少し前の写真のエントリで見たホンマさんの本にちょっと気になることが書いてあったのでメモ的に。

たのしい写真―よい子のための写真教室 -
アフォーダンスの紹介で有名な生態心理学者の佐々木正人さんとの対談。アフォーダンスの説明は面倒だから他人様に頼る
アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。
アフォーダンスの概念の起源はゲシュタルト心理学者クルト・コフカの要求特性(demand character)の概念、あるいは同じゲシュタルト心理学者クルト・レヴィンの誘発特性(invitation character)ないし誘発性(valence)の概念にあるとギブソンは自ら述べている。
ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。例えば引き手のついたタンスについて語るのであれば、「"私"はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、この可能性が存在するという関係を「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現するのである。要点は行為の可能性そのものであるため、そのタンスが引いて開けられるのだと示すインターフェイスを持つか否か、ひいては"私"自身がそのタンスを引いて開けることが可能だと認識しているか否かは全く関係ない。タンスに取り付けられているのが「引き手に見えない、あるいは引き手として使用できそうもない引き手」であっても、"私"に引いて開ける事が可能ならば、その両者の間にアフォーダンスは存在するのである。アフォーダンス - Wikipedia http://bit.ly/VXDJjE
ギブソンという認知心理学者は、環境のこのような性質をアフォーダンス*1と呼んだ。彼は、「環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである。」と述べている。*2これではよくわからないので、ギブソンの挙げた例で説明しよう。アフォーダンス http://bit.ly/1I7f1VV
「陸地の表面がほぼ水平であり、平坦で、十分な拡がりを持っていて、その材質が固いと判断されたならば、その表面は、我々の体を支えることをアフォードする。」
我々は、確かにそういう場所を選んで歩いている。行動するときには、無意識であるにしろ、環境がどのような行動に向いているのかという情報を環境の中から得ているのである。*3
場所・空間・行動をほのめかす場所・空間の特徴(意味)の抽出・行動
おーざっぱな自分的な理解だと認知の際のメタのフレームということかなと思う。
別件でヴェイユによる神の存在証明の話が気になってるんだけど、そこでいわれているような「われわれは対象が精確に正方形であると把握できなくてもなんとなく『正方形だ』ということを措定し認識している」の「なんとなく」の部分に関わるもの。
つまりプラトンにおけるイデア、アリストテレスにおける形相-質料、唯名論あたりに通じる認識・認知・概念あたりのあのあたりの伝統の流れ。
それを写真の領域に転用した場合どうなるか?というと端的にはリアリティということになると思う。
写真というのはフィクションなわけだけど人が、というか現代人が視覚的に認知するものもすでにして遠近法ほかのフィクション(視角でありパースペクティブ)に覆われている。それらを先端の芸術領域は疑い、揺らがし、できるだけ「生の」リアリティを再現しようとする。
なにが生かというのは真かというのは本質論的になってたどり着き難く、それをギロンの対象に置くことはしばしば不毛なのだけど。なんとなくビビッドに、自分が覆われていたヴェールが取り除かれて衝撃を受けるみたいなのはある。それが生かどうかはわからないのだけれど、すくなくとも自分がそれまで見れてなかった、感じられてなかった見方のようなものを感じた時に。
そういうものに到達するための途中の方法としてこういったもの、人の視角-認知のフレームのようなものを考えることは有効なのだろう。
もうちょっとイメージしがたいのならたとえばすこし前まで分裂病患者としてまとめられた人たちが発症したときの認知のズレみたいなのを想像してみると良いのかも。症状が視角領域にあらわれたとき、世間的にふつーとされるフレームが取り払われすべてがフラットに意味を持たないものになる。そこでわれわれは何かをみるときに自然に「自分にとっての意味があるもの」を焦点していたことに気づく。
写真や映像はそういった「自分にとっての意味あるもの」以外のものも写しこむことで自分の認識の偏りを逆照射してくれたりもする。
自分がつまらないと感じる景色にレンズを向けることはない。なぜなら楽しくないからだ。しかし写真を撮ることが楽しいという価値観で写真を撮ることをやめると、結果として面白いと思えるもの、つまらないと思えるもの、良くわからないものが全てカメラに収まることになります。こういう写真が沢山積もっていって、あらためてその一枚一枚を眺めると、この写真は面白いと感じたりします。物事を見る角度 | アパートメント
写真の面白いところは、意図せずとも写ってしまうものが含まれることです。写真の作画法としては、引き算の発想というのがあって、余計なものを排除して、主題を強調しましょう、というのが、日本の写真文化には綿々と受け継がれている伝統です。そういう美意識の人には邪魔と映る部分を写真の旨味成分だと主張するぼくのような人間もいます。同じものを観ていても、その人の経験というフィルターを通してみると、様々な意見が生まれることが分かります。
今、大きなかけ声のもとに、金ダライのメダカが同じ方向に一斉に泳ぎだすがごとく固定したモノの捉え方がますます肥大化しているように感じているのですが、写真家や表現者たるもの、ぐっと立ち止まって、世の中の様々な現象に違った角度から価値感を提示する。今の世の中見方を変えるとこんな風にも見えるのかと。
アフォーダンスは本来機械的な認知では表しにくい、あるいはプログラムしにくい冗長性の部分、ファジーで「無駄」で全体的な部分に注目して詰めていこうとしてるところかなと推測される。
それを別の言葉でいうと情報、あるいはリアリティにおける冗長性ということになるだろうけど、この話は本題から逸れそうなので今回は詳しく詰めない。
ホンマさんと佐々木さんの今回の対談ではその具体として、街の境(街の範囲)と波のリアリティのようなものについての写真実践が語られていた。
街の境について、写真でその部分を撮るとき、街の範囲を現象学?的、あるいは、バカ日本地図的なワタクシ的脳内マップとして認知する時どこを街の境界とするか自分の内観に問い、その境、レイアウトと思われるところをスナップしていった作品群。
あるいは、波の全体を、ひとつとして同じ瞬間のない波を、どこという瞬間を決めることもなくなんとなく撮っていった作品群。
それはカルティエ・ブレッソン的な決定的瞬間の考え方に対するものだった。つまり、世界をある特定の視角-関心にもとづいて部分的に切り取っていく手法。
それは人の視角や関心を特定の見方に焦点してわかりやすくするものではあるけれど全体のリアリティからは遠ざかったフィクションといえる。
そういった試みは映像-映画でも行われているだろうし、自分的には「プレーンソング」のアキラの試みを思い出させた。

プレーンソング 草の上の朝食 (講談社文庫) -
なにかを焦点するのではなく、できるだけふだんの自分がみてるように、雑音や雑景色もフラットにカメラを回し続け記録していく。絵的、音的には作品として成立しないかもだけど、そこにはともするとフィクションな作品からは感じられないリアリティの全体が収まっている。
それとは逆にカメラという機体を通して、あるいは特定の認知フレームを採用することで浮かんでくるセカイのようなものがある。
ウェストンの砂漠の稜線-女の身体的なそれもそうだったけど、直近で見たサルガドの写真集における労働現場の様子はそれを想わせた。

人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -
世界システム的に連結し高度に分業化され構造化された消費社会の末端労働の現場を取材していった写真集。部外者から見ればそこには幾何学的とも想える文様が浮かび上がる。尖った刃のようなサトウキビの葉、木綿の渦巻き、自転車の組立部品の矩形の並び、俯瞰すれば蟻の巣のような炭鉱の様子、インスマウス人との対決を想わせるマグロ漁師の現場、恐竜のような自動車や船舶たち、そして、工場の巨大な機械群と労働者たちの対照。
そこでは労働者たちはそれぞれの場に現れる怪物と戦う戦士であり、それぞれの抽象文様に戦いを挑む。怪物や苦難の巨きさは連結した世界の重みを象徴的に顕す。
ヴェイユによると労働は現代社会が当然として滲みこませた認識の遠近法、距離から自らを疎外させ距離を取らせる自己陶冶として必要とされるものとされる。
一度、自己を外部の流れに任せ、そこに生まれた真空にこそ愛-美が湧き上がるものだ、と。

シモーヌ・ヴェイユの詩学 -
自分的にそれは未だ汎用的に通用するものかどうか、たとえば、絶望のふちにあるひとに「もっと徹底して絶望し自己を捨て、預けることで却って実存は転調するものだ」とは言い難い。
そして、こういった労働の現場というのはヴェイユが思ったような「修行として必要なもの」というよりはそれぞれがそれぞれのモンスターに立ち向かうので精一杯のように思える。
サルガドは写真を通じてそれを資本主義、あるいは、経済システムという怪物として描こうとしていたのかと思えたのだけれど、それは人それぞれの解釈によるのだろう。しかしそこで表現してみせた幾何学的とも想える労働現場の抽象は「それぞれの場に神が宿る(神は細部に宿る)」というよりはサルガド自身の目が愛におおおわれていたからこそ見いだせた、あるいは作り出せたものだったのかもしれない。
そして、愛が美を感じる受け皿であるのなら、それは余裕(afford)のあるところに咲いたように思った。少なくとも自分には
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我々の不幸を慰むのは|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n05cd1d79d508
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