2014年12月24日

「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について



ついったなんかでAセクシャル的にヘテロなセックスを嫌う人、や、そこまでいかなくても男性恐怖的に男性との性的接触を恐れフェミニズムの言葉を借りてその恐れに対抗しようとする人なんかがチラホラ見られる。

それらはほんとに自身の感覚・実感から発しているのか、自らのトラウマを埋めるための他所から借りてきた言葉に「自分はそういうものなのだ」と信じこませるようになったのか他人である自分はもとより当人も判然としないものだろう。

というか、そういう言説を度を越して表象しようとする人たちはそれをして自らのその部分の自信・実感のなさを埋めようとしてるのかもしれない。ちょうど三島由紀夫がそうであったように。






AERA 痴漢の記事について - c71の一日
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/12/20/235911


加害者が「なぜ痴漢したのか」問われない現実 〈AERA〉|dot.ドット 朝日新聞出版
http://dot.asahi.com/aera/2014121600098.html


原宿カウンセリングセンターの信田さよ子さんは、加害者の複雑な心理を分析する。

「たとえ性衝動があっても、普通は隣り合わせた女性を触らない。そこを踏み越える加害者は、自分の行為が相手に一生の傷を残す重大なことであると分かっていない。むしろ女を喜ばせているとまで思っている加害者も少なくありません」

 痴漢の加害者である会社員のタナカさん(男性、50)も実際、そう思っていたという。

「相手も一緒に楽しんでいる、くらいの気持ちでした」

 高校生の頃から約30年間、電車内痴漢を続けた。「通勤の移動時間を有効活用する感覚」で日常化していたという。毎朝同じ電車に乗る特定の女性に1年間痴漢行為を続けたこともあった。

 何度も逮捕された。警察の取り調べでは、「被害者はミニスカートだったのか?」「性欲がたまっていたんだろ?」。そう誘導された。「なぜ痴漢をしてしまったのか」と聞かれることは一切なかった。勾留48時間以内に認めるとそれで済んでしまう。立件されても、弁護士を通じて示談金を払うだけだ。

「何百万円も支払い、職や妻も失った。それでも自力ではやめられなかった」(タナカさん)




アエラの記事の様子から以前すこし話題になっていた痴漢する男が痴漢を「せざるを得ない」心境を「膜」という言葉で表していたエントリを思い出してぐぐってみたらこれも田房さんのものだった。


Love Piece Club - どぶろっくと痴漢の関係 / 田房永子
http://bit.ly/1mhyCXg


一体、痴漢が痴漢をなぜするのか分からないまま3年が過ぎた時、私はある本を読んだ。「刑事司法とジェンダー」(牧野雅子著・インパクト出版会)だ。著者の牧野さんが連続強姦加害者(Y)へ長期間に渡り取材をし、刑事司法が性犯罪加害者をどのように扱っているのかジェンダーの視点から迫った、最強の名著である。その中で、Y自身が語った「強姦を犯している時」についての部分で衝撃を受けた。

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 Yは強姦をしようと女性を襲った際、狙いを定めて自分が襲いかかったにもかかわらず、被害者の存在に驚いたのだという。また、女性を拉致したり、女性宅に侵入した時、Yが彼女らの生活空間に侵入したにもかかわらず、彼女らがYの世界に入ってきたのだと語るのである (「刑事司法とジェンダー」より引用)
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 加害を起こしている側が『被害者のほうから俺の世界に入ってきた』という、普通に考えたら意味不明なYの言葉が、私が今まで見た、全ての「痴漢」の行動の説明として、成立していた。

 私にいやがらせをしてきた痴漢たちが、「捕まること、見つかること」をビクビク恐れているくせに、何の得があるのか分からない加害行為(スカートのひだをソーッとなでるだけ、とか)を自らしてくるあの感じ。犯罪をしているくせに、どこか確信のような自信のようなものを持っている感じ。こっちはあからさまに気味悪がっているのに、紳士を気取って馴れ馴れしいあの感じ。眉間にしわを寄せながらこちらが逃げると「えっ? なんで?」と、意外だ、みたいな反応をする感じ。自分が電車の揺れを利用して私の股間に手を伸ばしてきたくせに、こちらが「痴漢です!」と声を上げたら明らかに怒りを持った眼差しを向けてくるあの感じ。
 彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。ハタから見ると充血した眼で股間ふくらませて女の子に不自然に近寄ってるだけなのに、彼らの頭の中では女の子のほうが誘ってきてる、くらいの感覚なんだ。私を家まで送って欲しいとか、私に触れて欲しいと俺は頼まれている、くらいの感覚だったんだ。
 Yの心境と、今までの痴漢たちの不可解な言動が、あまりにも合致した。私はずーっとピースが見つからなかったパズルが埋まった充実感と、「ふざけんじゃねえ!」という怒りと、腹の底から沸き上がってくる気持ち悪さで、本を持ったまましばらく動けなくなった。 

 そのあと私は電車内痴漢に関する取材を重ねた。電車内痴漢加害をしている最中の者はやはり「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っていると感じた。自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうであり、なぜかその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えていて、そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ、それに沿って行動している。だから「相手の女性は痴漢行為を受け入れている。喜んでいる」と解釈したり、「電車の中で触られたがっているけど自分からは言い出せない女の子を触ってあげている」と親切心のようなものを持っていたりする。その行動自体は、まったくムチャクチャで一方的で意味不明なのだが、彼らの『膜』の中では矛盾がない。矛盾がないからこそ遂行できるわけだし、むしろこの「『膜』の中のストーリー」が無ければ、いくら発情状態の男でも電車内で見知らぬ女に触るなんてこと、できないはずだ。




これ自体への「なんか違うんじゃないのそれ?」感はおばけがまとめてくれてたこれでだいたい足りるように思う。


「膜」では「なぜ痴漢は痴漢をするのか」を説明できない - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2014/08/21/094116


「すべての妄想は必ず実行されるものではない」「妄想は自由(人の内心は自由)」はヲタにおけるロリ嗜好擁護とか想わせるけど、別の文脈繋がりそうなのでそこは置く。

自分もついったでこのあたりの違和感(特に田房さんがどぶろっくの「もしかしてだけど?俺に気があるんじゃねえの?」的なネタにまで過剰反応していたところ)についてちょろちょろ述べたけど、めんどくさいから掘らない。

たぶん、「痴漢するものが痴漢するのはそのものの主体的意志というよりはなにか強いられているような病気的なもの、中毒的なものであり、その感覚を表現したもののひとつとして『膜』という概念があるかもだけど、それで痴漢者すべての内的感覚 → 痴漢実行理由を説明できるわけではないし、それをもって男性を理解しようとするならさらに危険だ」みたいな話だったと思う。

ちなみに、いちおいっておくと自分は痴漢者を擁護するものではないし、痴漢という行動の合理性というか実際の効用が理解できないので甚だ非合理的なアディクションなんだろなあぐらいにしかおもってない。具体的にいうと電車で女性の尻だの乳房だの撫で回したとしてそれが生理的にどういう気持ちよさがあるのか?エロい気持ちになってその先にいきたくなってもだいたいにおいてセックスまでは持ち込めないだろうから悶々とするだけだろうし、、だとするとおっぱいパブ的なおさわり感の無料ラッキー程度のそれなのかもだけど、おっぱいパブも同様の理由でわからない。。(「行ったことないなら行ってみなよ案外おもしろいよ」とか言われたことあるけど前述の理由を言ったし、まあ「案外」というところで世の男性と別のところで面白みを見出すかも、ぐらいな保留)。

端的には、欲望がフェチ - 物象化し自らの内的エロスの充溢から離れ、「これはお得」「エロいものなんだ」という幻想のために触ってるのだろうな、ぐらいな理解。

グルメ雑誌の言葉に幻想されて、その言葉や値段的に「おいしい」という理知を遂行するけどほんとに実感として美味しいということを経験できているのか怪しいひとたちがいるけれどあれと似た感じ。


痴漢というのは世間で作られたステレオタイプ的な男性的エロに酔って、それが中毒になってオーバードライブしてるのだろうな、ぐらい。



そういう理解だったんだけどたまたまこれ読んでて、背景となるものについてのもうちょっと大きめな構造について説明があったので転載的にお報せしとく。いちおゆっとくけど「お報せ」であって自分はこの理解に全て首肯するものではなく「そういう見方もあるかもなあ。。まあわかりやすいし」ぐらい。なんか気になるんだったら自分で該当図書読んでみると良いと思う。(いちお言っておくと引用のためにタッチタイプするのも時間かかるしけっこう大変なのでそのへんの労力は推して知るべきだと思う)



ものぐさ精神分析―二番煎じ (岸田秀コレクション) -
ものぐさ精神分析―二番煎じ (岸田秀コレクション) -



人間においては、性欲は、何よりもまず、失われた自己を取り戻そうとする企てとして現れる。フロイドが人間の性欲の最初の段階を自己色情的と定義したのは、そのような意味においてであったと考えられる。すなわち、はじめから異性を求める衝動として現れる動物の性欲とは異なり、人間の性欲は、自己の世界閉じこもって最初の満足を知る。そして、この時期の自己とは、まだ対象と区別されていない自己であり、したがって、対象によって限定されず、すべてを含んでいた。個人の人格発達の過程、自己形成の過程とは、主観的観点から言えば、すべてであった自己、無限であった自己が、徐々にあるいは急激におのれの領域を失い、狭められてゆく過程であり、現在の自己の背後には、あるいは自己の一部となったかもしれない無数の挫折した可能性の死屍が累々と横たわっている。そして、かつて無限であった自己の世界のなかで最初の満足を知った人間の性欲は、これらの失われた自己を取り戻し、かつての全体的自己を再現するかぎりにおいてしか、ふたたび満足を見出だせない。



男または女になるということは、男または女としての自己を形成するということである。男性器をもった者に男としての自己が、女性器をもった者に女としての自己が自動的に形成されるわけではない。肉体的には男に生まれながら、自分は女であると確信し、その確信に合わせて肉体の方を女につくり変えようとして手術を受ける者がいることからも、それは明らかであろう。われわれは、人格発達の過程において、自分が男または女であると信じさせられてゆくのである。


われわれが、自分を男または女と信じるようになるためには、まず、周囲の人びと(主として両親)がわれわれを男または女と認め、男または女として扱い、そして、男とはいかなるものであるかについては父親(またはその代理)が、女とはいかなるものであるかについては母親(またはその代理)が、そのモデルとならなければならない。われわれは父(母)親と同一視して、父(母)親像をわれわれの自己の基盤とし、かくして男(女)としての自己を形成し、父(母)親のリビドー対象たる母(父)親をわれわれ自身のリビドー対象とする。これがいわゆるエディプス・コンプレックスである。



引用めんどくさいので省くとこもあるがこれに関わる仮説については以下で端的に箇条しつつ、それらがいくつかの仮説の連結であることに注意したい。

<人間は本能-性欲が壊れている>

<全的な自己が壊れた人間は喪われた半身(自己)を性行為に求める。個人に寄ってその手段が異なっているに過ぎない>

<全的な自己が壊れた人間の性欲の最初の段階は自己色情的、つまり本来自慰的なものである>

<その段階では女性も男性もなく、女性・男性などといった性別は自動的に形成されるものではない>

<そのため最初から幻想を持ってしか異性に対して性欲を抱けないし、幻想を元にして性行為に至る>

<それらの幻想と馴化を通じて人は男性・女性となっていく>


「本能が壊れた」人間にとって異性愛はヘンタイ的な特殊行為であり、一定の幻想を持ってしか成し得ない、ということ。

この「本能が壊れた」「本能」というものの定義自体が現在だと曖昧なのでそもそもこれらの仮説の根本が揺らぐところはあるし、それがゆえにか、それに連なる説に沿ったとしても現実的にはびみょーな不整合、違和感が現れることがあるのだけれど、それでも仮説として強力な説得力-説明範囲を持つように思う。


<エディプス・コンプレックスは男の子の初期のリビドー形成なパターンであり、リビドー対象が後に母親から他の女達に移し替えられていく>


これについては旧来のパターナリスティックで父権の強い家庭であればそういうこともあるかと思う。そういった環境では内向的で自慰的なセクシャリティの延長として母親があるのかもしれない。つまり幼児期に母親が自分の身体の拡張として錯覚されている(他と自の区別がつかない)ことの派生として、自慰的性欲対象の延長として母親がある、ということ。

そこでは母親への性欲は自慰の延長ということになる。

そして、自慰的異性愛の延長として他の女達を求めるようになる、、、ということなのだけれど。


これを女性に置き換えると論として破綻するように思う。

父親へのあこがれ、ファザコン的なものがあるとしても、それが幼児期の自慰的性欲の延長かというと「?」となる。幼児期に給餌をしている-乳房を与えているのは往々にして母親だから。


まあそんなかんじで軽い突っ込みどころはいろんなところであるわけだけれど論を進めよう。

(加えていうとこの段階での個人的興味としては以前から自分のなかにあった「喪われた半身を取り戻す」というイメージ-テーマ、「同性愛者の一般的な家庭事情として、父親がいないか離れていて息子に対して無関心で性格的に男らしくなく母親と息子との結びつきが極端に緊密(ヘテロなパターナリズムとその反発としてのヘテロ志向が発動しにくい)」、女性にとって男性器への執着-フェラティオは乳房の給餌的な面があるのではないか?的なことがこのあたりで関わってくるように思うけど置く)



人間の性欲は、失われた自己を取り戻し、全体的自己を回復した閉じられた世界のなかでしか満足を見出だせない。いわゆる正常な異性愛も、同性愛も、その他の性倒錯も、全体的自己を回復するための手段であり、個人によってその手段が異なっているに過ぎない。性対象とは失われた自己である。性対象は、われわれの失われた自己を、秘部として隠し持っている。われわれは性対象を誘惑し、彼が隠し持っている秘部をわがものとすることによって全体的自己を回復し、そのようにして築かれた幻想のエロス的場面のなかではじめて性的に興奮する。性交の際のさまざまの愛戯は、性感帯に生理的刺激を与えるためというより、性対象のもつ秘部をわがものにし、場面をエロス化しようとする試みである。いわゆる正常な異性愛の場合であれば、男が性的に興奮した男を演じ、女が性的に興奮した女を演じ、合体して一つの全体的自己を演出し、共同の閉じられたエロス的場面を幻想的に現出させなければならない。そのように演技しているうちに、実際の性的興奮が訪れてくるのである。



この辺りについて、自分はそういった興奮や演技から遠いのでたぶん彼女たちは(´・ω・`)というかキョトンとしたところがあったのだろうなあとかおもふ(そして後述するマゾヒズムにおける全的興奮との関連につながる)。





現代人の性が商品化された性欲にドライブされた惨めなものである理由、エロメディアに載ったわいせつで低俗で幼稚で薄っぺらでラグジュアリーとは程遠い惨めな性のシンボルに男性が群がり、またその男性的性欲に阿るように女性も惨めな性のシンボルを演出していく貧しさ、セクキャバでヌキが一本いくらとか、パチンコ屋の便所でどうとかな闇金ウシジマくんでいうニギニギニギニギ的な情況を男女ともに生きてしまう理由として。


人類が進化のいたずらによって自然な状態では生存できなくなったとき、それまでは必要でなかった労働が必要になった。人類の赤ちゃんはその養育にきわめて長い期間を要するようになったため、母親は、それに多大の労力を注ぐことを余儀なくされ、みずから生きてゆく能力を失った。
 したがって、種族保存をはかるためには、父親が子どもとその母親を養わねばならなくなった。男のなかに、このような労働へと駆り立てる本能などあろうはずもない。何をもって、男をしてそのような過重な労働をみずから進んで引受けさせ得るか。ここで、この目的のために、男の性欲が利用されたのだと思う。

(略)

男をして、本来はやらずにすんだ過重な労働を引き受けさせるために、男の性欲を遮断し、その対象である女の肉体を商品化し、商品価値をもった女の肉体を得るためには、それに見合う価値を生む労働をせざるを得なくしたのである。かくして、性行為は、両性の対等な欲望の発露ではなくなり、男にとっては、苦しい労働によって得たものを支払って獲得する快楽となり、女にとっては、男に養ってもらうために男に提供するサービスとなった。理論的には、逆に男の肉体を商品化し、商品としての男の肉体を得るために女が労働するという場合も考えられるが、人類の大勢はその方向に向かわなかった。妊娠と出産と授乳は、どう転んでも女がやらねばならないこと、女のほうが体力的に劣っていること、身体構造上、性行為は男が欲しさえすれば女が欲していなくても可能なこと、などが、男の肉体ではなく、女の肉体が商品化された理由であろう。
 人類の最初の集団である家族の成立、それを支える家族制度(婚姻制度を含めての)そのものが、女の肉体の商品化を基盤としていた。婚姻制度とは、男に、妻とそのうち生まれるであろう子供を養う義務を引き受けさせる代償に、妻の肉体を自由に性的に使用する権利を与える制度であり、いわば特定一者を対象とする売春である(もちろん、婚姻制度にはそれ以外の面もあるが)。当然のことながら、不特定多数を対象とする売春も婚姻制度の成立と同時に発生した。婚姻と売春とは、女の肉体の商品化という共通の前提に立っており、婚姻外で、すなわち容姿を養う義務を引き受けずに女の肉体を得ようとする男に何らかの代償を払わせなければ、婚姻制度そのものが崩壊する。




いわゆる原始段階からの性的役割分担の措定、売春って婚姻制度と同時だったか?ということでびみょー感あるけど、まあおーざっぱには理解しやすい。

端的には「男に働かせるために男の性欲-女の性が餌とされた」であり馬車馬の前に吊り下げられたニンジンということ。

現在でも「ふつー」の家庭における結婚と労働の関係とか見ると上記のようなことを想う。(ex.あいつはそろそろ身を固めさせよう - 結婚してると社会的信用が高まる)


一般的な男はこういった性のご褒美を目指して働く-出世する。

そして、そのご褒美を商品として消費する。

逆に、このご褒美が得られる - 憧れの女との性交が己が出世したり金や地位を得られることによって達せられるとそれに慣れ飽きてしまう → 女を消費し、離婚を繰り返し、高い慰謝料を払ってでも自分の出世欲-労働意欲をかきたて保持しようとする、ということもある。そしてそのような男たちが世間的には「有能」とされる。




人間の性活動の最初の形態は、男においても女においても、自己しか存在しない世界のなかでのいわゆる自己色情、マスターベーションであり、他者を発見してのちも、一個の主体的存在としての他者を求めるというのではなく、自己の一部としての、自己に従属するものとしての、言ってみれば、マスターベーションのための道具としての他者を求めるに過ぎない。自己というものをもつ男は、たとえ女と性交しても、膣を使ってマスターベーションをしているに過ぎない。人間の性活動の基本は、あくまでマスターベーションにある。
 人間の性的欲望が失われた全体的自己を回復しようとする企てであるかぎりにおいて、この全体的自己のなかに二つの主体はいらないのである。邪魔なのである。動物の雄と雌との場合のような、自然な関係のなかでの自然な性活動は、人間においてはもはや失われてしまっている。自己というものを確立し、自己という幻想に執着する人間の場合は、性対象をおのれの欲望の対象としてとらえることしかできない。対象とは、ものであり、おのれの快楽のための道具であって、主体ではない。



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それでは、性対象として他者を求めず、自分一人でマスターベーションをすれば、他者に私を物化さえる危険もなく、性的満足が得られるかというと、そうはゆかない。限定された自己が一人でするマスターベーションは、全世界が自己であったときのマスターベーションとは異なるからである。他者は自己に従属せず、男のところに厳として存在しており、自己は、他者に拒絶された貧困な、孤独な、限られた自己でしかなく、そのようなマスターベーションでは、生理的快感はあるかもしれないが、全体的自己の回復によるナルチシズムの高揚にもとづく深い情緒的満足は得られない。人間の性的満足にとって、生理的快感は本質的なものではない。
 したがって、性的満足を得るためには、私は、主体としての他者を必要とし、その結果起こる他者の主体との衝突を解消するため、いずれかの主体を消し去らねばならない。他者の主体を消し去ろうとするのがサディズムであり、私の主体を消し去ろうとするのがマゾヒズムである。いずれの主体を消し去っても、その目指すところは同じであり、とにかく、他者と私とがいる場面のなかで一つの主体のもとでの全体的自己の回復が演じられればよいわけである。サディズムとマゾヒズムとは、一見正反対のようであるが、全体的自己の主体を自分の側にとどめておくか、相手に付与するかの違いしかなく、マゾヒストが相手に付与した主体は、あくまでマゾヒスト自身の主体であって、相手その人の主体ではない。マゾヒストが相手を一個の主体的人間として尊重しているのでないことは言うまでもない。マゾヒストは、自分が書いた筋書きにない仕方で相手に侮辱されれば、本気になって怒り出すであろう。




個人的にいくつかの場面が想い出される。

「マスターベーションのほうが生理的快感としては上なんですけどね」といったときの彼女たちの「(´・ω・`)」とした表情。

マゾヒストの彼女の満足というのは彼女自身も説明しにくいものだったようだけどこういったものだったのだろうし、自分はそういった幻想、性的場面における全的なものへの指向が彼女が求めるものとは異なっていたのでうまくリンクできなかったのだと想う。

そして、たぶんそのような幻想は男性のステロタイプ的な性的指向、加虐性がオーバードライブした性向の女性版ということになる。女性版というか、受動的役割を担うほうの幻想。

前述もしたけれど自分は性的場面においてもそんなに興奮に身を任せることがないので。むしろ冷めてしまうし、そこに悲しみと慈しみのような感情が生まれる - 「なんで、そんなにやさしい顔でみるの?」







そういう感じ。


最初にあった痴漢における「膜」というリアリティはこういった自己の主体とは別に強いられている指向性であり、それらは人類の労働-性欲の構造から設定された性欲の指向・幻想がオーバードライブしたものといえる。その界では女性は商品として加虐的に苛むことがコード的に是とされるので彼らはそれに従ってるだけなのだろう。なので、その場面における彼ら自身の生理的快感は貧困なものである、のに対して、幻想的快感はみょーに高まっているのでそういった状態に至っていない他者からするとキョトンとするような、説明しにくい情況が発生する。


痴漢までオーバードライブしなくても一般的な世の男性の性欲と性指向は商品化された性指向のリストにしたがって加虐性を内包する。

男性のステロタイプ的な性指向 - 嗜好を恐れる女性たちはそこに含まれる加虐性を感じ取り、ステロタイプ的な女性(被虐を甘んじて受けるのが女性のあり方)という幻想に自己を押しつぶされないために対抗言説をもってその加虐性に抗おうとしてるのだろう。あるいはそういった幻想をもった男性たちに依る直接的な性暴力への抵抗。

それ自体は強いられてるもの / 押し付けられてるものに対する自衛ともいえるけれど、そこには対抗的加虐性が含まれるので行き過ぎてしまうとなんか変な感じになる。

ステロタイプエロ男性 - 「変な人」 に抵抗しようとしてるうちに自分たちも別の意味での「変な人」になっていく。ステロタイプ男性に対する言説、抵抗としては有効なのだろうけど、特に多孔的にいろいろな文脈から糞リプがつくSNS時代、そういった文脈を読まずにみょーな反論がついてめんどくさいことになったり…。あるいは彼女たちが公共の場という意識なく限定された男性理解を一般的な男性理解として流してしまうからかもしれないけれど。


繰り返しになるけれど、彼女たちの男性やセクシャリティ理解というのはそういう形で最初から偏っていて、それは偏った性指向に対抗しようと作られた歪な器、凸と凹なのだろうから仕方ないというところがある。



当事者研究においてサバイバーの特殊なリアリティ、セカイ認識を許容し、頭から否定しない態度がおそらくは基本となるようだけど



最終回 症状 ― それはすでに一つの解決である■大澤真幸|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
http://t.co/7kwijxu4v3


そういった認識はやはり世間一般 - 公共の理解(コード)とは別のもので、そういった認識にそって世間一般を語るのは間違ってるように思う。

ただ、彼や彼女たちが生きていくための限られたセカイの認識と言葉、幻想としては有効だろうけど。


岸田秀あたりだとそういったものが過剰になってしまったひとたちをして「神経症的ですね。分裂病ではないけれど」と即断するだろう。



自分的にもそういった傾向はあるせいか、そこで「ビョーキ」とラベルされ割り切られ差別されるのはちょっと嫌だなと思うんだけど。


それらは蟲師における蟲が見える人たちと似てる。


案外と、彼らの見るセカイのほうが真実のそれで、でも、それはやはり妄想かもしれなくて…

そんなことはどうでもよくて、「見えて」も「見えなく」ても、そういったモノたちをあからさまに否定したり肯定したりもせず、ゆったりと共存していけたら


蟲師 (3)  (アフタヌーンKC) -
蟲師 (3) (アフタヌーンKC) -

蟲師(9) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -





(ギンコの左目の残照を想いつつ)


























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関連:
女も男も怖かった - c71の一日
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/12/20/000144

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