
闇屋になりそこねた哲学者 (ちくま文庫) -
少し前に木田元さんが亡くなって、「ちゃんとよんでなかったなあ」てことでなんとなくそれぞれの人の紹介読んでたらこれが引っかかったので読んでみた。
「絶望から立ち直るための答えをハイデガーに求めた」
ここに興味をもったので。
その期待はけっきょく叶えられなかったけど、それ以外のところがおもしろかった。
木田さんのご家族(特にお父さんの博覧強記ぶり)と戦争体験(満州、海軍、食い詰め闇屋、やんちゃ学生時代のはなし。
「闇屋で喰ってこう」ぐらいの腹づもりで、学校に入り直したのも当初はヤクザな生活の「休暇」程度の予定だった。でも、ドストエフスキーとの出会いからソッチのほうにハマりだした。
「ドストエフスキーの登場人物はみな絶望している。絶望しているから悪に走る」
そこに共感を覚えた。木田さんだけではなく当時の多くの若者がそういう感覚だったみたい。
ドストにハマってるうちにヘーゲルが、あるいはその軸のキルケゴールの言ってることがわかるようになった。「ドストエフスキーが描いてるあのあたりのことではないか?」
そして、ハイデガーが基軸としているのもそういったものだったみたい。
彼らは時代の変わり目で生活の困窮や人生のあてどなさに投げ出され絶望していた。
絶望的情況のなかでただしく絶望する方法を編み出していった。
そう、「ただしく」「絶望する方法」
たぶん絶望にも様式のようなものがあって「ただしく」絶望できないとなんかカタルシスしないところがあるぽい。
悲惨というのはその物量的なものなもので比較できるところがある、不幸自慢できるようなところがあるのだけれど、、(ex.「あなたは○○ていうけどわたしなんか△△に○○でさらに◎◎で」)
それを悲惨として感じるやり方というのは人によって違って、それによって悲しみの在り方も異なってくる。
泣き方がわからない/わたし、悲しいのに泣けない/泣けなくなっちゃった
わたし、死にたいのに死ねない....
それは怒り/恨みを落ち着かせていくやり方にも似ているのかもしれない。
敗北/悲しみ/怒りを抱きしめて
「存在と時間」を読んだら哲学なんかやめよう(哲学なんかで飯が食えるわけない。いざとなったら闇屋やればいいし
そういうつもりで始めた文学-哲学だったがずっぽりとハマってしまった。
しかしなかなか読み進めない。読まなければならないテクストは目の前に山積しているのに。
そういうときの焦燥感や絶望感を語学が救ってくれた。
一日12時間勉強した。
勉強はまる覚えを基本にして、それをルーチン化したら苦ではなかった。
語学をやってると「着実に力がついてる」という実感のせいか精神的に落ち着いた。
この本を読んでいると自分も勉強したい/本を読みたいという気分がもたげてきた。
特に、pp73-167
6.勉強したくなった
7.東北大学で
8.『存在と時間』をはじめて読んだ頃
9.ハイデガーへの回り道
10.先生たち
11.ハイデガーがわかる
12.現象学とはなにか
やはり手元に置いておいて、たまに読み返したいと思う(いまはアマゾンなんかで絶版だけど
西田幾多郎、小林秀雄、吉田健一あたりのそれにもさっさと還りたいものだ(「暇」を作らんとな