2015年01月03日

ホドラー展へ行ってきたよ





魂が先行して最小限の肉体がついていく。そういう踊りをやんなくちゃならない。



フリースタイル。何か表現しようというんじゃなくて、いま、トレーニングしたことは全部忘れてね。ただ立っているだけでもいい。


いくらテクニックでやったって、自分の内部にないものはいくらやったって、響いてくることはないですよ。



花が美しいから、ああきれいだな、っと踊ることはないわけですよ。あなたが見ているその目が、魂が、見てるその姿がさ、いままで稽古したこと全部のエネルギーが燃焼しているならば、花ができるわけですよ。できるでしょう。延々と極限にまで、永久にずうっと花を咲かせる。


死者の眠りのなかへ、死者の夢のなかへ私が入っていく。そういうなかで成長する。


宇宙全域とのかかわりのなかで、あなたは石蹴り遊びをしているんだ。


花が開いて、開いた花がやがて散っていく。私はみんなが幽霊と話し合っている姿を見ていたら、花が咲いているような感じがした。



























ホドラーには最初興味がなくて、それはパッと見「セザンヌみたいだな」と思ったからなんだけど行ってみたらよかった。



「セザンヌみたいだな」≠「興味が無い」というのは自分にとってセザンヌの絵は単なる静物画でつまらなく思えていたから。その印象が変わったのは小林秀雄の解説による。



近代絵画 (新潮文庫 こ 6-5) -
近代絵画 (新潮文庫 こ 6-5) -




彼の語るところ、自然の研究とか感覚の実現 realisation という言葉が、しきりに現れるが、それは、当時の常識的な意味とはよほど異なったものだと考えられるので、彼が自然の研究という時に、彼が信じていたものは、画家の仕事は、人間の生と自然との間の、言葉では言えない、いや言葉によって弱められ、はばまれている、直かな親近性の回復にある、そして、それは決して新しい事ではない、そういう事だったと言えるだろう。
 印象主義は、画家の視覚を言葉から解放したが、それが一種の感覚主義に堕する理由は何処にもないのである。セザンヌが、印象主義の分析的な手法に飽き足らなかったのは、感覚の実現の為の手法として不足であるという様な事ではなかったと思われる。もっと根底的な理由が、セザンヌにはあったので、これははっきり言い難いのだが、言ってみれば、印象主義の、印象は分析の可能な対象であるという考え方が、もうセザンヌには不満だったのであり、彼が言う感覺とは、画家にとって運命的な体験を指すのである。彼はヴォラールに語る。「不幸にして自分には、感覺の実現という事は、非常に辛い仕事だ。感官に広がって行く強度というものについて行けないのだ。自然を生かしているあの途轍もない彩色を、私は持っていない……。あの雲を見給え。あれが物にしたいのだ。モネには出来る。彼には腕力がある」。彼の言うモネは、印象派のモネではない。寧ろ彼自身を語っている。画家とは、言わば視覚という急所を自然の強い手でおさえられている人間なのだ。自然を見るとは、自然に捉えられる事であり、雲も海も、目から侵入して、画家の生存を、烈しい態度で、充たすのである。セザンヌは客観主義の画家と言われるが、大事なのは、そういう言葉の意味であって、当時の芸術に非常に大きく影響した科学的客観主義の意味を、彼ほどはっきり見抜いていた画家はない様に思われる。




ついでに印象派について。同書によるとモネが表そうとしていたのは光であったということ。というか印象派が表そうとしていたものはそういうことになる。

被写体や構図は同じでも光の加減は変わる。それによって存在の印象は変わってくる。

モネが同じ場所でずーっと睡蓮を描いていたのはそういうことだったらしい。彼が描いていたのは睡蓮に映る光だったから。光であれば無理に場所を移さなくても千変万化していく。(そして、この段階の画家にとって世の中にはすでにそのもの自体が被写体としての意味をもつものなどいなかったのだろう。すべてがフラットで平等だったから)


そういうわけで最初に印象したホドラー≠セザンヌということならホドラーを見に行っても良いかと思った。モティーフ的に得るものがなくてもその色の使い方だけでもなにかを感じられるかもしれないと思って。結果的にその予想は良い方に裏切られたわけだけど。それも大きく。



いつもどおりアウトラインは人に頼ってしまおう。



ホドラーは、1853年にスイスの首都ベルンで貧しい家庭の長男として生まれた。父親は大工であった。[1]8歳になるまでに父親と弟二人を結核などの病気で相次いで失う。母親は装飾美術を手掛ける職人と再婚するが、しかし1867年にやはり結核で死去する。[2]最終的には他の兄弟もすべて結核で亡くなってしまう。貧困を極めていた幼少のホドラー自身が兄弟と母親の死体を荷車で貧窮院から運んだと回想録で語っている。これら幼少期の体験が、彼の感性に「死」という存在を深く植えつけた。[3]

義理の父親から手ほどきを受けた後、トゥーンの画家の下に弟子入りする(1867-70年)。18歳の時にジュネーヴに戻る。トゥーン滞在以来、看板職人をしたり観光客相手に絵を売って生計をたてていたが、画家のバルトロメ・メインの徒弟となり(1871-76年)、師の影響のもとコローやバルビゾン派の影響を受ける。やがてその才能を見出されジュネーヴの美術学校に入り基礎を学ぶ。その後スペインに渡り、マドリード周辺の風景やスペインの女性を描き、明るい色彩と力強い画風を身に付ける。

代表作となる『夜』(1889年)が1891年にパリのシャン−ドゥ−マルスのサロンに出品され注目を集める。これによりホドラーは象徴主義の画家として脚光を浴びる。『夜』の構図では、横たわる女性の平行性が強調されている。いっぽうで中央に描かれる男は何か黒い物体を押しのけようとしている。これは若き日のホドラー自身を描いた自画像といわれている。

ホドラーはフランス芸術家協会の会員となり、1892年にはゴーギャン、モロー、ナビ派などの世紀末画家たちの作品が集う「薔薇十字サロン」にも出品した。様式的には徐々にモニュメンタルな人物をモチーフに描く回帰的傾向を強め(『生の疲れ』、『落胆した魂』)、『ウィリアムテル』(1903年)のような歴史的・国民的主題も手掛けている。

G. ノーマン『19世紀画家・絵画辞典』(カリフォルニア、1977年)で行われている分析によれば[4]、初期の作品はコローやクールベの影響がみられ、後期の作品では印象派に特徴的な色調の幅を継承している。ホドラーが得意とした風景画、寓意画、物語画は自然主義的な一面と、象徴主義的な特徴をあわせもっている。様式上の特徴としては画面の構築的性格、相称性、平行性とリズム感が挙げられる。この画家の作品に特徴的な、明確な輪郭線を持つ形態的構造は、神話的で感傷的な印象を鑑賞者に与える効果をあげている。

19世紀末の時代を象徴した画家の一人で、苦難に満ちた人生を生きたホドラーの作品には「死」や「夜」をテーマとしたものが多い。 その一方で、女性を描いた肖像画やスイスの風景画などの写実的な作品も多数残している。
フェルディナント・ホドラー - Wikipedia
http://bit.ly/1vTziXl



ホドラーが手がけた多数のモニュメントから、壁画そのものではないが、スイス建国史の一場面「マリニャーノからの退却」と「ムルテンの戦い」、ナポレオン戦争の際のイエーナの学徒出陣、同じくドイツはハノーファーがプロテスタントへと改宗した「全員一致」などの習作が紹介される。これらの大画面は、博物館や市庁舎など公的な場所に置かれ、正史の一部をなした。それは唯一の、正統の、公認された歴史であり、それを描き、語る目的は人々を一つにまとめあげるためだった。ある出来事の一つの解釈が定まるとき、その記憶を共有する人々の間には同胞意識が生まれる。正史の制定とその視覚化としてのモニュメンタルな絵画は、想像の共同体としての国民国家の土台となる共通認識だった。

国民の誕生を描くホドラーの絵は、外敵、蜂起、連帯、自己犠牲などのモチーフを持つ。そうした大きな物語はある範囲の人々を一体化する一方で、それ以外を切り捨てる。想像の共同体とは境界の策定であり、内と外ははっきりと断絶される。内においては一体感があり、会場の壁に書かれていた彼のことばを借りれば、「同じ感情・・・ただひとつの想念・・・モニュメンタルな合奏」からなる調和したリズムがある。しかし、それは非調和的なもの、リズムに反するもの、不協和音を外に追放することと不可分だ。だから共同体内部の画一性は恐ろしいものでもある。というのも、20世紀後半以降にいる我々は、国民はただ統合されただけでなく、異物を徹底的に排除したのであり、人々がただ一つのアイデンティティへと導かれた先に全体主義が待っていることを知っているからだ。
ホドラー展 - detoured http://bit.ly/1vTzAgW


年代順に作品が並べられているので入ってしばらくは職人時代のもの、そこから古典主義的な作品に続いていく。その辺りの作品には特に面白みはないけれど、画のそこかしこに以降につづく色彩の多様が感じられたりもする。印象派的な。

転機はやはり貧しく暮らし始めた頃で、そのあたりから段々と題材そのものが変わっていく。

それまではなんでもない風景か聖書的な題材というところだったものが自らが身をおく貧しい環境にいる人達の苦悩、日常をそのまま描き始める。

そのような転機、心境の変化を表す作品として日曜美術館ではこちらが紹介されていた。







聖書の善きサマリア人の題材から、最初描かれていた男性が塗りつぶされ、単に道端に怪我をした若者が倒れている、ということにされる。つまり「聖書的題材・影響からの離脱」でありアーティスト的な関心の目覚めという風に従来なら解釈されるところ。

ただ、自分はこの変化の前にこうなった心境のようなものが或る作品に表されているように思った。


Googleではみつからなかったので文章で説明するけれど、教会で男性がなにかを嘆き祈っている横で女性がその男性とは直接目を合わさず祈り、彼らの前の牧師はあらぬ方向を見上げている。痴呆のように。背後には同じように暗く祈る人々の姿。

この画にホドラーがどういった意味を込めたのか精確にはわからないけれど、自分にはこれが「神はわれらを見捨てた」「しかしわれわれは祈るのだ」と言っているように見えた。

貧しい生活の中で救いを求めて祈っても救いは訪れない。それでも彼らは教会に集まり祈る。習慣として。

あるいはホドラーは「なぜキミたちは祈るのか?救われないのに」と尋ねたのかもしれない。

「祈りとはそういうものだからです」

彼らはそう答える。



「救いは訪れない」、「神は居ない」、「神はいるのかもしれないが少なくとも我々の生活にはいない。救いは訪れない」



それでも祈ることで、彼らは満足を得ていく。

それと並行するように日用の糧を積んでいく。



その姿そのものにホドラーは光を見出した(一切衆生悉有仏性)。




そこではもはや神≠聖書を示す徴は必要無くなり、サマリア人からあの男性は消えた。



そこにただ苦難に遭う人がいて、誰かが見守っていたり、あるいはこれから救いの手が訪れるのかもしれないし訪れないのかもしれない。そういった彼らのリアリティ。




そういった絶望とも言える現状を受け入れたところから新たな光が見出され始める。




その画期がもっともわかりやすく表れた作品がこれだろう。







この作品はネットの画像とかポストカードだとその色味の多彩さがわかりづらいので実際に見たほうが良いもののひとつ。


実際には男性たちの肌やその周りに印象派的な多様な色、光が置かれている。


タイトルはオイリュトミーであり「リズム」ということ。光≠色彩が多様なリズムを表し、彼らの巡礼が単なる苦難ではないこと、それそのものに光があるということを示す。そして、その歩みそのものが祈りでありリズムを作る。


オイリュトミー(Eurythmy)とは、リズムを意味するギリシア語のリュトミスにドイツ語の接頭語のオイをつけてできた造語で、よきリズムという意味である。1895年に制作した5人の老人を描いた作品にホドラー自身が名付けている。

オイリュトミーといえばルドルフ・シュタイナーという連想が浮かぶが、ホドラーはシュタイナーとは直接関係なく、しかも先行してオイリュトミーをテーマとする絵画の制作に取り組んでいた。スイス人の音楽家エミール・ジャック=ダルクローズ(1865〜1950)からインスパイアされたのだという。

オイリュトミー=シュタイナーという固定観念をいったんはずして、虚心坦懐にホドラーを味わってみると、近代舞踊(モダンダンス)というパフォーミングアーツと絵画との関係が見えてくる。ダンスが生み出すリズムを絵画で表現したのがホドラーである

「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: 「フェルディナント・ホドラー展」(国立西洋美術館)にいってきた(2014年11月11日)−知られざる「スイスの国民画家」と「近代舞踊」の関係について知る
http://e-satoken.blogspot.jp/2014/11/20141111.html




古代ギリシアの壺絵に描かれた舞踊する女性を思わせる近代舞踊は、西洋における唯一の芸術舞踊であった、「型」を重視したバレエを否定するところから始まったものである。19世紀半ばから始まり、20世紀になってから文化現象として社会的に認知されるようになった。近代舞踊は、心身一元論の哲学に基づく。

ホドラーがオイリュトミー関連の作品を制作するようになったのも20世紀前後からで、その意味では近代舞踊運動とパラレルな関係にあったことがわかる。ジャンル横断型の芸術運動と理解すべきなのかもしれない。



感情-emotionの女性たちの足の運びはオイリュトミーの基礎的なものに重なる。





あるいは「オイリュトミー」の男性たちの歩みそのものも。



歩みでリズムを、身体と空間の位置で意味を刻む。







これらはそういった動きを背景・前提にしたものといえる。








画としては静止しているけれど、そこには動きが前提として含まれている。止まっていながらにして動いている。



すこしホドラーそのものからは離れるけど、最小限の動きで、あるいは空間における身体の位置によって意味を刻むこと。聖書などといったクラシックな題材や方法に頼るのではなく、その環境に合った方法-表現を逐次作り出し提示していくこと。そして、そこに「リズム」「調和」「死」「生」を意識すること。これは自分的には大野一雄を想わせた。

暗黒舞踏 - Wikipedia
http://bit.ly/lBHS0s

舞踏そのものはハイコンテクストだし各世代ごと各演者・作品ごとに表現と意味付けが異なるというところもあってなかなか理解し難いのだけれど、彼らのやろうとした/していることはなんとなくにはバタイユのそれに通じるのだろう。つまりクラシックなものに囚われて見えない生の充溢の解放。エロースのエス的な部分の解放。

なのでなんかおどろおどろしい印象になってしまうのだろうけど、ホドラーと共通すると自分が感じた部分としてはたとえば大野と死を諏訪敦が表したものがある。






大野一雄という存在と死を諏訪は表現・止めようと刻銘に描いた。

大野という存在において身体は物理的意味を失い、物理法則を超えたものを内包するようになる。

ちょうどホドラーの静止画が止まって居ながらにして動いていたように。

そこでは死は単なる静止、無ではなくあらたな意味を予感させる。




無 - 絶望ではなく、すくなくとも遺されたものたちになんらかの救い、光 - 色彩を遺す。





舞踏と共通する要素として、たとえば労働そのものも踊り - リズムをもったものとして表現される。




そういった課題は田中泯さんなんかが追っていた。



人の日常の生活の中に色彩やリズムがあるということ、そこに日常における救いがあるということ。作家としてのホドラーがそれを十分に表現した頃、彼に大作家としての役割が付される。


ナポレオン戦争の影響、あるいはアンシャンレジームの崩壊と旧来の社会構造の変化によって労働者たちには「自由」が与えられた反面、「自由」な責任も負わされた。

田舎の土地を離れ都会に出てきた労働者たち、無産労働者たちの生活に保障はなく都市にそういった自由な労働者たち、弱者としての労働者たちがあふれた。

バルビゾン派にも描かれていた路上の寡婦の風景もそれに当たる。


そこではあらたにかっちりと信じられるもの、引っ張っていってもらえるものが求められた。


ホドラーが接していた日常、労働者たちの日常において国 - ナショナリズムはそういった背景から求められた。

それもあってホドラーがこういったナショナリズム的なものに協力した、といえるかも。はっきりとしたことはわからないけれど。あるいは単なる生活の糧のためだったのかもしれない。



そういった季節を経て、まるで俗世に飽いて隠遁するかのように風景画の時代が始まる。


スイスを縦横に旅して湖面に映る光や風、空気を表していきながら画家の胸中にあったのはどういった思いだったのか?



「見ろ。光は、風は、音は、踊りは、こんなにも豊かに溢れてるじゃないか。人の世界に留まらなくても」




そこにはかつて自分がハンマースホイに感じたような静謐と光があった。































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関連:
マッキアイオーリ展にいってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/140611092.html



Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html



Teminal Arts of Sein und Zeit (補遺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200173685.html





大津幸四郎 第一回監督作品 大野一雄 ひとりごとのように [DVD] -
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どうせなにもみえない―諏訪敦絵画作品集 -
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posted by m_um_u at 13:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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