2014年12月09日

イノセンス




孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。



生死の去来するは棚頭の傀儡たり一線断ゆる時落落磊磊



寝ぬるに尸せず。居るに容づくらず。
未だ生を知らず。焉んぞ死を知らんや。
理非無きときは鼓を鳴らし攻めて可なり



人は概ね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。



個体が創りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型。




人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である



いかに泰子、今こそは しづかに一緒に、をりませう。





バトーは生きた人形である
腕も脚も
その身体のすべてが造り物
残されているのはわずかな脳と
ひとりの女性の記憶だけ







「2501」…それいつか再会するときの合言葉にしましょう






























ついったでなんとなく女性的義体の話をする。

前段階として自分のセクシャリティや感性が世間一般的な男性のエロ(メディアで作られるそれ)と違ってきていて、というところがあったのだけどそこは今回語りたいことでもないので省きつつ。

理性的、合理的に考えれば性別、セックスというのは邪魔で不合理なもので、それを自分でhack出来るようになれば性別のない身体を選ぶのが合理的だろう。そこから考えれば現状、男体も女体も不合理なもので、それぞれがそれぞれに無駄な突起を持っている。性的に不格好な突起。

人の文化はその不格好さを却ってセクシーなものとして加工してきた。

女性器にそれは顕著で、准女性器ともいえる乳房をめぐる表現というのはそういう感じ。ここでわざわざ西欧社会における乳房の強調文化が生まれた過程、そこから順に「グラマラス」「セクシー」「トランジスタグラマー」なる性的表象が生まれていった過程は省くけど。

男性器にもそういう傾向は在ったけどアフリカあたりでとどまり西欧社会→現代社会に拡がらなかったのは男性中心の消費社会と消費の対象としての性-女性の関係かなと思う。これも今回の主題とは違うので省く。














自分は自由に身体、義体を選べるのであれば合理的には無性別の身体を選ぶだろう、けれどそれだとおもしろくない-遊びがない、ので遊びのために性別を残すかな、とも思う。

攻殻機動隊の主人公草薙素子がわざわざ女性のフォルムを残した、そして漫画版では女性的性感を残したのは、漫画的なご都合、あるいは作者が単にそういうプチエロを描きたかっただけという事情を除いて「そこに素子の主体的で合理的な意志と選択があったから」と仮定したとき「素子にも似たような感覚が在ったからかな」と想わせる。すなわち「無駄と余白として性を残した」ということ。

元からサイボーグである素子の感覚、人生観とは少し違うのかもだけど、完全な身体、性や痛み、快楽といった「無駄」をなくした身体と言うのソリッドステートならぬ有機体の脳では発狂するところがあるのかもしれない。このあたりの理屈はよくわかってないけれど、幻肢のときの感覚-機構とも関係するのかなと身体論とか思いつつ。

有機体としての無駄-多様性のよすがとして素子は性-セックスを残した。

感情もそれに準ずるものなのかなと思う。そして恋愛感情も。

バトーが素子に寄せるそれは世間一般の恋愛感情という括りからするとそんなに単純なものではないのかもしれない。

「イノセンス」はバトーを介した「ゴドーを待ちながら」であり、ネットにつながり完全体になってしまった/なってしまう手前の素子を通じて「ひと-ひとのたましい(ゴースト)-こころとはなにか?」を問うことが大きな主題となっている。

だからバトーが待っているのは一人の恋愛対象としての人格としての素子という女性というだけではなく、神-完全-永遠の象徴とも言える。

しかし、この映画が切ないのは、その永遠をバトーが望んでいないところにある。

素子が神、あるいは神に準ずるものとしてネットに完全に融けること、バトー自身もそこに融けることは合理的には救済といえる。しかし、バトーはそれを選択しない。

一人の女として、あるいは「女」という性は関係なく素子そのものに留まって欲しいから。しかし同時に素子が求めるところに行かせたい/行かせるべきという自律もある。

そういった感情面でのアンビバレンツのみならず身体も肉の体とキカイノカラダの中間という両義性、中途半端さを抱えているのがバトーという存在で、その不格好さ、不器用さに男性的な無骨な愛情を感じて切なくなる。

神の定めた完全の依代-人形-傀儡として生きる、のではなく、不格好でも自立して歩くということ。

そして、おそらくその愛も恋愛感情として報われるものでもなく、そのことをバトー自身が是しとしているのだ。


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小林/秀雄 (講談社文芸文庫) -
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これは、ある意味では、彼が「他者」を求めようとしたことからの、当然の帰結であったかも知れない。かぎりなく自由であるべき「純潔」な「個人」となったとき、不毛な喪失感に噛まれつづけねばならなかったことを彼はすでに識っている。

しかし、

彼の周囲には「秘密」の重みを識った「他者」はいず、彼の言葉は対話に構成されることがない。このようなとき、人はその孤独の代償として、架空の有機的な体系を求めねばならなくなるのである。
日本の「近代」が「伝統」に接合する事情がここにかくされている。

あるいは、

そこで個人主義者が政治的に保守派に傾かねばならぬ事情がここにある。




中也の奔放で呵責のない純潔-自然に対して小林秀雄がランボオを経てたどり着いた純潔と自然。

そこではまず神は死に、それに準ずる他者は居ず、対話の縁を喪った彼の言葉は真空に投げ出された。

その孤独の代償として、小林秀雄は日本的伝統の保守へと回帰していった。


バトーと素子、あるいは我々、デジタルエイジが見る夢は、そういった伝統も故郷の宛として喪ってしまったのかもしれない







それでもなお

そこにはまだわれわれなりの純潔があって

そこからなにかが

はじまるのかもしれない

















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関連:
是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html


posted by m_um_u at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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