2007年05月10日

フランク・ゴーブル(著)、小口忠彦(監訳)、1972、「マズローの心理学」

 先日来、このblogでは人間の善性というか、関係性や公共性を志向する人間の心のようなものを課題とし、それがどこから来るのか、その契機のようなものを探り育むことは可能なのかどうかちょこちょこ考えているわけだけど、前回のエントリではちょっと失敗したように思う。


muse-A-muse 2nd: 「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について


 やはりartisticなものへの志向性はどちらかといえば個的なものというか、志向性としては自らの深奥を目指すものなので社会的関係性は二次的なもののように思う。なのでその部分との接続にはムリが生じたのだろう。

 でも、エントリの後段で出てきた課題、


「関係性への志向の分節にはどういった種類があるか」、「それはどのようにして根付いていくか」


 は有効であるように思うし、まだその線は生きていると思うのでこのラインで思考を続けてみることにした。んで、この本を読んだわけだけど。



マズローの心理学
マズローの心理学
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フランク・コーブル
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 結論から言うとびみょーだった。


 んで、感想とか書く前に簡単なおさらいから。


〜 マズローの欲求段階説 〜


 マズローの心理学で特に有名なのは、 

「人間の欲求は5段階に分かれてて、精神が成長するに従って提示のものから高次のものへ移っていく。すなわち、生理的欲求 ⇒ 安全の欲求 ⇒ 親和の欲求 ⇒ 自我の欲求 ⇒ 自己実現」、

 って流れで、それぞれの説明としては、

生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことです


 って感じになる。

 それぞれの欲求の関係は「段階(レベル)」的なものとして設定されていて、「生理的な欲求」のような自己を中心とした低次の欲求がだんだんと欲求の幅を広げ、他人との関係を志向し、その関係との対照として自己の本当の幸せのようなものに目覚めていく」、って感じの物語が作られていた。

 それぞれの欲求は不可逆的な従属関係にある、と。より高次の欲求を身に着けるためにはその前段階として低次の欲求を身に着けていなければならないということになるらしい。つまり、「自己実現」のような高次の欲求の課題に取り組んでいる人は当然のようにその前段階の欲求課題は克服し、身に着けている、と・・。


 この辺ですでにびみょー感があるわけだけど、まぁ、1960〜70年代の考えだから仕方がない。これ自体は悪意ないし、分かり易いしね。そして、前回エントリでもなんとなく思ってた通り、やはりこの説は未完成な、とりあえずの視点(パースペクティブ)として捉えたほうがよさげ。「未完成だから使えない」ってわけじゃなくて「未完成だから考える余地がある」って感じ。




 では、以下、簡単なまとめ(というか読後の印象)



▽「良かった」と思う点


(a). 従来の心理学における「科学」的アプローチでは相手にしない「価値」の問題に正面から挑んでいること


(b). 「成功者」というか「自己実現して(自分の内部の可能性を従前に活かして)楽しく過ごしている人」を成功モデルとし、その人たちの共通点を探ることから「自己実現の契機」を探ろうとしていること





▽「悪かった」と思う点


(d). 成功モデルからの成功要素の抽出が中途半端。成功するまでの社会的通念と自己の信じる価値観との葛藤を描くことが重要だと思うのだけれど、その部分については抽出できていない。結果として、巷にあふれているビジネス書と同じような表層的な答えしか返ってきていないのではないか?


っていうか


(e). 善悪二元論を与件として設定(つまり「善」的な価値が成功への近道という結論を最初から設定)していることによって研究が薄っぺらなものになってしまっている。
 おそらく、上記の成功モデルの抽出時にもこのような与件を設定しつつインタビューに当たったため、自己実現にかかわる多様な要素を聞き取れなかったのだと思う。

(モデル先行型研究の悪例)





 だいたいそんな感じ。


 本書を読むにあたっての課題である「関係性への志向性の契機」との関連で一番気になったポイントとしては、(d)で少し指摘した「成功するまでの社会的通念と自己の信じる価値観との葛藤」の部分の描写(あるいはサンプルからのデータの抽出)が重要だったんだけど、その辺についてはなんか、「・・失敗しちゃった(テヘ)」、みたいな感じだった。

 もっと具体的に言えば、自己実現するタイプの人というのはどうも社会善的な思考と親和性が高く、結果的にそっちのほうを志向する傾向があるみたいなんだけど、その過程でいわゆる世間知的なものと対立することがある。公共善的(パブリック)な考えとしては正しくても学校や家庭など狭いコミュニティのルールには適さないものははじかれてしまう。

 それで往々にして「おまえだけ皆と違う考えするのかよー?(合わせろよ)」みたいな同調圧力がかかり、「みんなから嫌われたくないな」という相互承認欲求からこの圧力に屈するわけだけど。そういう場面に遭遇しても公共善的な志向性が折れなかったとしたらその理由はどのようなものだったか?

 あるいは、その志向性が公共善のような「社会(あるいは世界)的正しさ」につながっている必要もなくて、とりあえず自分の中に「世間体」みたいなものとは別のある「正しさ」の基準があるとして、そういったものを世間体(世間知)的な圧力に屈せずに残していけた経緯(自信の根拠)みたいなものに興味があったわけだけど、その部分については触れられていなかった。



 どうも、「成功した経営者にインタビューしたけど照れて答えてくれなかったんだよねー」、って感じで。「照れて」かどうかは分かんないけど経営者からその部分のインタビューが取れなかったというのは確か。理由としては(e)でも少し書いたように、「結論先行型のインタビューを試みたために答えを誘導したのかな」、ってのがひとつあるんだけど、ほかに、「経営者自身がその辺の葛藤を忘れてしまったのかな」、というのもある。

 人間誰しもあることだろうけど、ペルソナだかなんだかの関係で昔の自分とは考えが違ったりするので、昔の思いを忘れることもあるのかなぁ、って。(っつってもよっぽど悔しいこととかは覚えてるものだが)





 あとは、おそらく善悪二元論を設定したことによる与件の問題を強く感じた。

 「エゴ」と「社会的通念」の関係を考えると、通常、特定コミュニティを守るための蓋然的なルールである社会的通念(cf.世間体)のほうがエゴイスティックな欲求よりも上位に置かれ、特定コミュニティにとっては前者は善のルール、後者は悪のルールとして設定される。


 しかし、「人間の自由」ということを考える場合、「エゴ」に向き合い、その部分の可能性を開放させることこそが自己実現(自己の可能性の開放)につながるのではないか?


 もちろんただエゴを開放すれば言い訳ではなくて、社会との接点を探すことが重要だと思うけど・・

(そのために社会とのコミュニケーションのメディウムとして「言葉」「論理」がある)



 そう考えると「自己実現」の研究で注目すべきなのは社会的に「悪(エゴ)」と思われていることがいかなる契機を伴って「善」的なもの、あるいは社会との関係性を志向するものに変化していくか、その過程を検証することだと思うのだけれど、その部分についての記述が見当たらなかった・・。




 最近の課題として、個人的にはこの辺りに「善 / 悪」とか「勤勉 / 怠惰」「論理 / 非論理」とかいった軸のほかにもっと多様な要素が絡むような気がしている。

 

 たとえば大きなコミュニティのとっては悪とされるものでもそれより下位のコミュニティにとっては善だったり、一般にエゴ(わがまま)とされ糾弾されるような反社会的行動でも人間の本来の欲求の開放(自由)というところでは意味のあるものだったり・・
(「少なくとも自分は裏切っていない」という意味で)。

 そして、そこにその日の気温とかなにかの匂い、音や手触り、もしくはごく個人的な悲しさや悔しさ、うれしさや怒りのような感情が関わってくる。(cf.「異邦人」)


 そういったものの総体として人間の思考や決定があるのだろう。


 
 その中でなんらかの形で善性が育まれる・・あるいは再帰的に善性を選択していく。そのようにして選ばれた善性こそ押し付けられたものとは違った芯のある本当の強さを持ったものだと思うのだけれど・・・それが生まれていく契機が分からない。



 なんとなく思うのは「・・やっぱ余裕かな」ってことだけど、これもいまひとつはっきりしない。

(おそらく金銭的あるいは十分な信頼によって生まれる余裕 = 幸福感)




 「そういった余裕のないところでも善性は生まれるのか?」「それは自らのエゴを殺したものではないのか?」


 この辺がいまのところの課題、か




 そういうわけでこのシリーズはもうちょっと続きます(たぶん)




--
関連:
田口ランディ公式ブログ : 罪悪感


※原爆を作るのも人間、「原爆から生き延びてしまった」と嘆くのも人間。人は普遍的に他人への優しさをもっているものなのだろうか




痛いニュース(ノ∀`):匿名男性、荒れ地を時価総額20億円の植物園に変えて寄付


※「金ではなく花を」 (これも人間)




トランスパーソナル心理学 - Wikipedia






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追記(2007.5.11):

あと、「自己実現」の段階にいる人は物事に対して高いモチベーションを保てるらしいんだけど、そのことと善性への志向(あるいはなんらかの社会関係への志向)とがどのように関係しているのかという部分の記述がびみょーだった。

<自己実現できる人間というのはより大きな規範(公益や善性に通じる規範)に通じることによって、自らの行動選択に対して良心の呵責を負わなくなる>

という主張はなんとなく分かって、それが「モチベーション ⇒ 脳資源の発動」という回路におけるボトルネックを除いているんだろうなぁ、となんとなく推察された。でも、このときの内部規律の部分である「良心」というものがどのように形成されるのか、という部分の記述がびみょー、っつーかなかった。

「善への志向はデフォルトだよ」って感じ


「自己実現系の人は元々、感受性や想像力などのアンテナ部分が発達している」ということなのでそこから勝手に推測すると、アンテナによって公的な規範(善性)を勝手にキャッチして、そこから類推して自分なりに公益的規範というものを組み立てる、ということなのだろう。んで、結果的にそれが最上位の社会的規範に通じる、と。

最上位の社会的規範に通じているわけだから、日々の行動に対して逡巡がなくなる。っつーか、この手の人たちは自分の行動規範に沿った職業を選択し、成功していくわけだから自分の考えを通せるポジションに居ることが多い。なので、その手の逡巡がないのだろう。

でも、そういう人もそのポジションをつかむまでにはそれなりの苦労というか、社会的通念(小さなコミュニティの規範・偏見)との戦いのようなものがあったはずで、実はその部分の葛藤をどのようにして克服していったか、というところがこの手のサクセスストーリー系話のポイントだと思うのだけれど、その部分の記述はいまのところ見つかっていない。




ここでひっかかってるのは、善的な志向(ボランティアな精神)とは逆にエゴイスティックな内部規律が発達してもよさそうなのに、ということ。最終的に世間知とはとは異なる規範を身に着けていくわけだから周りのルールに合わせる必要はなく、最も自己の生存にとって適した規範を身に着けていくことこそ合理的なはず。

でも、そのやり方だと十分な社会的地位のようなものをつかむまでは周りからの圧力が強くなる、か。(そして、それを気にしてモチベーションが下がる?)


じゃあ、やはり善的な志向は周囲の期待に応えるために発達していく、ということになるのか・・。


でも、ある段階で自律的な志向性に変わるように思うんだけど、そのとき自己のエゴと公的な規範(道徳?)とのバランスをどうとるか・・。その辺りが課題っぽい


 
 
あるいは、至高体験となんらかの関係があるのかもしれない。自己実現な人は少なからず至高体験があるみたいなので。至高体験というのは(ちょっとニューエイジっぽくなるが)世の中の全てに対して「是」といえる時間というか、認識速度が極度に高まっているときというか、そんなの。「真・善・美をダイレクトに実感できる瞬間」といってもいい。(「認識」を通り越して「実感」)


たしかに至高体験の快(エロス)が誘因となって善的な方向に向かうというのはあるように思う。だとすると善への志向というのは生得的なプログラムということになるのだろうか。


はてなの説明では、「生まれながらに持っている自己実現の達成欲求が実現している瞬間の興奮」、ってことになってるけど、やはり達成欲求が「生まれながら」になのかどうかはびみょーな感じがする。(マズロー的にはそうなのもかもしれないけど)


だとすると、「エゴ(個)は遺伝子とか群淘汰的なプログラムから自由ではない」、ということになりそうなので。


といっても、自由でなくても快(エロス)があればよい、ということなのかもしれないけど。



そして、至高体験の汎用性(万人にあるものなのか?)というところがびみょー







・・もうちょっと考えてみよう

 
 
 



posted by m_um_u at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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