2015年01月17日

今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」

シモーヌ・ヴェイユの詩学 -
シモーヌ・ヴェイユの詩学 -





この本自体はおそらく失敗で、ヴェイユいうところの「感傷をはさまず落ち着いて観照しましょう。それこそが哲学の方法なのですから」というところから逸れてしまっている。有り体にいえば最初からヴェイユの人生に同情しすぎて「神や愛にめざめるには不幸の極点における美的転回(実存転調)が必要」ということの汎用性について論理的な突き詰めができていない。

そのあたりについてはうだうだと別に綴った。

ヴェイユ→人生の意義(美的転回)→表現の自由→ルソー|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nacd6d65c0f98


ただ、

それが一般的なことではなく、シモーヌ・ヴェイユというひと個人の人生哲学としてならはなしは別だろう。そこにある信念と強度は外野からなにか言えるものではないし、むしろ彼女の言葉の強度と重力がわれわれを惹き寄せてしまう。

それだけ魅力的なのはまずもって彼女の人生自体が作品だからだろう。


自分が彼女に興味をもったのはtwitterでbotとして流れてくる言葉があまりに自虐的というか、自分に厳しいものでそれに度々共感し教えられていたから。

この解説本を借りたのはたんに勘違いして彼女の著作の詰め合わせかと想ったからなのだけど、却って解説を通じてから彼女のテキストに当たる機会をもてたのは良かったように想う。


noteの駄文ではまだ彼女に対して穿った目をもっていたけれど、「重力と恩寵」(シモーヌ・ヴェイユ著作集3)の序文におけるG・ティポンの紹介を通じて、彼女のテキストの大部分は発表を意図したものではなかったこと、「重力と恩寵」もそういったものであったことを知った。というよりも、彼女の人生の高潔さと真摯な姿勢を。


すこしそれるけど、彼女の人生を垣間見たとき想ったのはどこかで聞いた道端に倒れている聖人の話。誰かが助けようと寄ったところ、「良いのです、、わたしの人生はようやくこれで解決しようとしているのにここであなたに助けられてしまっては台無しになってしまう」、といったもの。現実にもそういった人生を歩む人々がいることをなんとなく識っているし、それはもう正しい正しくないを超えて畏敬を持って接するべきものなのだと思う。


ただ、それと彼や彼女たちの哲学が万人に通じるものか、ということとは別だろうけど。



「重力と恩寵」という不思議な言葉、テーマは端的には「人は放っておくとそこに発生する不思議な重力のようなものにお互いが支配されて低きに落ちる」というもの。そこから救われるには神≠恩寵≠奇跡が必要となり、そのための回路が愛ということになる。



その神秘主義的な純粋性はプラトンに通じるわけだけど。新プラトン主義とかそういうことでもなく、デカルトやカントといった地味な方法・基軸も通りつつ、そこに彼女の人生哲学な強度を足したものであったみたい。

おそらくその鍵はユダヤの教えと生活的実践だったのではないかと思う。ベンヤミン同様(ベンヤミンの場合は彼の友人のユダヤ人に感化されたところが大きかったようだけど)。

そしてその強度をもった表れとしては象徴主義の位相に近いように思えた。その意味で、彼女が愛読したヴァレリーの強度と真摯さに通じたのだろう(ヴァレリーからは「真面目すぎる」というようなこともいわれたようだけど)






そういった経緯から「シモーヌ・ヴェイユの詩学」はシモーヌ・ヴェイユの哲学そのものの解説としては失敗だっただろう。でも、彼女の人生哲学の方向性、背景がわかりやすかったし、なによりそれらは「ヴェイユの思想に通じるもの」として挙げられていた映画の解説において魅力的だった。すなわち「ライフ・イズ・ビューティフル」「千と千尋の神隠し」「アメリ」「女と男のいる舗道」「ガイサンシーとその姉妹たち」。映画や文学、あるいは芸術はこういったときに語られなかった人生の余白のようなものにたいして説得力を持つ。そういった意味で「ヴェイユの詩学」とあらかじめ焦点を絞ったところもあったのかもしれない。


以下は主に本書からポイントだと想ったところの引用で構成しメモ的に留める。

引用文中にもあるように本書で主な対象とした著作は「前キリスト教的直観」で、数あるヴェイユの著作の中でも訳され一般に出版されてないようだから、価値が在ったのだろうなあとか想った。












「哲学本来の方法は、解決不可能な問題を、その解決不可能性において明晰に把握し、次に何も加えず、たゆまず、何年もの間、希望を懐かずに、待機のうちに、それらを観照することである」


「哲学本来の方法は、解決不可能な問題をその解決不可能性において明晰に把握し、次に何年もの間、いかなる希望も持たず、待機のうちに、それらに何も加えずに、じっと、たゆまず観照することである。……超越への道行きは、知性、意志、人間的な愛といった人間の能力が限界に突き当たり、そしてその境に留まり、それを超えて一歩も進めず、そして方向転換をせず、自分が何を望んでいるかのも知らず、緊張のうちにただ待ち望んでいるときにひらかれる」。ヴェイユは、こうした状態を「極度の恥辱の状態」と言い、この状態に留まることによってのみ、真理に至る可能性を見出していく。




「世界の秩序」すなわち「物」を美しいと感じられる心をもつということは、自分以外の対象に愛を傾けられるということである。自己が自己において自己と距離を保てること、それこそが自らの生を愛するということである。芸術家は才能に先立って対象への愛、すなわち、自分以外の「世界秩序」へと欲望が向かうが故に、作品を創造することができる。ヴェイユにおいて「自覚」をあらわす用語である「脱創造(decreation)」は、芸術創造に立ち返って観照されるとき、はじめてその実在性をもつ。
(ヴェイユ「前キリスト教的直観」より「ティオマイオス」の解釈として)


「十字架上のキリスト」の状態になければ、私たちは、世界を、他者を、「自我の投影された世界」、「自我の投影された他者」として、「遠近法の錯覚」のもとでしか見ていないのである。



「遠近法」とはたとえば作品の中でいささかでも効果を狙う誇張、演出的表現もそれに当たるだろう。自分的には「形式と内容」としてテーマするものでありソンタグでは「反解釈」で問われてるものぽい。そういった魅力的な言葉に群れ-権力が宿り重力が発生するように思う。


ヴェイユの独自性は、知覚が「神への愛の働き」と結び合わされる点にある。そして、「歓びと苦しみ」が「愛」という媒介を経て、等価に「美的感情」として、主観の感性にあらわれるところに、彼女の「神秘」の位相が見出される。さらにこの美的感情は、「純粋数学においてもまた、必然性は美によって光り輝いている」(p 158,「ピタゴラス派の学説について」)というように、「数学的必然性」にまで拡張されている。つまり、純粋数学ですらも愛の対象となるのであり、愛を媒介にして、幾何学がなにより「関係」の科学であるように、「関係」の橋がかけられ、それが美として表象されるのである。


ヴェイユによれば、私たちが今見ているもの、私たちに今聞こえているものは、真の実在(リアリティ)ではなく、その背後に私たちを超えた真の実在(リアリティ)があるにちがいないと人類は感じてきた。そうした普遍妥当的な「予感」を代弁してきたのは、司祭や王といった人々であった。



「絶対的な美は、感覚的な対象と同様、具体的なもの、目に見えるものである。だが、それが見えるのは、超自然的な視力があるからだ。長い霊性的な準備期間を経て、ある種の啓示、すなわち引き裂かれることによって人はこの美に近づく」





カントにおいて、美的判断は趣味判断であり、その基礎は概念ではなく主観の感情に置かれている。しかし、あるものが「おいしい」といった快・不快の感情は、個人の判断により、千差万別であるのと異なり、あるものが「美しい」といった美的感情は、それが主観の感情であるにもかかわらず、あたかも対象の属性であるがごとく万人に普遍妥当的にその感情を要求できる。カントが美を「目的なき合目的性」、「関心なき適意」と定義するのは、判断する人の目的や関心を超えた彼方に、美が感性における超感性のあらわれ、経験における先験性のあらわれ、あるいは感性において一切の感性的質料を排した形式としてあるからであり、それは私たちが超感性的基体をもつことによる。また、認識能力としては悟性があくまで構想力に仕えるというかたちで、「悟性と構想力の自由な遊びにおける一致」としてある。

カントがここに「自由」を見ていたとすれば、美的判断が趣味判断であるにもかかわらず普遍妥当性を有するとという超越性のみならず、判断するその人が、自己の利害・関心を離れ、対象に向き合い、その人の自律において判断することに自由があるのであり、ヴェイユと西田の眼差しはまさしくここに定められる。

しかし、こうした両者の自律に貫かれた自由のひらけへの着目と同時に、自律を離れた垂直方向への眼差しが、すでに両者の初期の論考にも見られる。そして、それはカントが悟性でも理性でもない判断力の批判書を、第一、第二の批判の間ではなく、最後に持ってきたこと、また第一批判の冒頭が、超越論的感性論から始められることとも根の深いところで共通性をもつのである。哲学と宗教の統合の意図が見られるヴェイユと西田とは対照的に、カントの場合、哲学と宗教を明確に区別する自らの立場をけっして崩すことはない。だが、何より人間の自由を探求していたカントが、エステーティッシュな力、つまり、純粋直観に基づく「判断力による趣味」こそもっとも重きをなすものとみなしていたと考えることができよう。

しかし、ヴェイユと西田の場合、「判断力と趣味」以前、あるいはそれを超えたとも言える立場に至るわけであるが、そうした道行きを可能にさせるものはいったい何であろうか。それは、主観が客観から離れる、あるいは主観を客観化するということによって認識が成立するという把握である。すなわち、美しい対象は何らかの距離を要求するのである。ヴェイユの場合、ごく初期の段階で美しい対象の「目的なき合目的性」「関心なき適意」を模倣することにより、私たちもまた自己のうちなる客観、すなわち自らの情念・感情・思惟を切り離し、「目的なき合目的性」、「関心なき適意」の二重の意味――主観と客観の距離、主観と主観のうちなる客観の距離――を見出し、ここに至って私たちは神の象徴となり、カトリック――普遍的――の立場に立つことができるとしている。このように、フランス・スピリチュアリズムの伝統に則り、あくまで生活世界における知覚・判断から宗教性を導き出し、「私」というものの放棄には段階を要するヴェイユ


ここの「西田」は西田幾多郎のこと。カントのこともあるのだろうけどヴェイユとの対比に西田を選んだのは著者の恣意的な選択ぽい。


天才と愛とは


まったき自己否定、すなわち、身体の死よりもっと恐ろしく、私たちの自然性はあたうかぎり抵抗する「自我の死」への同意が、意志ではなく欲望によってなされるのであれば、「植物のエネルギー」が湧出する。


ホメーロスは、まさしく「不幸の可能性」に同意したからこそ、自己と他者を分離せず、「嘔吐を催す醜悪」である対象のうちに美を見出す注意をもちえ、恥辱にまみれた不幸な他者の「沈黙の声」を聞き分けることができ、他者を自分のように愛することができたのである。だが、私たちはホメーロスのような表現の能力には恵まれていないかもしれない。しかし、真理を愛し、沈黙である真理に耳を傾けることはできる。真理と不幸はともに不幸における叫びである。そして、この不幸であり、真理であるものに耳を傾け、愛を傾けるには、「恥辱」を受け入れるという意味での「自己を低くすること・謙遜」が不可欠である。そして、このとき、万人が普遍妥当的に「天才」でありうるのだ。


彼女にあって、天才とはアリストテレスがそうであった意味における「才能を有すること」ではない。そうではなく、自己ではない他者が自己の生の根源となる、自然的にはありえない「超自然的な愛の働きを有すること」である。


つまりこの文脈におけるまったき「天才」とは内部の才能のドライブをなによりも重んじ、その発動(インスピレーション←愛-キセキ-神)においては保身をまったく顧みないもののことを言う。ちょうどゴッホやジャンヌ・ダルク、ナイチンゲールのような。それは一般的には狂気といえる。一般的な文脈で言う「天才」はアリストテレス的なもの。



ヴェイユはあくまでフランス・スピリチュアリズムの伝統に則り、「知覚の理論」を駆使して「逆対応」つまり「脱創造」の過程を示す。もっともしばしば用いる例は、いま目の前にある「正立方体」の辺の長さは等しく見えないし、角度は直角には見えないが、この触知不可能な質料の背後にある形相を私たちは一瞬にして把握することができる。すなわち、これが「正立方体」であると判断できるという「ラニョーの正立方体の考察」である。ヴェイユは、この「知覚の理論」を徹底することで、実在すべてを通して神を愛することが見習い修行のように訓練によってなされうることを説いており、それを支える確かな徴として「美的感情」が導き出されるのである。



一般の法による罪人として死んでいったキリストの兄弟として私たちは創造されたのだ、と考えないかぎり、「不幸」な人に「救い」はありえない。つまり、「不幸」における「逆対応」によってのみ「永遠の今」に接する可能性があるのだ。



ヴェイユは、およそ美が見い出せない「不幸」において、どのようにして美を見出してゆくのであろうか。


「二つのものだけが魂に強いる力をもっている。不幸、あるいは美の感情から生じる純粋な歓びがそれである。美こそが、いかなる個別の合目的性ももたず、ただちに合目的性のあらわれを感じさせるがゆえに、この力を有するのだ。不幸とこの上もない純粋な歓び――ただ二つの道であり、等価な道である。だが、不幸がキリストの道となる」



ヴェイユが「不幸」を「目的なき合目的性」とみなすもう一つの大きな理由は、「不幸」において、「奴隷の刻印」を受けることによって、自らの感性的質料が徹底的に打ち砕かれ、否応なく、自らが形相そのものにならざるをえないからである。自らの利害・関心が、否応なく消滅せざるを得ないからである。この状態にあって、純粋直観による「美的感情」が溢れ出るのである。




私の<今、ここ>を震撼させ、覚醒させ、深め、未来へとつなげてゆく、このダイナミズム



以下は不幸や日常の惰性・沈滞をも溶かすきっかけとなるものとしてプルーストの一文。



「マドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋に触れた瞬間に、私は身震いした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった。孤立した、要因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁なものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせたのであった。あたかも恋のはたらきと同じように、そしてなにか貴重な本質で私を満たしながら、というよりも、その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった。私は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものと感じることをすでにやめていた。一体どこから私にやってくることができたのか、この力強いよろこびは? それは紅茶とお菓子との味につながっている」



それはたとえば他者であり、他者への愛、自分を放棄しても構わないほどの他者への愛であったりする。



私たちが「自我の死」に同意し得るのは、愛によって、自己にかわって、自己の奥底に他者が生きるときにかぎられる。必然性への同意とは、愛によって、愛を通してのみなしうるのだ。


以下はドストエフスキーから

「するとふいに、何かしら奇妙で思いがけない、ソーニャに対するはげしい憎しみに似た感覚が心のなかを走りぬけた。その感覚に自分でもはっとし、怯えたようにふと顔をあげ、ソーニャの顔をじっとにらんだ。だがそのまなざしを受けとめたのは、痛々しいほどの心づかいにみちた、不安そうなまなざしだった。そこには、愛があった。憎しみは、幻のように消えさった」


「ふたりはなにか言おうとしたが、言えなかった。ふたりの目には涙がにじんでいた。ふたりとも青白く、やせこけていた。しかしそのやつれはてた青白い顔にも、新しい未来の、新しい生活への完全な蘇りの光がきらめいていた。ふたりを蘇らせたのは、愛だった。おたがいの心のなかに、相手の心に生命を与える、つきることのない泉が湧き出ていた。

 彼らは辛抱づよく待つことを決めた。彼らにはまだ七年が残されていた。それまでには、どれほどのたえがたい苦しみと、はかりしれない幸せがあることだろう! しかし彼は甦ったのだ、そして、それが彼にはわかっていた。生まれかわった存在のすべてで、いっぱいにそれを感じとっていた。では、彼女は―彼女はただひたすら、彼の生だけを生きていた!」




「殺人」という究極の悪のあらわれのうちにあっても、真の意味における「二人称の他者」の殺人は、「自己」の殺人にほかならないために、すなわち、自己が他者の苦しみを引き受け、自己が自己から離れることのうちにあるために、あらわれとしては究極の悪にほかならない殺人においても、善へと転回が見られるのである。そして自然的には理解しえないこの事実は、芸術作品が開示する無の時間・空間において、美として輝き出るがゆえに、真理として感得されるのである。


たとえ、その人の行為が、暴力に抵抗する「非暴力」の様相を呈していたとしても、そして、その行為に自らの生命が賭けられていたとしても、その行為が、神や教祖という宗教的「偶像」によるにせよ、党派、主義、あるいは非主義という政治的「偶像」であるにせよ、その人が、自らが想定した自らよりも強い「力」の存在ゆえに行動するのであれば、それは「暴力」にほかならない。自分が想定したものは自分よりもけっして低くも高くもないのである。しかし、私たちの認識能力の最大の敵は、けっして認識しえないものを認識したいと望み、そして、認識不可能性に直面したとき、認識しているかのような架空の実在を想像力によって構築してしまうことにある。そしてまた、「非暴力」であるかのような行為は、「なにわ節」に比せられる「感傷性」という陥罪を有し、ヒューマニズムのナルシシズム的有り様を構築する根源となりうるのである。


















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「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ 著 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/4635



posted by m_um_u at 17:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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