これに対し逆遠近法では、反対に、向こうからこちらを見ている形であるため、世界の側が圧倒的に大きく扱われる。それゆえ見る者の対象物に対する限定力は、曖昧で弱くなるしかない。このような視覚は、受動性が強く、偶然性や非規定的な要素の作用が著しくなりがちだろう。
 ここで私は、受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚を重要視したい。人間は意識的な存在であると同時に、身体的な存在でもある点を再確認すれば、どちらにしても見るということが一方的であってはなるまい。身体は私に属していると同時に、外界とも連なっている両義的な媒介項である。だから身体を通してみるということは、見ると同時に見られることであり、見られると同時に見ることなのだ。対象物や世界は私の理性の反映ではなしに、それは外界性を持った未知的なものであるという立場と言っていい、見ることは、データ化されたテクストを読むことではなく、他社との出会いによる相互作用であるということになろう。
 美術は視覚と不可分の領域である。
 ところで身体的な視覚の軽視や無視による近代自我中心の視覚主義は、必然的に作品の同一性と概念化を招く。そしてついに作品は、世界との関係的な存在性が否定されて、言語学や哲学の説明体に成り下がり、アイディアや概念の確認以外、なんら視覚の力を呼び起こさないものとなる。従ってそこでは、作品が感性的であったり曖昧で不透明である時、それは軽蔑の対象であるしかない。
 もはや作品が理性と世界の同一性を表す対象である時代は過ぎた。外部性を否定する、排除と差別下の、自己の内面の再現化で世界を覆い被す帝国主義的な視覚は、解体されなければならない。私と外界が相互関係によって世界する、という立場からすれば、作品もまた差異性と非同一性の一種の関係項である。



こういった視角は「李禹煥も観察者の系譜読んだのかな?」と思わせる。けど、たぶん美術史的にけっこうふつう・共通な視角なのだろう。

加えて言えばこういった客観性・客観的にも絶対的にうつくしいもの・絶景などといった視角は対象との対話を不在とした一種のナルシシズムを帯びる。

一種のナルシシズムだ。自分のなかに描いたものを際限なく眼前に引き写してみたいという。これが欲望の正体であり、再生産の意味であろう。そういう点で、近代資本主義の表現方法は、自閉的なナルシシズムの過剰なメカニズムなのかもしれない



彼らのリアリティは「事件性」のマトリックスに回収される|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n679b4b119068

なのでこの時期の桜写真の、あるいはおいしいもの写真やかわいいもの写真の氾濫などは見ていて一種ナルシスティックなものとなる。mixiやfbにおけるヨカッタ自慢のように。それは他者への欲望の表出であると同時に自身に向けられる欲望を別の形で対象化したものとも言える。


李禹煥の、あるいは同じ位相にいるアーティストにとって創作物はそういったナルシシズム、主意/恣意性を排し、世界や見る者に対して開かれたテクストとして成される。


内藤礼「恩寵」を見て|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49de4d1fbcf1


それは(ナルシスティックなポエムとは異なる)詩となって社会的既成に凝り固まった視角/認識/感性を開放する。


鉄や石、あるいは花といった素材はそういった視点から選ばれ、最小限の導きによって閉じられたイデアを開放する。



枯れるということ /石-鉄-刀|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n7266fe44406e






全体的に、自分としてはエポック的なものでもなく、自分のなかにある数寄とか趣味・嗜好の先行きを具体(リスト)してくれた、あるいは別の方向で見せてくれた本となり有りがたかった。

ただ、ヽ(´ー`)ノマンセーてわけでもないのはどうも李禹煥の現代思想に対する理解がびみょーな感じがするから。たとえばベンヤミンのアウラ/複製技術に対する理解は既成のものに囚われていていまいちだったりする。

それを差し引いても読んで刺激されるものであったし、全体としてゲージツに対する詩として見ればすこぶるチアアップされるものではないかと思う(絵画についての考えとか)。



最後に李禹煥の作品に対する思考が端的に詰まった巻頭文「余白の芸術」を引用しエントリしよう。


 アートは、詩であり批評でありそして超越的なものである。
 そのためには二つの道がある。一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。
 私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。そこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。

 私はこれを余白と呼ぶ。

 ところで私は、いろいろな画家の絵面の中に見られるような、ただ空いている空間を余白とは感じない。そこには何かのリアリティが欠けているからだ。例えば、太鼓を打てば、周りの空間に響きわたる。太鼓を含めてこのバイブレーションの空間を余白と言う。
 この原理と同じく、高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、白いカンバスの空間がバイブレーションを起こす時、人はそこにリアリティのある絵画性を見るのだ。そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも関係を保ち、絵画性の余韻は周りの空間に広がる。
 この傾向は、彫刻において、一層鮮明である。例えば、自然石やニュートラルな鉄板を組み合わせて空間に強いアクセントを与えると、作品自体というより、辺りまで空気が密度を持ち、そこの場所が開かれた世界として鮮やかに見えてくる。
 だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し合い響きわたる時、その空間に詩か批評か超越性を感じることが出来る。
 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。

















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抽象と感情移入、あるいは「美とはなにか?」について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414340379.html


「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416776457.html


ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


861夜『枯山水』重森三玲|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0861.html




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posted by m_um_u at 08:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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