2015年03月12日

吉田健一の流儀


吉田健一 ---生誕100年 最後の文士 (KAWADE道の手帖) -
吉田健一 ---生誕100年 最後の文士 (KAWADE道の手帖) -




予約してる長谷川郁夫さんの吉田健一本がなかなか手元に来ないので、「まあこれでも読むかあ」とたいして期待せずに読んだ河出書房の道の手帖シリーズの吉田健一特集が予想以上に面白かったし、ちょっとエントリしておきたくなったので留める。


なかでも特に金井美恵子×丹生谷貴志の対談がわかりやすくおもしろかった。あとは松浦寿輝。


そこでは吉田健一の良さ・評価する人はどういうところで評価するのか?その魅力は?というとこが端的に示されていて( ^ω^)うむうむしつつ、「でも、吉田健一ブームみたいなの来てるけどほとんどの人は読んでないでしょ?特に若い人は」(「だって、若い男の立ちにとって吉田健一の小説はエリック・ロメールの映画と同じくらい退屈なんですよ?(笑)」)。

自分もそんなに読んでないので『吉田健一』というブランド、幻想、吉田健一についての批評を元にした幻想や期待を膨らませてるだけなのかもしれないけど。



吉田健一は小説家というより批評家であり、主な作品としては吉田健一本人が言ってるように「英国の文学」と「英国の近代文学」で止めるのだろう。誰が言っていたかわすれたけど吉田健一というのは当人が何かを作る人/作ったものがおもしろいというタイプというよりはおもしろいものの紹介者として位置づけられる。それは英国や仏国の文学であったり、あるいは、それらに連なる美味いものだったり。そういったものが求められたのは終戦当時の文化・物資枯渇 - 飢餓状態の反動もあったのだろうけど、吉田健一が連なる上流階級の「ふつー」の教養 - 文化が嫌味なくにじみ出た結果のように思う。もっとも、それがゆえに当時の人の中でも吉田健一を嫌う人たちはたくさんいたようだけど(「なんだあの金持ちのぼんぼんめ」)。


屈託や葛藤を主軸とする小説・文学・作品を楽しむ人達にとってその辺りは「おぼっちゃん的な物足りなさ」なのかもしれないけれど、その屈託の無さ、あるいは、屈託や葛藤を敢えて語ろうとしないところが却って吉田健一の魅力となっていった。

葛藤や屈託というのはたとえば教養小説や実存主義的なそれ、プロレタリア文学なんかだと主軸になるし、あるいは純文学とされるあのあたりでも内面の葛藤を主軸に、それをより精緻・繊細に描き拾い上げていくことが目的とされる。

その葛藤は世間一般の型通りの見方や権力に対する個人の違和感の表明であり、小説・文学というのはまずもって世間に対しての個人の違和感を表出していくことだ、とされるわけだけど。


でも、この「葛藤を表していく」ということ自体が型どおりなことであったとしたらどうだろう?

その葛藤-感情自体が、あるいはそれにまつわる表現の様式・文体自体がおざなりな決まり文句(クリシェ)なものだとしたら?

たとえば性的な場面にこそ人の実存的なリアリティが宿る、とされていても、そのセクシャリティや発露の仕方それ自体がすでにして形式に侵されているとしたら?


吉田健一はそういったものに「退屈」として目を背け積極的に描こうとしない。


ドキドキするような性的な場面も、余人なら狂ってしまうようなギリギリの情況も、吉田は端的に、単純に書いて済ます。もっとも人間ドラマとして描く対象になるような自身の出生・家族に関わることも(cf.「江藤淳なら大喜びで書きに書いたでしょうけどね」)。性的場面についても小説的文体になっていないので小説的なエロスが醸されない。しかし、端的に描かれてるがゆえに却って妙に頭にのこっていく表現がある(ex.近代小説ならエロティックな妄想を葛藤をもとにドライブさせるような場面、自分のお母さんが海外でパーティに行くときに「その真紅のビロードの服に眼を奪われた。女といふのが美しいものであることをその時始めて知った」と端的に済ます)。


ではなにも描かない・そんなに語らないかというとみょーなところでダラダラと長い文章を続けたりする。


丹生谷はそれをして「ふつーの小説なら狂ってしまうような人間ドラマの場面、言葉の限界であり狂気の場面こそが吉田さんの場所であり、むしろそこにもっとも健康的な言葉がある」とする。近代文学における狂気の場所が吉田の虎口であり、平常の場所だと。それを虎口に、ふつーの人なら退屈に思えるようなことをダラダラとたのしそうに語りだす。


松浦寿輝的にはそれこそがエロティックであり男根的ではない多形倒錯的エロスだとしていた。丹生谷的には「猫同士がじゃれてるようなもの」。そして、そのような文体が踊り、その踊りそのものにエクリチュールの快楽が宿る。


金井美恵子的にはそこは「敢えて書かない」「エクリチュールの快楽を留めるようにしているのではないか?」と


吉田健一は書こうとしなかった / おおいに書いたは対立するものではなく、「出来合いのものは敢えて描かず、それ以外のところをおもしろがって大いに書いた」。あるいは、出来合いの型に任せて思考停止するのではなく、自分がおもしろいと感じた部分についておおいに思考した。

もっとも文士として食わねばならないので注文仕事的なものは注文仕事的なものとして売文的にこなし、その売文的な仕事のなかで遊んだ。吉田の小説はそういった環境から生まれた化学変化的なおもしろさをもったものだった。

金井によるとそれは「批評よりも小説のほうが原稿料が高かったので、従来の小説の型からすると『これは小説と呼べるのか?』と思われるようなものも小説として提出し、小説の原稿料を得て行った」ということのようだけど。

酒に喩えれば吉田健一という良いものの紹介者 - 酒屋が自らブレンドした酒ということだったのだろう。昔の酒屋が日本酒のブレンドを妙味としたように、そしてその違いがわかる通人たちはブレンドに隠された味わいに元ネタを探る。



吉田の小説はそういったものでありけっきょくは批評-随想的なものを「小説」という大枠で覆ったきみょーなものだったのではないかと思うのだけど、同時にそれはある程度年齢を重ねた表現者の日記的な本音を垣間見せる所もあったのではないかと想う。

ふつーなら売り物にならないような趣味的なもの、酒造りとしては素人の店主が「素人ながら」ということで出すことで、商売っけを起こさず純粋に遊べたところもあったのではないだろうか。


大岡昇平が吉田の小説を「これこそがようやくにしてうまれた本当の小説だ」と評価していたのはそういうところだったのではないかと思う。



そうはいってもそれらは売文で、吉田がほんとに抱えていたことは描かれてなかったのだろうけど。もしも吉田に抱えていたものがあったとしたら。それでも、その文の端々に通常の決まりきった小説 - 酒とは違う独特な風合いをもったそれを想わせるような味わいが滲んでいたのではないか、だからこそ通人が惹き寄せられる処があるのではないか。




吉田健一における「敢えて書かない」という流儀



それは「東京の昔」において示された「人が裸であるときに惨めなのは当り前なのだから、それをことさらに見るべきではない」という言葉に凝縮されている。



吉田健一、「東京の昔」 読書メモ - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/11193




ついでにいえば、この小説はなにかテーマを語るというものではなく東京の昔というモティーフを描こうとしたのだろう。なので、自分的にそこで印象に残ってるのはそれほど人通りのない深夜の東京の夜に豆腐屋のラッパの音がどこからともなく聞こえてくる場面だったりする。川瀬巴水や小林清親の影絵のような世界では青と白の陰影が静かに暮れて音無き音、声なき声を響かせていく。





すこし吉田の小説への期待 - 幻想をふくらませすぎたようにも思うけど、まあこれはこれとして作品の楽しみ方でもあるのでとりあえずこの特集についていた「春の野原」を読み終え、「金沢」、「瓦礫の中」などへ続けよう。小説としては。

その前に「英国の文学」「英国の近代文学」からだろけど。







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ドストエフスキイの生活|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4798997db1d8




posted by m_um_u at 19:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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