2015年02月15日

意味―性―愛





昨日エントリしたけどなんかいい忘れた/最初に考えようとしたとことずれたような気がするって残ってたので見直すに

やはりジンメルかあ。。: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414033954.html













<ステロタイプな幻想が相対化され解かれてしまったら男女の性欲はなくなってしまうのだろうか?>


岸田秀によると「ネオテニーとして本能の壊れた動物である人間は性欲も壊れており、それを補填するために性幻想を作り上げそこにドライブされている」ということになる。最初から幻想をインストしてないと性欲が表せられないという立場。母親と一体の全能感への復帰、つまり体内復帰願望を基本としたものが性欲の最初ということになる。動物と同じような性欲の発動を仮定した場合、その段階で人間は幼児段階のため性器もきちんと発達していない。そのため最初の不全感-挫折を味わい、それから実を守るために自我を発達させ、同時にたまった性欲的なものの発散経路として性器を借り、性幻想をもってそれを起動させる。


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


(1)人類の性本能が壊れ、人間の男女は不能になった。

(2)人類の存続のために必要不可欠な膣内射精を遂行するためには、何はともあれ、ペニスが勃起しなければならないので、女のことはさておいて、男の性欲を回復することに重点がおかれた。

(3)そのため、女の性欲はなおざりにされ、もっぱら女は男の性欲を刺激し、男を性的に興奮させる魅力的な性的対象の役割を担うことになった。

(4)女がもっぱら性的対象になった補助的な原因として、極端に無知無能な未熟児に生まれ、長い間、母親の世話にならなければならないという人類特有の条件がある。そのため、母親の身体、つまり女の身体(女体)が安心と満足と快楽の源泉となった。

(5)同じく無知無能な未熟児に生まれるという人類特有の条件のため、人間の幼児はまず初め自閉的世界に住むことになり、この時期に性欲は、対象のない自閉的欲望として成立する。したがって、人間にとって性的対象は、初めは存在せず、そののち、自分の欲望を満足させる手段・道具として出現する。


「ネオテニーで性欲が壊れた動物である人間はその補助として自ら人工の性欲-幻想を作り上げそれによって性欲を性器に喚起するようにしているが、もともと乳幼児段階の全能感の軟着陸がうまくいかず自閉的世界に住んでいる人類にとってセックスは相手の体をつかった自慰の域を出ない」、ということ。

「ペニスを勃起させなければならないので、というところで男だけの話におもわれがちだけど体内復帰願望は男女ともに共通する」とエクスキューズする。ただし女体は異性としての男の性欲-性幻想にとっては有利に働く、が、女はそのあたりでこじらせがある、とする。

乳幼児段階で性欲が目覚めても男は不能であるため心の奥底に女への恐怖が刻印される。後にヘテロ男性の性幻想において女の支配が中心的なテーマとなっていくのはこのためである。性欲を禁忌とすることで男を馬車馬的に働かそうとするヘテロ男性の性幻想を基にした資本主義社会ではこのようなセクシャリティが有利になる。

対して女の場合、乳幼児段階でも同姓である母親は女の赤ん坊を男に対するほどに支配しようとしない。このため、乳幼児段階のトラウマとしての男性恐怖や不能 → 反動としての支配欲はおこらない。

いわゆる性倒錯がもっぱら男に多いこともこの構造に起因する。







自分的にはやはりこの辺りについて女性の性欲についての説明が弱い、というか、なんか矛盾があるように思う。女性ていうか、従来のステロタイプ的なヘテロ男性の性幻想以外の性欲について。

前回エントリでもいったように、岸田によるとそれは基本的にサディズム、加虐性、攻撃性という形をとった防衛機制とか反動形成のようなんだけど、そういうゴワゴワしたもの以外の性欲ってあると思う。性欲っていうか、性欲以前の兆し。それが結果的に性欲にもつながってるかなあ、てもの。

たとえば人と抱き合いたいとか、握手したいとかそういうの。そこでインターコースしなくても特に良いわけだし、添い寝だけで落ち着くってひともいるようだし。

ただ、インターコースを伴わない性的な願望こそが本質、とするのもなんか違う感じがするけど。食欲-食の嗜好同様そこはひとそれぞれだろうし、ステロタイプ的な性的幻想を化学調味料に喩えれば、味の素しっかりかかったジャンクなものとか好きな人もいるだろうし、そういう気分なときもある。





人の性欲とはなんなのだろうか?「性欲」として観念化される以前の性欲的なものの兆しはどのような欲に沿っているのだろうか?


ひとつは岸田がいうように胎内回帰願望なのかもしれない。胎内に還ること、もとに戻ることが主軸というか、、母と一体だった時の全能感を取り戻すこと。

なので「全能感の不全により自閉気味になっているため、けっきょくは性交しても自慰的な満足を出ない」というのであれば全能感の部分をhackすれば良いのだろう。平たく言えば自我-自信を確立すること、あるいは性交に伴って愛の幻想に包まれること。


では愛とはなにか?


自分的には意味を探すこと、世界(対象)に対して純粋な関心をもつことのように思う。対象と自分を同期(感情移入)させて理解すること


性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707


より具体的には相手の立場に立ったやさしさを伴って、慈愛のまなざしで相手(対象)を理解していくこと。

その上でなんだったら相手からも同様のものを受け取ること。


togetterにまとめた感想では「意味≠愛≠知的好奇心?」としたけれど、意味-シンボル(象徴)づけは知的好奇心(愛)の足あとのようなものだとおもう。記号-象徴をうまく用いるヘンタイ生物としての人間は象徴によって自らが関心をもったものを物象化し現世に表す。

そして、一定の象徴←価値をみょーにもちあげてワッショイワッショイと祭る。たとえばなにか事件が起きた時に社会的に流通してるステロタイプな価値観(ポリティカル・コレクトネス)をもって正義のようなものを叫ぶ。これは動物がフェロモンをたどり、ここに餌があるよー、と叫んでる様子に似てる。たぶん構造的には一緒なのだろう。餌が足りてる社会ではその祭りの様式だけ残って辿られてるところもあるようだけど。

彼らの正義の祭りは蟻などの社会性動物が餌をみつけて騒ぐ様子に似ている。あるいは侵入者に対して騒ぐ様子。特に領海を侵されてないのに騒ぐ、自らの正義という趣味のために騒ぐのであれば性欲や食欲などの本能的な兆しがその素となっているのかもしれない。


岸田によると近代以前は愛と性は分離してなくて、たとえば日本社会なんかだとなんとなく関心をもつ、なんとなく好く → なんだったら性交ということもあったぽい。性交がほかのコミュニケーションと同じようなフラットなものだったから。

それが崩れていったのは中世のキリスト教的文化圏の影響とそれへの反動ということになる。

もともと神を愛する文化圏である西欧において人への愛を説くものは商売敵となった。なのでキリスト教内でも神以前の愛を説く宗派は異端とされ迫害されていった。


カタリ派 はプラトニックラブ的なものを説き、性交を伴わない愛を至上のものとした。




オクシタニア -
オクシタニア -


プラトニックラブを宗教的情操に替えるそれは愛のむきだしの場面にも似てる。


そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408674184.html



13世紀の人口爆発→文化的な繁栄以降、神が段々と死んでいき、それにともなって人々は文化的な刺激、趣味の発露を求めるようになった。

ロマンティック・ラブはこういった背景から生まれ受容されていった。

十字軍に向かった騎士たちの妻を寝とる趣向がその原型かなと思うに、そこで男の所有物としての妻たちには貞操帯が付けられ、その禁忌のハードルをもってさらに禁断の「愛」、ロマンティック・ラブが燃え上がっていった。



こうして「恋愛」なるものが前景化することで「性」が相対的に異質なものとされ、「性」と「愛」が分離され、一部では愛だけが交換・流通されるようになった。もちろんそれは庶民とは遠いところで庶民は「性-愛」一体だったかとおもうけど。

この過程は中世→近代における自/他の分離、および自我の形成過程と同期するように思う。

近代化の個人の実存における特徴の一つは「自我が芽生えた」「内省過程ができた」ということにあるけれど、「愛」あるいは「恋愛」の個人化-対幻想化もこの過程と関わるのだろう。



そして、そのようにして性から分離した愛が吟遊詩人の唄に載せて様式化していき、それらが近代化に伴う合理主義へのバックラッシュとしてのロマン主義的傾向で回顧され、恋愛市場の商品として形式化し流通されるようになった。この辺りはゾンバルトも絡むだろう。


そして、ここでも形式と内容が関係してくる。


スーザン・ソンタグ、1968、「反解釈」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/413601598.html



形式のドライブとはマルクス主義的な観点からすれば物象化→疎外的な課題といえる。

ただ、マルクス主義的観点だとどうしても「形式≠資本主義的商品」→「形式<内容」となりがちなので、そこはもっとフラットにジンメルしていくべきなのだろう。あるいはソンタグでもいいけど。


上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html


社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。

ジンメルの後期の著作を読み解くと、生の哲学と形式社会学とが緊密なつながりを有していることがわかる。生の哲学者でもあったジンメルにとって、人間存在の唯一究極的な原理である「生」の本質は、一方で生が現前する自分自身を絶えず超えていくという「自己超越性」とともに、他方でその生が自分に対立する「形式」を通してでなければ己を表現することができないという「自己疎外性」に求められる。

そして、創造的な生は、社会制度や芸術作品、科学的認識といった形式を作り出し、一方で生それ自体はその形式を乗り越えていくものの、形式はその母たる生とは自律的な動きをもつ。そして、ここにジンメルの言うところの「文化の悲劇」が生まれる。すなわち、形式が客観的独立性をもち、それが生を囲い込み枠づける生活形式となる。この傾向が頂点に達するのが、貨幣経済の完全な浸透がみられる近代社会である(『貨幣の哲学』)。近代人はもはや客観的な生活形式を内的に消化することができなくなり、生の手段が生の目的となる。そこに、生と形式をめぐる完全な「軸の転回」が出現するとジンメルは診断する(『現代文化の葛藤』)。

当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになったのである。しかし、その中心となる分野はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。





形式のドライブ
愛-意味のドライブ

愛-幻想-意味 は他者を介さなくてもドライブできる。それは自慰と変わらない。


そのため愛の幻想に憑かれていてもそれは相互の思い込みが交換されているだけであって、本質的には両者の愛-性のマンゾクは合致しない。そして両者のオルガスムは基本的に同期しない。ズレて訪れる。「一緒にイク」ことに意味を見出しマンゾクする人たちもいるけれど、基本的に男女の構造が違う/個人によって性幻想や物理的刺激によってオルガスムに達する過程/はやさは違うわけだからあまり意味がない自己満足的なものに思える。

岸田的にはそこで「−y( ´Д`)。oO○男女のソレは生理的な構造としてズレてるわけだからもうズレてるものとして互いが互いを満足させるように気遣えばよいのでわ?時間差で互いの満足があればいいだけだし。あるいは、性器が勃起するかしないかとか濡れるか濡れないかとかもあまり気にしないで良いと思う」というところでとりあえずのまとめとなる。

(少しバイアグラについて触れていて「バイアグラみたいなのがあると男性が女性蔑視な幻想をつかわなくても物理的に勃起するわけだから女性的にも男性的にも楽になるよね」みたいなこといってたけどバイアグラのなかのひとから「いや、薬摂取しても刺激がないと勃ちません」「(´・ω・`)」てなってた)



自分的には前述してきたように「他人への関心」が「愛」-「意味」となってあらたな性的な欲や様式につながっていくのかなとか思う。あるいは自分のなかにあるそういったものがとりあえずそれらの言葉-概念で保留できたかと。そこで単に他人への好奇心的な興味で終わらないところに肉体を介した人の性行動の冗長性が絡むのかもしれない。体内の海が人を喚ぶ

抱きあうだけ、握手するだけ、なんとなくコミュニケーションするだけ、みたいなのもそんな感じだろう。

それと別に猟奇的あるいは攻撃的関心とされる意味-関心の積極的な意味付けを進めていきたい。(結果的にそれがネガティブな構造だと解明したらそれでいいけど。そこで修正していくし)










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「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/411213903.html


おんなになる-性の自立- | アパートメント
http://bit.ly/1BexqQl
posted by m_um_u at 15:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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