2015年04月04日

「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ




新たなエレクトロニクスやコンピュータ・グラフィックスの驚くべき展開によって、映像としてもタブローとしても、画家の手を煩わすことなしに、かなりの抽象的な絵画を作ることが可能となって来た。まだまだ不十分ではあるが、エレクトロニクスやコンピュータやロボットの進歩は、それらによって、いまに思った通りの完璧な絵画が作れることを予知して余りある。 

(略)

さて、以上のような場合の画家および絵画は、果たして何を指しているのだろうか。いろいろなことを考えることもできるが、なかでも画家は、描くべき対象なり理念を明確に捉え、そのコンセプトをなんらかのカンパスなりマテリアルに、確実に転写実現する者だということ。そして絵画とは、画家によって確認されたコンセプトが、ストレートに明確な図柄で示された表面である、といった意味合いがなにより大きく浮かび上がってくる。ここでは、表現する前からすでに絵画が出来上がっていて、他の要素の作用する余地のないことが分かる。別な言葉で言えば、表現すべきコンセプトが先に完成されていなければ、絵画は成立しないというわけだろう。美術に限らず、近代の表現のあり方に見られるのは、まさしく自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であることは、再言するまでもない。

李禹煥 「余白の芸術」





ボードレールにとって万華鏡は、近代そのものと暗合するものだった。「意識を備えた万華鏡」になることが、「普遍的(=万人の)生活を愛する者」の目標だった。彼のテクストのなかでは、万華鏡は、単一的な主観性を解体し、そしてまた―形象=像(イコニシティ)をあらゆる地点で断片化し、安定状態を撹乱することで―新しい、変移していく不安定な配列状態へと、欲望を散乱させるための機械であった。
けれでも、1840年代の時点でのマルクス・エンゲルスの著作においては、万華鏡は全く異なる機能を担っていた。ボードレールをかくも誘惑した万華鏡の複数性は、彼らにとってはニセモノであり、文字通り、鏡を使った詐術の謂であった。万華鏡は、新しいものを生み出すのではなく、ただ単にひとつのイメージを反復するにすぎないのだ。

ジョナサン・クレーリー 「観察者の系譜」













横浜美術館でやっている石田尚志展にいったら思ったよりよかったのでnoteにでも軽く感想して終わろうかなあと思ってたんだけど、「noteとblogと曖昧だねえ(´・ω・`)」+「noteのは日記を主にしてるのでテーマで分けるのではなく編年体で、こっちはテーマを絞った紀伝体だから主に本の内容とかになるよねえ。映画とか展示とか」+「私的/公的てのもあるか。noteのはより私的で、こっちはテーマ絞ると関連して公的というか、、まあ鍵もつけずに表出してる時点で私的とかないんだけど。。」、てことでこっちにエントリを。あと、blogも少ないとなんだなあというのもあるし。

てか、書こうと思っていちおぐぐってたら思ったより資料が多くなったのでやはりこっちでよかったみたい。noteのはいちおそんなに長くなくさらっとしたのって感じでやってるし。



結論から先に言うと良かった。






フーガの技法はバッハトリビュート/インスパイアということでバッハの「フーガの技法」を映像として表したもの。「渦」は自分的には輪廻/生命を仏画的に表したものに思えた。

てか、「渦」は1991年の作品、1972年生まれの石だが19歳の時の作品なのだけど、この時点でこれが描けてしまうところになんかもう完成してたのだなあって改めて思った。


一部動画で見られるので概要として

時を忘れて没入できる石田尚志展「渦巻く光」 - di nobi
http://nobi.dino.vc/wf/news/16805072

自分の印象なので後でこの作品についてのインタビュー読んだらちょっと違ったんだけど、印象としては食う/食われるしつつ続いてく生命の螺旋の道が須弥山的な山を登っていくような。。この食う/食われるの関係は特に残酷がどうとかいうことでもなくただそこにそういうものとして在るて感じで表現されてる。この作品が飾られていた部屋の抽象が植物の営みのそれを想わせたように。

そういうものを19歳の段階で描けた、そういう感性、リアリティをその時点でもっていてそれが芯になっていったのだろうからあとは表現技法とか洗練が後からくっつけばよいだけで、なんか約束されていたのだなあとかおもった。


展示の内容は石田の作品を大きく「渦」「音楽」「身体」というコンセプトで分けている。「渦」は石田の絵画→アニメーション作品に共通するモティーフである渦、植物の生命のからみ合いのようなそれを。「音楽」はバッハのフーガの技法を元にした映像作品である「フーガの技法」を中心に。「身体」はアクションペインティング的に、石田の制作風景も一緒に映像として表されている。



「フーガの技法」については自分が解説するより映像として上がってるのを見てもらったほうが早い / 自分としてもあとで見返すときに眼福ということですこしぐぐってみたけどネットには映像はあがってないみたい。DVDならあるかとおもったけどそれもなかった。「部屋/形態」を所収したDVDはあるみたい


監督:石田尚志/1999年/カラー/7分/2000年レティナフェスティバル準大賞、第31回タンペレ国際短編映画祭正式招待、2002年トロント国際映画祭正式招待、1999年イメージフォーラムフェスティバル特選

●窓からのこもれ日で浮かび上る白い部屋。作家はこの部屋の壁/床を巨大なキャンバスとして縦横無尽に絵を描き、それを一枚ずつ撮影することによってこのアニメーションを完成した。
イメージエフ | DVD | シンキング アンド ドローイング
http://www.imagef.jp/commodity/d_0013.html



なので自分の解釈も入った感想からいうと、生命と時間を表してるんだなと思った。細胞室、ミトコンドリア、原子、光子レベルまでの生命の形成過程に時間と存在、宇宙がなだれこんできて、、そこでは時間、存在が可逆的に何度も繰り返され、その繰り返しの中から形を成し現象していく。バッハのフーガの技法の繰り返しに使われる4つの主題が生命の鍵となる4つの箱-部屋(室)となり、それらが時間・空間・次元を越えて重なりあうことで生命を形成していく。箱 - 部屋と次元が重なり、相転移していくさまは万華鏡を想わせた。そして、そういったものを映像で表せるんだなあ/よくもコンピュータも使わず表したなとかおもった(1万枚描いたそうなこの19分の映像作品に)





まあこのへんも「自分の解釈・印象」ということであとでインタビューみたらちょっと違ったようなんだけど。まあそれは後述するとして、とりあえず来歴から。




東京都出身。慶應義塾高等学校中退後、沖縄県に渡り画家の真喜志勉に師事する。イメージフォーラム付属映像研究所でアニメーションを学び、在学中の1995年に初のアニメーション作品『絵巻』を発表する。1999年、東大駒場寮の一室を1年間借りきって描き上げた『部屋/形態』で注目を集める。

2003年、カナダのイメージーズ・フェスティバルでベスト・インターナショナル・フィルム・アワードを受賞。2007年に第18回五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、トロントに留学する。

2006年多摩美術大学講師に着任し、2010年より准教授。
石田尚志 - Wikipedia http://bit.ly/1yKDnyD




線を一コマずつ描いては撮影する「ドローイングアニメーション」という手法を用いています。描き進めるうちに、空間のなかに増殖する線や移動する点といった運動性を介入させ、空間の質をさまざまに変容させるインスタレーションを発表しています。

膨大な画像の編集作業を経多後に、再び映像としての「時間」を獲得した作品は、線画の音楽のよう。ダイレクトに「絵が動く」という、映像メディアが生まれながらにもつ視覚的魅惑が凝縮されています
映像作家・石田尚志の大規模な初個展が行われるよ | roomie(ルーミー)
http://bit.ly/1bVFvPt





特にこのインタビューが情報量多くてわかりやすかった。

金子遊のこの人に聞きたい vol.8
躍動するイメージ。石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流
石田尚志(美術家・映像作家)インタビュー: 映画芸術
http://bit.ly/1bVFF9t

――石田さんは既に14歳のときに「バベルの塔」(’86)という油彩画を描いています。慶応高校を中退して、10代のうちに青山同潤会アパートで個展(1990年)をやっていますね。

 最初に描いたのは、バベルの塔を空から見下ろしている絵で、2枚目に描いたものは、塔の内部へ入ったイメージのものでした。塔の内部に入り、渦を巻きながら昇って行くイメージです。内部へ入るとか、昇っていくという行為は、カメラでいえば「引き」で見られるものではありません。そうすると、何かを潜り抜けていくしかなくて、どんどん遠近法が解体されていく。「そのような経験というのは、映像なのだろう」とその頃から予感していたのでしょう。
 作家として出発する中で、もっとも重要な時期は沖縄での日々でした。僕は東京の出身ですが、10代後半に2年間住んでいて、最初は那覇で、画家・真喜志勉さんの「ペントハウス画塾」へ通いました。真喜志さんという人は復帰後の沖縄美術を代表される方で、アメリカと日本との間で激しく闘争しているような作風の方です。その真喜志勉さんの個展を手伝った時、詩人の矢口哲男さんを紹介してもらい、そして今度は矢口さんがその画廊で企画した詩人吉増剛造さんの写真展も手伝うことになった。そうやって出会えた方々との交流は今も続いていて、特に東京に戻ってからも吉増さんには色々な形で引き立てて頂きました。
 その頃は、ファクシミリ用の50メートルの感熱ロール紙を絵巻物に見立ててドローイングをしたり、国際通りのフェスティバルビルの屋上で個展をしたりしていた。だから「絵を描いてる若いのがふらふらしている」と、面白がってくれたのでしょう。次へ繋がる出会いがあったことが大きいですね。
 その後、東京へ戻ってきてライヴ・ペインティングをしていたのが、20歳から21歳くらいのことですね。


――東京へ戻られてから、絵画作品を作成しながら、新宿のアルタ前でライヴ・ペインティングを試みていたのですね。その後は、イメージフォーラム映像研究所を卒業しています。この経験がコマ撮りによる抽象的なアニメーションの世界へ向かう契機となったのでしょうか。

 映像というよりは、最初は「音楽のスケッチ」をしていたんです。アルタ前ではCDラジカセで大音量のバッハの音楽をかけながら、ひたすらライヴ・ペインティングという形で音楽のスケッチをしていました。夢の島や空き地でもやりました。絵で音楽のスケッチをすると、縦や横への強制的なスクロールになるんです。音楽を聴きながら、音符を書いて行くような感じです。そうやって画布の上に描いていった線が、いつか音に戻れるときが来るかもしれない、そんな欲望を感じながらやっていました。
 ただ、ライヴ・ペインティングのパフォーマンスをすると、僕の場合、ダンスに近づいてしまう。描いているときの自己の身体運動の方に引き寄せられてしまう。そして、観ている人は描かれる線というよりも、僕の身体の方を見てしまう。観客と、伸びて行く線との間に僕の身体が入っている状態になる。そのことに不満を感じていました。何とか僕の身体が消えて、見ている人に線だけが伸びていく様を見せたい、そして自分自身もそれを見てみたいという欲望を覚えていたのです。  
 それが映像の方向へ入っていった理由でしょうね。友人がHi-8のヴィデオカメラを持っていて、それは技術的にはコマ撮りができないカメラでしたが、無理やりに再生ボタンを一瞬だけ押しながら、僕の絵のアニメーションを制作しました。そうしたら、本当に動いたので感動した。でも無理な使い方をしたので、ヘッドが傷んでカメラは壊れてしまった(笑)。それが東京へ戻ってから、最初に作った映像でした。


 余談ですが、アニメのルパン三世の劇場用映画に『ルパン三世 ルパンVS複製人間』というのがありますよね。自ら神と名乗るマモーが登場する話です。あの映画のオープニングの最初のカットが、ルパンが絞首刑にされるために13階段を上るショットなのですが、足音だけが聞こえて、階段の段差が黒と白のバーだけで表現されています。あれが幼少期の、最初のアブストラクト経験なんです。
 それから、子供のときに渋谷のパンテオンで『さよなら銀河鉄道999』を観たのですが、列車が惑星へ突っ込んでいくときの、相原信洋さんの曼陀羅のようなサイケな抽象・アニメーションも印象に残っています。映画でもなく、いわゆるアニメでもなく、まさに絵画が動いている、という印象でした。


――石田さんは、2008年3月の「アフンルパル通信」(書肆吉成)というリトルマガジンに「東京論」というエッセイを寄せています。20代前半の頃、6年ほど続けていた害虫駆除のアルバイトについて書いています。東京という都市の地下に巡らされた排水溝や、皇居の近くにあるバベルの塔を逆さにしたような国の施設で仕事をしていた。この逸話にも、天上界へと上昇していくようなロマン主義的な映像作品に向かうことへの契機がうかがえますね。

 当時は、美大へ行かずに、フリーターのままで作家活動をしていて、ゴキブリやネズミの害虫駆除のバイトをしていた。沖縄にいたときは、ひと夏でしたが、平安座島の石油精製所で働きました。青い海を目の前にして、原油を石油へ精製していく夥しい量のパイプを、「非破壊検査」といって、パイプのなかに入って配管の厚みを測っていくんです。そのとき、森や海も自然ですが、石油を製油するパイプも能動的なエネルギーを持った「自然」の一つだなと思いました。
 現場のプレハブへ行くと、石油管の設計図がバーンと部屋中に張り巡らされており、当時は巻物状の絵を描いていましたが、それが、僕が闘わなくてはならない相手だと思えました。設計図は途方もない毛細血管のようにびっしり描き込まれている。原油に熱を与えながら、石油へと分離していくシステムなのですが、人間が人工的に作りだした「川」のようにも見える。これだけの建物が他にあるだろうかと思いました。デザイン優先の建築物ではなく、配管されたパイプのすべてに意味がある。これと同じくらいの密度の絵画が今描かれているだろうか、と考えたんです。


一般論でいえば、絵画はフレームの向こう側にあるものです。絵画はそれで安定しているのですが、映画には時間というものが導入されるので、もしかしたら映画ではフレームの手前側の世界、あるいはその背後のようなところまで描けるのかもしれない、と思いました。
 それと同時に「絵画の問題」をもっと掘り下げたかった。単純にいうと、それが2次元なのか、3次元なのか、4次元なのかという問題です。平面の作品を額に入れて、壁にかければ「絵画」になるのか。そのような制度的な「絵画」から逃れてしまうもの、はみ出てしまうものは、どこまでが「絵画」であり得るのか、そういうことを考えていました。

 ちょうどその頃、学生が自治的に運営していた東大の駒場寮に人が住まなくなり、アーティストにアトリエとして開放するプロジェクトがあったんです。すごく広い部屋で、ひと月あたり1万円や2万円で貸し出してくれた。寮の廃墟のなかで、映画撮影をしていたり、画廊ができたり、写真のラボができたり、色々な作家が集まっていました。僕は引きこもって、ひたすら絵を描き、それを撮影していました。
 『部屋/形態』という映画は、床とか壁とか、そういういわゆる「絵画」ではない場所に絵が生成してしまう様を描出しています。あの部屋の窓は、ある種の「絵画」のメタファーですが、その窓の外は光っているだけで、絶対に何があるのか見えないようにしてある。また、窓には絶対に絵を描かない。つまり、窓=絵画の手前ですべてが生起するというコンセプトのもとに、線描を描いては16ミリフィルムでコマ撮りの撮影をくり返すという行為を続けました。それは壁に線が這っていくという、無意識的な欲望から発露されたものでもありました。


――『部屋/形態』においては、壁に絵を描いたり、それを塗りつぶしたり、模様が白と黒のイメージの交差によって示されます。それとともに、線描によって出現した抽象的な絵画が、窓から差し込む光や影を擬態したり、偽りのパースペクティブや偽りの矩形を描いたりして、遠近法に対するはぐらかしをします。

 遠近法へのアンチテーゼなのか、服従なのか、どちらかなのでしょう。カメラをどこかへ向ければ、そこに遠近法は生まれるわけです。僕たちがそこから逃れられる方法はほとんどない。『部屋/形態』の部屋でいえば、窓から入ってくる光だけが、壁や床を照らしてあの世界を成立させている源です。あの部屋をカメラの内部のイメージで考えました。そうすると、すべてが反転します。窓を開けて外を見れば、そこに「世界」はあるのですが、僕が試みたことは反対に部屋の内部へ深く入りこんでいき、まぶしい外の世界を不可視なものとしました。
 今回の「躍動するイメージ。」展でも示されているように、20世紀の初頭には絵画から映画へ移行した人たちの系譜があります。抽象絵画から抽象アニメーションへいったダダイストのハンス・リヒターやヴィキング・エッゲリングたちです。僕が多くを受け取ったのは、ドイツの抽象画家のオスカー・フィッシンガーで、彼は音楽と映像の融合を試みた人です。そもそもカンディンスキーであれ、パウル・クレーであれ、抽象絵画の画家たちは目に見えない音楽を描く、ということを自分に課した人たちだったんです。


『フーガの技法』

 このオリジナル映像作品のシリーズは十数回続いている“身体”をテーマとした映像作品の制作事業です。当時、世の中に出ていた僕の作品は『部屋/形態』だけでしたが、愛知芸術文化センターから「企画書を出しませんか」と声がかかり、映画の制作費をもらいました。実は『部屋/形態』の少し前から、絵を描きながらそれをコピー機にかけて、アニメーションの作画にしていくという試みをしていました。そして『部屋/形態』が終わった後に、『フーガの技法』へ取りかかったところだった。それで制作費が出たので、少しまとまった作品ができるかもしれない、と集中して作ることになったのです。
 映画にはお金がかかりますが、僕の場合、フィルム自体にはそれほどコストはかからない。その代わりに籠もって制作する莫大な時間と労力が必要です。エンド・クレジットで色々な方の名前が出ていますが、実質はひとりで作画し、撮影していきました。だから、他のことを一切せず膨大な作画作業に集中することが出来ました。

――最初からJ・S・バッハの「フーガの技法」のなかの「コントラプンクトゥスI」「コントラプンクトゥスXI」「未完のフーガ」の3つパートを映像化しようと決めていたのですか?

 最初は「コントラプンクトゥスXI」をやろうと思っていました。何度聴いても、まったくよく分からない曲ですよね。バッハというのは、一体何を考えていたのだろうと常に驚きを覚えます。それで、20代のうちに「フーガの技法」と格闘しておきたいと思ったんです。
――実際の映画制作の作業工程としては、紙の上にペンと修正液で少しずつ絵を描いていき、少し進んでは、それを一枚一枚コピー機で複写していくんですね。そうやってコピーとして作画したものを、3枚なら3枚、ガラスの上に乗せて重ねて、紙の背後からの透過光を使ってコマ撮りで一枚一枚撮影している、ということでいいでしょうか。

 そうですね。原画用の紙があって、ちょっと描いてはコピーをとる、そしてまた描き足してはコピーをとる、ということのくり返しです。そうすると、ひとつの絵が段々とでき上がっていくプロセスが、コピーされた紙の束となっていきます。この束が何パターンもできる。それらを「フーガの技法」のそれぞれの主題に照らし合わせ、主題の折り重なりに合わせるように原画も重ねていく。噛み砕いていうと、バッハの「フーガの技法」ではAという主題とBという主題が重なったりする。それを絵の方でもやっていきました。
 カメラ内でのオーバーラップは使っていません。カメラの方は単純にコマ撮りで、シャッターを切るだけです。主題が折り重なるのに合わせて、絵が折り重なるのは、3枚なら3枚を実際にガラスの上で折り重ねて撮影しているからです。

――アニメーション制作で見られる絵コンテを作らず、直接バッハの楽譜を読みこんで、作画作業を行っているんですね。これはバッハの音楽を、楽器を用いずに、映像によって演奏する行為だという評言もあります。3パート目の「未完のフーガ」では、十字架のイメージと共に4分割の画面になり、それぞれが別の動きをします。あれは、どのようにやっているのですか?

 あれは一旦作った素材を全部縮小コピーして、貼り直しているんです。全部、紙に落として、その上でやっている作業なんです。


――『フーガの技法』では、極微な線が集積することでイメージが形作られます。抽象的な「ムニュムニュ」と呼ばれる描線は何か生命的で、情念的なフォルムです。抽象アニメーションなのですが、人によってはそこに植物の蔓、ニューロン、欲望など、それぞれの思い描く具象イメージを当てはめるでしょう。これが一体何であるのかと問うことは、やはり馬鹿げていますか?
 
 これが何であるのかは、分からないんです。少し近いなと思うものの一つは、オーケストラの指揮者の手の動き、その手が描く軌跡ですね。


――石田さんが絵を描いたときの手の動きの軌跡が、つまりは身体運動の痕跡が映像に残されるという意味では、『フーガの技法』はドキュメンタリー映画でもあるわけですよね。

 そういうことですね。簡単にいうと、線を描いているときは、極めて簡単なプログラムで手が動いています。たとえば、線を上へと描いていけば、次には何となく下へさがりたくなる。そんな手の欲望が生まれる。線を描いていて或る角度をこえると、渦を巻きたくなってくる。そうやって渦を巻いたら、余白に対して、巻いた渦をもう一度元に戻して、外へ出て行きたいような欲望もわいてくる。線がどちらへ向かうのかは、ちょっとした線の角度の違いによります。時おり、少しだけ先が見えてくることがあります。それが見えたときは、喜んで線を増やしていく。
 『絵巻』に関しても、『フーガの技法』に関してもいえることは、僕の場合、前もって下書きをしないということです。もっというと、テスト撮影もしないということですね(笑)。





引用がながくなってはなはだ不格好なんだけど今読んでるもの/読み終わったものの影響もあっていろいろ考えさせる。

慶応高校を中退して沖縄に、ということで金持ちのボンボンなのでこういうの簡単に出来ていいよなぁ−y( ´Д`)。oO○的なことをおもってしまったけどその後も含めてずーっとフリーターで作品作りをしてきたこと。

遠近法への違和感/超えるという感覚はずーっとあったこと。

真喜志勉さん主催の画塾「ペントハウス」に通うなかで詩人吉増剛造さんほか知己を得て行ったこと。

「渦」は生命の輪廻というよりバベルの塔を描いていた、ということ。あるいは「渦」として展示されていた作品と「バベルの塔」はまた別か。

「フーガの技法」も生命とかのモティーフよりも「動きを映像化した」みたいなかんじ。


これらを読んでいて思ったのは「生命というモティーフというよりは、リアリティとして遠近法や静態的な視角に違和感があって、それを超えるための表現・モティーフとして時間・映像が選ばれていったのだな」ということ。自分的な解釈だけど、作品を作るときに展示されるのは成果物としての作品 - 結果ではあるのだけど制作者は作っている間、刻一刻と変わっていく眼の前の作品 - テクストとの対話そのものにアートを感じている。結果だけではなくそれまでの過程としてのそれ、ライブとしてのそれを表せないか?ということで映像作品を選んでいったのかな、とかはおもった。


また時間や次元を越えたとこへのなんとなくの兆しのようなもの。

燃える椅子/テーブルがある部屋を三つの装置で時間差で投影している作品のなかで、投影された椅子や石田の姿がさながら霊のように見えたけれど、ああいうのも多次元的な感覚なのかなあとか。抽象としての方法としてはジョセフ・コスズの「一つと三つのChair」の引用/オマージュなのかなともおもったけど。


とりあえず自分の印象として、生命-変化 -時間の描き方は束芋のそれを別の形で表したもの、「躍動する生命 - 動きとしての生命は定まった色・形をもたない」ところは高木正勝のそれを、絵巻の色の配置・構成は水墨画を想わせた。



アクションペイント的なものはおまけというか、ちょっとそれそのものだとわかりにくいなあという印象だった(なのでどうしても石田の動きのほうに眼が行ってしまうし)。


石田についてはそのぐらいだったんだけど、


石田が支持した真喜志勉って誰だろ?と平行して調べるに


父、真喜志勉は、アルバム「エメラルド」所収の「絹ずれ〜島言葉〜」で、「方言指導」とクレジットされている
Cocco- Wikipedia http://bit.ly/1yKDp9L




Cocco(本名:真喜志智子)
1977年1月19日生まれ O型
沖縄県那覇市出身
沖縄県立開邦高等学校芸術家芸術コース卒業(7期生)

略歴
1977年 出生
1996年 インディーズデビュー
1997年 メジャーデビュー
1998年
1999年 第一子出産
2000年
2001年 活動中止
2002年 絵本作家デビュー
2003年
2004年 SINGER SONGER結成
2005年 活動再開
2006年
2007年 息子の存在を公表
2008年 拒食症を公表
2009年
2010年
2011年
2012年


Coccoの家族
父(真喜志勉:「絹ずれ」を島言葉に訳す)
母(衣装などを制作)
姉(真喜志佐和子:「KOTOKO」にも出演)
息子(KOTO:PVや「KOTOKO」にも出演)
祖父(真喜志康忠:沖縄芝居役者/2011.12.16没)
祖母(真喜志八重子:那覇桜坂にておでん屋を経営していた)
曾祖母(ユタ)
伯母(Coccoママのお姉さん)

Biography - including you!
http://includingyou.jimdo.com/biography/



プロのバレリーナになることを目指してバレエオーディションを多数受けていた。姉が読んでいた雑誌にビクターの音楽新人オーディションの案内が載っており、「賞金によってバレエオーディション会場への旅費を稼げる」ことと、「東京での音楽オーディション二次審査になれば旅費が支給されるため、ついでにバレエオーディションを受けてこられる」ことから、応募をした。そのオーディションでは入賞はしなかったが、「印象が強かった」とのことでビクタースタッフにより後日スカウトされた。
<生い立ち>Wikiに載ってるCoccoの興味深いエピソードまとめ<絵の才能>|エンタメ情報まとめサイト『minp!』
http://bit.ly/1yKDt9r


インタビューはまず、07年にリリースした前作『きらきら』以降のCoccoの生活から話が始まる。Coccoは『きらきら』のあとイギリスで暮らし始め、大学に通い、写真の勉強をしていた。その間精神疾患の治療のために病院へも行ったが、結局治ることはなかったという。その後日本に帰国するが、その理由を「歌わないといけないことがいっぱいあった」と説明し、さらに以下のように語る。

「どうせ治らないんだったら、治らない病になってるよりは、まあ、歌ったほうがプラスかなあっていう、感じ、だったのかやあ」

日本で音楽活動を再開し、自らにとってライブが如何に大切か、そして新作『エメラルド』についても話がおよぶ。今作ではCocco自身がプロデュースも手がけるなど、制作上の大きな変化もあった。またRYUKYUDISKOにアレンジを頼んだ曲もあり、その時のエピソードも語っている。

「RYUKYUDISKOには、もう歌って踊って言った、『こういうの』みたいな。踊ってみせた、いっぱい」

さらに特集記事には撮りおろし写真も多数掲載。バレリーナのような衣装をまとい、リラックスした表情で踊る姿も見ることができる。
Cocco、創作とは何か、そして生きることとは何かを語る (2010/07/13)| 邦楽 ニュース | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイト
http://ro69.jp/news/detail/37228


 もう、波打ち際で歯車が違えてしまったかのように琴子が踊るオープニングからしてこれやばく、ものすごい絶叫と同時に黒背景に『KOTOKO』の文字。そのテンションを維持したままの内容はというと、手首はざくざく切るわ人間をざくざく刺すわまさかの人体破壊描写も多めだわで、マツコ・デラックス、町山智浩、土屋アンナ、KOTOKO(別の歌手の方)、小島秀夫、羽生生純、金原ひとみ、等々、様々な分野からパンフレットに寄稿した人間たちの、気まずさというか、歯切れの悪さというか、腫れ物に触る感じな文章からしても本作の力っていうかCoccoの良く言えば繊細さ、悪く言えばデンジャラスさを持て余しきっておる印象。専業女優、職業女優でもないCoccoのエモーショナル、激しみに負けている専業役者、職業役者の形而上学的な悔しさ、憔悴、負け惜しみを思うと、いやそんなものを思っていては自分までメンタルヘルスの人になってしまいそうなので、ソフィア・コッポラやジェニファー・リンチはCoccoのリスカ痕でも舐めて教えを請いなさい。という悪態をついてガス抜きとしたい。

 気疲れした母親と子供という画ヅラから、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と比較されそうであるというのは容易に推察できる。その主人公、ビョーク演じるセルマは主観的であり、主観にはミュージカル妄想が入り混じり、現実逃避として作用しておった。『KOTOKO』の琴子も主観的であり、というか主観でしか万事を補完することができず、現実逃避……むしろ、「現実拒否」とでも申し上げればよろしいのでしょうか、そしてミュージカルに逃げるようなことをせず、ファンシーな折り鶴や風車を思い(わーい)やカラフルなベッドルームを思い(わーい)や自分の首が落とされる妄想や子供の頭が撃たれて弾ける妄想(わーい!!)でトドメを刺されて虚構と現実の境が曖昧になり、琴子の主観はじわじわと現実を侵蝕し始めるのである。中盤、長回しで琴子が歌い、それを喜ばしく聴く塚本監督自ら演じる小説家・田中、というシーンなんかは、絶叫のようなこの映画が現実を切り裂いた瞬間を捉えたようにも思えるのだ。
『KOTOKO』 Coccoと琴子の狂気は現実を切り裂き侵蝕する - ライブドアニュース http://bit.ly/1y5WSak




まあユタの家系だからかなあやっぱ(´・ω・`)とかおもいつつ、おとーさんとかおじいさんの情報がネットだとよくわからんかったし、石田尚志とCoccoの関係もよくわからなかった。案外「おとーさんのとこにきてたなんか変なにーちゃんのひとり」ぐらいかなとも思うけど。


とりあえずCoccoちゃんのこのへんは見とこうとあらためておもった。




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真喜志民子と真喜志勉 - 幻想第一 http://bit.ly/1yKDqe2

真喜志勉|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館 http://bit.ly/1D38xXx

沖縄アートに存在感 真喜志勉さん死去悼む声 | 沖縄タイムス+プラス
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=104055

真喜志康忠氏が死去 88歳、沖縄芝居一時代築く - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185307-storytopic-8.html


敬愛する真喜志康忠氏の孫【Coccoの快挙!】たまたまNHKの歌番組をみました! - 志情(しなさき)の海へ
http://bit.ly/1D38paq
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