よくない呪いなら解いたらいいんだよ。真実の愛とかそういうので。そういう冒険譚、たくさんあるじゃない
槙野さやか
結構前にアマゾンで見かけて気になってたんだけど、そのときは時機でもなかったのでウイッシュリストに入れていて忘れていた。けど出会ったのでなんとなく読んでみた。

アカシアの道 -
いつもどおりネタバレ含みつつ言えば、構えていたほどにはキツイ話でもなく中盤以降はむしろスルッと読めた。
それでも全体のモティーフ-テーマとしては<母-娘の女の確執がある情況において「女性」を抑圧され押し付けられてきた娘が母とどう向き合っていくのか?>という話題でありふつーに重い。簡単にいえば母が娘には地味に育つように言っておきながらいわゆる結婚適齢期が来ると「あんた、まだ男もいないの?」と言ったりするような。
「お母さん、わたしが赤いパンツ買ってきた時にはあんなに叱ったのに自分は持ってるし、弟にはやさしいのね」
潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編 (アスペクトコミックス) -
そして母の呪いをそのままに受けて育った子供は抑圧され、ともすれば大人の女性として軟着陸できなくなる。
ハードランディングとしては抑圧をバネとするように逆にセックスに奔放になり、異性との交わりの中で自分を削っていったり。逆に自閉的に「女性」の機会を閉じていったり。
いわゆるアダルトチルドレン的情況。
「アカシアの道」では地味子ACとして育った主人公がそれでも実家から離れ、就職して独立し恋人もできてそれなりに人生の階段を上がっている、、と思われた矢先に生じる事件から人生のレールが踏み外される。そして自らの人生、母−自分-父の関係と来し方を振り返ることとなる。
『並みのホラーよりもホラーだ』と巻末に書かれていた「事件」とは母親の痴呆-アルツハイマー。それによって主人公に依る介護が要請される。毒親からやっと離れられたACにとってこれ以上リアルに背筋を寒くさせるホラーはない。
呆けた母親を診るためには仕事をそのまま続けるわけには行かず、いままで就いていた仕事はパートタイム状態になる。
そして母と向き合う中でかつての厳しい母の面影と現在が重なり、過去に押し付けられてきた矛盾がフラッシュバックされていく。今度は叱る役を自分が引き受けつつ。
子供化した母親の世話をする中でイライラから毒親的な叱責をしてしまい自分に幻滅する主人公。
「ACの子はAC。その連鎖は継がれていく」
そんな言葉も頭をかすめる。(このまま子供を生んでいたらそうなっていたのかもしれない
中盤で主人公は母親の介護のなかで精神と体力を削られ男に救いを求める。
ひとつは「結婚」として、もうひとつは過去の「男」、母が離婚した父親と何年かぶりに会うことで。
しかしどちらも男たちの薄情と臆病、卑怯に裏切られる。
恋人は臆病で父親はヤサシイ卑怯者だった。
父親と別れる直前の場面で主人公が「この人は卑怯者」と幻滅した心理。これは最初わからなかったけれどしばらくして分かった。母親や娘の近況を尋ねつつ、娘の嘘を突き破って踏み込んでくる義のようなものが父親にはない、あるいはあってもそこを巧妙に避けている(自分が避けていることさえ気づかないほど自然に避けている)。だから「卑怯者」なのだ。
「娘の嘘が巧妙で見抜けなかった」としても幼い頃に離婚して以来会ってなかった娘が突然尋ねてきたのだから「なにかあったか?」と思わないほうが変なわけだし、それができないのは元からその程度のヤサシさだったということなのだろう。
ただ、そこでも主人公は、父親を一方的に断罪するのではなく、「わたしは嘘つき」としている。
「わたしは嘘つき、、このひとは卑怯者」
その感情の直接の背景はこのときの父親の踏み込みの甘さ、というよりは父と母の離婚の真相にある。
父と母の離婚の原因はもっぱら母の代理(契約)結婚的不満にあり、そのイライラと違和に父の居所がなかった → 他所に女を作ったことにあった。
母はかつて父とは別に愛する人がいて結婚まで考えていたのに「働き続ける女は無理だ」ということで結婚はなくなった。
理由としてはほかにもあったかもしれないけれど母は破断の理由をもっぱら「働く女」というところに求め、自分の性格や生き方を変えようとしなかった。
そして「仕事は続ける」ことを条件に父と結婚した。
おそらく気持ちとしては未だ前の婚約者の元にあって、その愛憎が仕事、教育者の自分というプライドにすり替えられ、いびつに自我を形成していった。
「先生」としてほかのコに接する母親はやさしく理想的な教育者であったが裏に回って娘と二人だけになると度を越して厳しく、暴力的に自分の理想を押し付け、グズな娘に現在の結婚相手である父親を投影した。
代替し投影し歪んだ…
この話には直接関係ないけれどいくつかの場面が頭をよぎる。
かつて本当に結婚したかった相手との結婚が叶えられず自暴自棄的に結婚し、結婚相手の愚鈍さを呪う人とか。
「寝ている姿が父親のようだ」「あんたはそのままじゃお父さんみたいになるよ」「あの人と関わるんじゃない」と父親に関する呪いの言葉だけを聞かされ続けて育った子供とか。
自分の叶えられなかった夢を娘に投影してスパルタ教育、あげくに「あんたには才能がない」と切り捨てていく母親とか。
アダルトチルドレンの呪いの連鎖
「親子のかえるだよ」と差し出された手

家族のそれから (アフタヌーンKC) -
父(母)親を愛そうとしても愛せなかった子供。子供を愛そうとしても愛せない母親
かえるの子はかえる、ACの子はAC…
家族というのは、、特に血縁家族なんてのはくだらない因襲に過ぎないように思っているけれど、同じ空間、同じ時間を一緒に暮らしたということ、その歳月はそれだけの重みを持つ。
その重みは時として呪いのように重なっていって、その呪縛から自分も逃れられないように想ったり…。
でも、
その呪いを解けるのも「家族」だったりする。
例えば恋人であったり結婚相手と成るようなパートナーだったり。
あるいは恋人や結婚相手とならなくても良いかもだけど、ひとに語ってもなかなかわかってもらえなかったことを共有できるような、あるいは理解してもらえなくても共に抱えていけるような‥。
そういう人との出会い、長い付き合いを通じて新たな「家族」が生まれる。
そこでわれわれは新たな物語-呪いを作り、それを元に「家族」を再構築していく。
「アカシアの道」の終わり方もそんな感じだった。
もちろん恋人的な人や、そういった「語れる相手」が見つからない人もいるかもしれない。
でも、悪い呪いを抱えて頑なになる前に、こういったことに少しでも気づければと思う。
「世の中に元から悪い人なんかいない。ただ、みんなちょっとズレて頑なになってるだけなんだ」
「言葉がそれを形作り、プライドがそれを塗り固める。ただ悲しんでるだけなのにいつの間にか怒ってたり。そういう人たちの色を見て、わたしはなんだか変だなーって思うの」
かつてあの人が言っていたように、人はもっと単純な、あるいは単純でありながら複雑なもので、それは言葉だけでは測れない様々な色や味、音を持ってるのかもしれない。
この話を読み終えたとき、ちょうどこの歌が聞こえた。
Oh Shenandoah, I long to see you,
ああ、シェナンドー あなたをもう一度この目で見たい
Away you rolling river.
うねり流れる川よ
Oh Shenandoah, I long to see you
ああ、シェナンドー あなたに会いたい
Away, I’m bound away ‘cross the wide Missouri.
私は広大なミズーリ川を渡って 行かなくちゃいけないんだ
故郷の川への想いを歌った名フォークソング 『Shenandoah(シェナンドー)』 を聴き比べてみる
http://nerino.net/blog/2013/06/14/shenandoah/
「アカシアの道」、というか母娘(親子)の愛憎というテーマでは最後に母や父を赦せるかどうか、赦しとはどういったものか?(どこでそれぞれに納得できる赦しが訪れるか?)ということについて説得力を積み重ねていくことが「仕事」のように思うけれど、とりあえず本作では決壊寸前だった母娘のダムに水、別の道が入り川となって流れていった。
それははっきりとした答えではなく、またこれもひとつの偶然的場面や選択にすぎないのだろうけど、、でも、こういうのもアリかなとおもった。
あと、たまには川を見てぼんやりしよう
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