2014年10月18日

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語


善への愛にうながされるまま、苦しみの待ち受ける道にふみ入り、一定の期間がすぎたあと、自分の力の限度に達し、身をもちくずす人々の悲劇。










最近ようやく「叛逆」見た。



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アニメ単体としてはオープニングから力が入っていて「プリンスアンドプリンセス」的な影絵のリリシズム−女の子の夢のお伽話的な舞台装置自体がかわいらしくきれいで、それそのものとして気持ちよかった。

プリンス & プリンセス [DVD] -
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なので特にいらない感想も必要ないかなと思うんだけど、別件でリンクしたのでちょっとついでに(お出かけ前の時間つぶし的工作活動として。



全体がそういう構成になっていたのは「血だまりスケッチ」とも通称されるまどマギシリーズに対する救い的な意味合いもあったのではないかと思う。ユーザーへの刺激を弱めるという以外にも。

作品に対する救済、あるいは、ほむらちゃんの救済、それがこの作品の目的だったのだろうし多くのファンもそれを望んでいたかなあ、と。



ストーリー自体の説明はめんどうなので他人様に借りるとして


※解説

http://t.co/8HukizSigV



「けっきょくまどか☆マギカという話は徹頭徹尾ほむらちゃんの話だったのだなあ」ということ。

あるいは「魔法少女とはなにか?」ということに還る。


ほかでもギロンされてるのだろうけど、魔法少女というのはいわゆる女の子向けアニメの中で「戦わない主人公」という設定の中で作られていった存在のように思われる。なので初期の魔法少女ものだと戦うということについての直接的、間接的リンクがあまり貼られてないのではないか?あるいは「悪い敵とたたかう」といういちおうの設定にはなっていても「魔法」がクッションになることで少女たちは敵を斃さなくて済む。魔法がそれを間接-解決してくれるから。

「戦っているのに戦ってない存在」

そういった矛盾を抱えた存在が魔法少女だった、ように思える。


それはそのまま女の子の女性性をめぐるジェンダーロールの引受け的な象徴へとつながる。


現実の女の子たちにとって「たたかう」が意味することは多岐に渡るように思われるけど、例えば、「会社、男社会的なステレオタイプ」「母親からのステレオタイプ」「自身の肉体の変化」などといった自身の意志とは離れているの自身に干渉してくるものたちと彼女たちはたたか(抵抗)しなければならない。

たたかう-抵抗-あるいはそれを受け流したり、ゆるく引き受けて「女性」と成って行く。



魔法はそういった少女たちを戦いの直接性-現実から遠ざけてくれていた。



それがより「たたかい」的な要素を絡めてきたのはセーラームーンあたりからなのかなと思うのだけれど。。(そしてプリキュアへと系譜する)




魔法少女という存在はアイドルにも近い。


アイドルも女性性を巡った闘争のはざまにあるもので、いわゆるミスコン的な観点からするとナンセンスな商業論理による女性の性や主体性の搾取であり打倒スベキ存在ということになるのだけれど、平成を通じてアイドルたちは自らをアイドルであることに投企するようになったように思える。オトナたちの金とセックスと欲望を受け容れつつ、それに堕することもなくキラキラを提供する、というような。

ゲイの人たちの中にベタベタのアイドルを好む人たちがしばしばいるのはこういったところ、女性であることを投企的に愉しみつつそれをショーとして成立させている、というところに性別や性指向をめぐる闘争を超越した痛快さを感じるからではないかと思うのだけれど、、まあそのへんは未だ確かめてないから保留するとして。。(また話が逸れたし



アイドルも魔法少女もそういった性をめぐる闘争から女の子を夢のキラキラへと誘ってくれる側面があった。



翻って「まどか☆マギカ」はどうだったか?




そこでは本来、闘争から遊離させるためのギミックだったはずの「魔法」が少女たちの血や涙、直接的な悲惨へとつながる装置として機能してしまっていた。


「それは全部キュウべえ≠エログロ観測出歯亀オトナのせいだよ」てのもあり、作者であるところの虚淵玄もそこに含まれるという自虐・自認があるのかもしれない。



なので本作ではキュウべえは最後でコテンパンにのされ、死すらも生ぬるい飼い殺しを与えられていた。


また、オープニング周辺のポップでお菓子くリリカルな表現というのは魔法少女的な夢への回帰を予感させた。



作品が進むに連れけっきょくはそれも血にまみれていったわけだけれど、でも、いままでのシリーズほどに悪趣味な露悪と観測を目的としたものではなく、どこまでも全体を少女の夢でコーティングしていたように思えた。あるいはそれはじっさいの少女たちの感覚とは異なった「少女の夢」という幻想にすぎないのかもしれないけど。





まどか☆マギカにおいて、少女たちが戦っていたものは魔女=女性性の昇華に失敗して妖怪化した女性たちだったし、それは少女たちの未来を予感させるものだった。魔女の返り血と断末魔は呪いとなり、彼女たちとのたたかいの中で磨かれた矛や剣は少女たち自身を貫いた。

現実世界ではそれらは言葉の刃となって彼女たちを貫いていったのだろう。


家族やともだち、ときには自分自身を。



ほむらちゃんの魔法能力、時間停止はそういった少女たちの武器の中でも象徴的であったように思われる。


その能力が永遠に発動している限りは彼女たちは少女のままでいられるのだから。




「叛逆」においてほむらちゃんが自らの繭にとどまることを選ぼうとしたのはその意味でも象徴的に感じられた。


それは「まどかに障らせないため」「まどかに障るぐらいなら、あたしは永遠にここで呪いの言葉を吐き続ける」という愛と潔癖の結果だったとも言えるのだけれど、その愛は少女らしい潔癖-正義に支えられたものだったということをほむらの最後の選択が示す。



「正義や世界の安定よりもあたしはまどかと一緒にいたいの(たとえ神や真理に背き、世界が滅びても)」




陶然と謳う悪魔の目には永遠を微笑み続ける愛人の姿が映っていた。









それは物語的に美しく、「ほむらの救済」という面では十二分にカタルシスを得られるものだったけれど、おそらく現実のほむら≠同性愛や叶わぬ恋の日常を生きる人たちは悪魔化もできず繭の中でとどまり続けるのだろう。


「まどか☆マギカにおける男性の不在」「フェミニズム的正義ほか正義の言説とそこから溢れる人たちの問題」など関連して語れることもあるけど、その現実を思えばすべてが冗長に思える。



彼や彼女たちの孤独と哀切を想ってこのエントリを閉じよう。








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関連:



誰かを被害者・弱者として単純化して語る語り口というのは、共感を呼びやすい。つまり、「AV女優は被害者だ」ということを強調する物語、論旨はウケやすく広がりやすいですよね。私も『漂白される社会』(ダイヤモンド社)で社会的弱者が集まる場所を取材したり、被災地の問題などに関わるなかで、しばしば「弱者への配慮」の言葉に出合いますが、その弊害を感じることも多かったです。端的に言えば、見えない第三者を持ち出してきて「この人は被害者・弱者である」と指摘する行為が、それを主張する人が自ら権力を獲得することと表裏一体であるのに、それを多くの人が意識しないという問題です。

つまり「誰かを被害者・弱者として単純化して語る」ことで、それを語る人間は、自らが正しい側にいると優位な側にたったかのように錯覚し、その周りは黙らざるを得なくなる。そこには、本来、単純な被害者・弱者と語るだけでは足りない複雑な第三者である「誰か」がいて、その「誰か」について語られるべきことを語れなくする構造が生まれます。その結果、全員「思考停止」になってしまうわけですね。思考停止になった結果、現場不在の議論が、あたかも現場を代弁する正しい議論であるかのように流通してしまう。これは、さまざまな被災地に起こっている問題、差別問題やケアの問題などの根底にたたずむ大きな問題です。



自ら語ることで女の子は「AV女優」に変わる 彼女たちはなぜ、AVの世界を選んだのか【社会学者・鈴木涼美×社会学者・開沼博】|対談 漂白される社会|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/60436


漂白される社会 -
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モノラルセカイ - スガシカオ - 歌詞・動画 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/movie/172242/

posted by m_um_u at 10:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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