2014年12月29日

複製技術時代のゲージツと芸術



「突然余暇時間のできた労働者たちはそれをなにに当ててよいかわからなかった。彼らにとって旅行や買い物は余暇の当てとしてちょうどよいものだった。カメラはしろーとに簡易に芸術的outputのカタルシスを与える気の利いた道具となった」。

一般的にカメラというのはそういう形で世間に根付いていった。

旅行とカメラ、「記念」というのは大衆の余暇活動の当然として、彼らの記憶というフィクションの材料として生活に溶け込んでいった。


時々家族というものを忘れそうになったり、自分たちの記憶、現在を忘れそうになったとき、人は記念写真を見て自分の位置 - 社会的存在位置をアイデンティファイする。




「複製技術時代にあって一回性は死に、ゲージツは死んだ」


そのような解釈 - 文脈でベンヤミンのアウラという言葉は「一回性」と不等号されて使われがちに思うけど、以前にもすこし見たように、カメラや写真が身近なものになっていたらおそらく最もそれを活用し、てきとーに使った蒐集をしていたのはベンヤミンだったのではないかと思う。

ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


彼は内向的でメランコリックな、おぼっちゃん生まれの前衛的趣味を理解した都会人だっただろうから。現在だったらおそらく耽美少女趣味とか、エロとグロの境界とか、まあ自分と似たような趣味に走ってたのではないかと勝手におもったりする。もちろんベンヤミンのほうが進んだ趣味人だっただろうけど。


ベンヤミンが現在生きていたらカメラのみならずメディア・アート的なものも最先端で駆使して自らのリアリティを投影したり、あるいは、それらが投影された他者の作品に感動し、すばらしい、と批評していただろう。Tumblrなんかもやってたりやってなかったかもしれない。

カメラはそういった趣味人にとってアタリマエのものとして子供の頃からの生活の一部になっていたかも。中学生か高校生ぐらいからの。






タイのセックスワーカーを無断で撮影した写真家うんたらに関するつぶやき(エントリ用の素材) - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/763251






前提として、「アートだったか」「アートだったら許されるのか?」「写真はアートか?」「当人は良い人で悪意はなかった」、とか以前にトラれた当事者が嫌がってたのだったらそれはマズイだろというとこでいちおFA。ハラスメントと同じ案件なので。当該国で法的に立件できなくても、人のフルマイとして良心の呵責みたいなの感じたほうがいいとおもふ。そんで呵責あるなら今回の件とかいままで儲けた金の一部を当該セックスワーカーに寄付なり、関連寄付なりの浄財するよろし、ぐらい。


アートと写真、あるいは、アートとはなにかについては後述。




プロ消費者的に他人様になにか求めてるだけってのもクレーマークレーマーなだけなので、今回の件で自分的にお勉強すべきものとして、改めて振り返ってもいいかなってことでサルガドの写真集を図書館に検索したらあった。


人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -
人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集 -


なので、借りに行ったらホンマタカシさんのこれもあったのでついでに借りて読んでみたらけっこうおもしろくてためになった。



たのしい写真―よい子のための写真教室 -
たのしい写真―よい子のための写真教室 -


今回の件に関する結論からいうと、大橋さんの作品というのは写真史的にはニューカラーとスモールストーリー的なものからのリアリティ表現だったのだろうなあ、ということ。技術的な構成は作品を見てないので分からない。本作の場合はポラロイドかなんかで撮ったようだから露出とかはいじれなかっただろうから自分で調整できたのは構図ぐらいだったかなと思う。



ホンマさんの説明を自分なりにさらに簡易にまとめると、最初、写真は単なる記録的なもので「絵画に劣るもの」とされた。写真は記録的なもの、よくても絵画的な表現(を模倣するもの絵画主義的表現 - ピクトリアリズム)に過ぎなかった。

写真が絵画を超えるもの、あるいは写真独特の表現を打ち出すようになったとされるエポックとしてアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」がある。人がいまにも水に落ちようとする決定的瞬間をシュート(狙撃/撮影)したもの。以降しばらく写真が絵画を超えるもの、写真としての独自の機能・表現とはこういったものとされ模倣されていった。しかし、その決定的瞬間もつくられたフィクションであったことが後に暴かれたわけだけど。

「決定的瞬間」的な写真は小型カメラ - ライカの登場によってさらに流行していった。カメラはもっと気軽に路上を、「決定的瞬間」をスナップするものとなっていった。そして路上の、日常のリアリティがカメラ的表現として反映されていく。

それらが覆ったのがエグルストンに代表される「ニューカラー」と呼ばれる作品群によって。そこでは「決定的瞬間」ではなく「なんでもない日常」が提示されるようになっていった。表現としては「刻を止め、絵画的に陰影(光)を刻んだ白黒」、から、「なんでもない日常の持続」としてのカラーへと変わっていった。そこでは決定的で絶景的な世界などなく、世界はすべて等価なものとして表現される。


それらは大きな世界から小さな世界への転換であり、大きな物語から小さな物語への転換といえる。そこでは自分や自分の家族を含めた親密圏が等身大の視点で見つめられ語られる。

いわゆる私小説的、あるいは日記的なリアリティの表現といえるそれらにアラーキーこと荒木経惟も属するみたい。

私見では私小説的な作品群が日本で流行ったのはウェブログにおける日記 / ジャーナリズム論争?(ブログは個人発のジャーナリスティックなメディアと言われるが日本では日記的なものとなる)を想わせる。それが日本人の元々の性質だから、というのはびみょーだろう。大きな物語と小さな物語、「大きな物語は死んだ」以降の展開のようなものがあるとして、日本のそれが大きな物語と直接に接続、対抗しない私小説的な語りへ行ったのはもともとキリスト教的な神-大きな物語がなかったからかなとも想える。

「サルガド的な作品が表せない / 出てこない」のはサルガドが大きな物語を前提とし、つつ、それを現代的に敷衍しているからだろう。サルガドの作品には神の物語と陰影、あるいは、その季節を過ぎた後にも期待される慈しみのようなものが表現されているので。


大きな物語に対してはポストモダン的展開が定番で、写真界でもそういった流れが出てきた。

写真そのものを疑い、カメラで撮る、ということさえ放棄したような。あるいはできあがった写真 - プリントを物理的に傷つけて遊び、それを表現とするような。自らが撮影することから自動撮影へと移行、、etc.

テーマやモティーフとしてはポストコロニアル的な弱者やマイノリティへの視点が加味されていった。

そして、近代の再構築ともいえるような手法も。

スタジオで完全に場を再現して撮影するセットアップと呼ばれる手法・表現は近代の再構築的志向に近いように自分的には感じられた。

ちなみにいうと「写真」「真実を写す」というのは日本的造語で、もともとは「photo(光) - graph(画)」程度の意味。つまりカメラ・オブスキュラで光を捉えたもの。そこに真実もフィクションもない。







写真の歴史はおーざっぱにそういったものだろうけど、写真の撮り方 - モチベの大枠として、テーマではなくモティーフで走らせる作品がある、という理解があまり人口に膾炙してないみたい。

モティーフ(motif)という言葉はもともとは音楽用語でそれをセザンヌが用いたことで絵画的主題(sujet)みたいな意味に捉えられるようになったぽいけど音楽のそれと同様、導調であり主題ということではないぽい。
簡単に言うと、画家も音楽家も「確定したひとつの主題-意味を描く」というよりは「ある場面をなんとなく描く」でありその「ある場面」が全体を構成する導調となっていく。

結果的にひとつの作品が出来上がるけれどそれはアーティストの手を離れた意味の多様性を持つ場合が多いし、その意味で導調となる。


すべてのストーリーを表現する作品が最初から最後まで物語を構成して作られたものではなく、最初に描きたい場面、色、音などがシンプルにあって、それをテクストに置いたところから派生する導調に身を任せる、みたいな手法をとる作品というのは結構ある。それによって最初から最後まで構成・統制された作品よりも偶有性を呼び込めるので。

偶有性に期待する理由は「どんなに天才なストーリーテラーでもひとりの人間の能力なんかたかがしれてるし、ストーリーなんかシェイクスピアで語り尽くされている」というのももちろんあるのだろうけど、自分的には「人生とは偶然によって構成されていくものだから」というのもあるかな。

必然と偶然、偶然を伴った運命。


写真や絵画におけるモティーフ、全体の構成の中で単にワンポイントこれを撮りたかった(深い意味はなく、意味はそのモティーフから勝手に展開され見る人によって付与される)、というようなものとして考えられるのは「構図」「フォルム」「光」「陰影」「色彩」「空気感」「被写体が単に魅力的(魅力的という理由はよくわからないけど単に撮りたい)」「目に映ってるもの、というより、自分がナニカを感じた瞬間に目の前にあったもの」などだろうか。

大橋さんのくだんの作品の場合は「空気感」「ナニカを感じた瞬間(リアリティ)」などが考えられる。


そうかんがえると彼に批判的な人の一部が言うように、彼は最初から最後まで計画的に窃盗をした、というわけではなく、単にその場でいままでにないリアリティを感じてそれを撮りたいという衝動を抑えられなかったのかもしれない。


もちろん、そうだとしてもそれをもって彼のやったことが免罪されるわけではないだろうけど。


「ぜったいてきにあくだから / ぜったいてきにあくだった」みたいな形で彼に石を投げるのはすこし違うように思う。


(今回のことで彼が反省していれば、その後の展開もあるかもだし)




ついでに、ここから展開した写真と映画についての妄想、というか自分的理解の現状。


























モティーフ先行の作品ということだと北野武なんかもそれに当たると思う。彼自身が「自分は場面構成は絵に起こすのだけれど、映画を撮るときは良い画が撮れれば良いと思う。ある場面が思い浮かんで、その場面を良い画で再現できるとマンゾクする」みたいなことを言っていたので。



ベルヴィル・ランデブーなんかもそんな感じ。




いわゆるアート的とされる作品群はそういった文脈があるためなんとなくワケワカラン - アートって捉えられるところが一般にあるかと思うんだけど、そういった形で作家当人のリアリティをある場面 - モティーフとして単に再現・記録してるだけなので、ハイコンテクストなわりに説明不足、だけど、似たような?視点のもとに編集された一連の作品群を見て、そこにナニカがあるように感じられ、コンテクストを理解してない一般の人でもそれをアートとして認めるのかもしれない。あるいはたんに「アートを見に来たからこれはアートなんだ」的なアレ。場の雰囲気とか、アートとして飾られ説明されてるからその情報を摂取してアートだと思う。



そういうのと違っていわゆるアートとしての完成度を持っている作品でも2つの傾向があるように思う。

ひとつは「模倣としての作品」、もうひとつは「アート(arts)としての作品」。





「アートとしての作品群」というのはArts、つまり技として一般的な通念から画期したものをきちんと開発・習得し、その律にもとづいて一般的には認識しがたいリアリティやパフォーマンスを打ち出したもの。

たとえば絵画における遠近法 - 透視図法がそれに当たる。

遠近法がフィクションだということは知ってる人は知ってるだろうけど、あれが16世紀に数学的な抽象思考をもとに開発されたものであることはあまり知られてないと思う。


遠近法がふつーの視覚認識の前提になってしまったわれわれからするとにわかには受け入れがたいのだけれど、もともと世界は遠近法的なものではない。だから遠近法以降の欧米絵画に比べ日本の絵画はしばらく平面で奥行きのないものだったし、遠近法以前の欧米絵画もそういったものだった。

「だから遠近法というのはフィクションで」というと「でも、われわれの視覚、目に映るものは奥行きのない平たい平面ではないじゃないですか?」ということになり自分としても納得しがたいところはあるのだけれど、それはもう遠近法をインストールしてしまった現代人の認識なので、そこからの類推は悪魔の証明的なものになってしまわざるをえないのかも。

なので、遠近法以前の視覚認識を想像するに留む。


とりあえずアート(Arts)とはふだんのパース・思考では到達できないようなものを記号と道具を通じた抽象的思考のhackによって生み出した合理性の修練としての技・技法、および、それに基づいて作られた作品群と言える。なので往々にしてその技を験し、試す挑戦や気概の場を衛る実験で前衛的なものとなる。


あるいは

数学的思考に類する抽象的思考に基づいて作られた特定の方法ではなくても、後に模倣がつづいていくようなエポックとなるような表現、切り口、見せ方、方法的なものであればArtsといえるだろう。Artsが表現として表れたものであれば、それを見た者の普段の認識 - リアリティに変化を生じさせ得るものであればArtsと言える。

人の普段のリアルでは到達できないような、現実に対する別の切り口、見え方、感じ方を提供するためのパース

それもArtsといえる。



対して、「模倣としての作品群」というのは先行するアートの切り口を模倣し「なんとなくアートぽい」ものとして提示したもの。つまりアート的な技法に基づいた、あるいは、その技法を知らなくても作品群を真似た習作といえる。

一般的にはそれがエポックとしてのオリジナルか模倣かというのはわからないので模倣的なものでも「なんとなくアートぽい」と印象されればアートとして世間に受け容れられる。


そして、エポックとしてのアートと模倣とでは後者のほうが圧倒的に多い、し、後者は一般に受けやすい演出・洗練を加えられて提示される。




特に写真や絵画のゲージツ家でもない自分としては自分がそれらによってアウトプットするものは模倣で十分かなあと思ってる。


ポラロイドという制約を逆に利用してアート的なものができるのであれば、自分もサルガドのような作品をiPhone4の貧弱なカメラで撮れるかなあ、ぐらい。


そこでは一眼レフ的なものは必要ないし一般的に一眼がどうとか言ってる人たちって大体が模倣の模倣でフワフワ印象を出てないわりになんでそんな高い買い物してんだ?とか思うけど、あれはあれでなんか高精度で撮れる(露出しぼれたり、シャッタースピード変えたりで色々遊べる幅が増える)のだろうから、まあ色鉛筆の色が増えるぐらいのものなのかもしれない。未だよくわからんけど。





とりあえずホンマさんの解説本ではワークショップ的に「こうやって撮って行ってみよう」てやり方も書かれてたし、いろいろ模倣的にやってく中で理解が深まっていくというのも期待されるし、iPhone4の貧弱なカメラで良いのでちょこちょこ撮っていこうかと思う。(習うより慣れろ、だろしね)










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関連:
clair-obscula|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf9a2fb5a685a





タグ:写真 art
posted by m_um_u at 23:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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