2007年05月02日

九鬼周造、1930、「いき」の構造

「いき」の構造 他二篇
九鬼 周造
岩波書店 (1979/01)
売り上げランキング: 2718



 さっき読み終わった。んで、結論というかおーざっぱな感想として。

 これっていま話題の非モテとか非コミュとかそういうの全部ぶった切れる考え方なんじゃないの? なんか相互承認圧力とか同調圧力みたいなののかわし方みたいなのも書いてあった気がしたし・・。あと、非モテの中でも「モテたいけどモテない」系の人たちの悩みの「甘え方」というか「隙の見せ方」みたいなのにも触れてたし・・(いわゆる「モテ仕草」)。で、そういったモテ仕草をしてもわざとらしくないようにするためにはどうすればいいか?、ってのが粋の極意っていうか美学。

 こういうのが生まれたのって日本は昔から(というか昔のほうが)異性間コミュニケーションの盛んな国だったからかなぁ・・それで色恋の些細な部分まで分節化して概念(名前)が付いてるんだよなぁ。まぁ、「なんで色恋が盛んになったか」、はまた別の話なんだろうけど。


 っつーか、個人的には「御家人斬九郎」に全てが詰め込まれていたように思うんだけど・・とりあえず、以下だらっと書評のようなものです。


青空文庫:九鬼周造 「いき」の構造



 まず、はじめのほうで<「いき」とはなにか?>ということについて。これは結局、差異とか類似の中で決めてくしかないので、「粋じゃないもの」とか「この場面のこの行動は“粋”って言われてるよね?」みたいな感じで扱ってくしかないわけで、その辺のところは九鬼も最初のほうでお断りしてる。

我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。すなわち、「いき」を単に種(しゅ)概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索(もと)めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得(えとく)」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである



 で、そんな「粋」なわけだけど、これは日本語圏(特に江戸?)の特殊概念みたいで、フランス語の「esprit」に当たる言葉がほかの文化圏ではないように「粋」という概念に当たる言葉が他の文化圏にはない。「sickとかけっこういい線いってる感じがするけどなんかびみょーに違うよねぇ」、と。

 その違いがどの部分から出てくるかというとどうも武士道とか無常観に繋がるみたい。うたかた的無常観と武士道的諦観があるので「粋」ってものが光り輝いてくる、みたいなの。

 まぁ、なんのこっちゃ?、って感じなんだけど、ぼちぼちみていこう。


 その前段階として、粋の構成要素として「媚態」ってやつがある。異性との関係(いろごと、いきごと)において、双方が甘えというかアプローチがかけられやすいように隙を見せる例のアレだ。

 まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。なお「いきな話」とか「いきな事」とかいううちには、その異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる。


 現代風に言うとモテ仕草とかモテのためのサービスというか意識というかそんなのが当たるように思う。

媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定(そてい)し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。


 相手が自分に求めているであろう「異性らしさ」みたいなのを演出するのが「媚態」と。「上品」過ぎるとこの甘え(隙)の部分がなくなってしまう。

 で、そんな媚態(モテ仕草 / 意識的「甘え」の表出)は、粋な関係の終了とともに消えていく

そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂(と)げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。


 そういった関係の(一応の)最終的な目的である「合同」が遂げられてしまうと異性間の緊張関係は消えていってしまう、と。要するに寸止めの美学な訳だが、もうちょっと言うと中庸の美学といってもいいように思う。過剰と過不足の2つの極点があるとして、その間の位置でバランスをとってゴールにたどり着かない緊張感を愉しむ(終わらないゲームを愉しむ)という要素が、「粋」の性格としてまず挙げられる。

媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。


 それで、このゴールにたどり着かない間隔については、たどり着きそうなのにたどり着かないぐらいのバランスがちょうどいい、と。(斬九郎的には蔦吉と斬九の関係とかがモロにそれ)



 んで、次に「粋」の構成要素として挙げられるのが「意気地」。「粋」は「意気」である、と。具体的には江戸っ子気質的な気風のよさとか、武士道的な潔さがそれに当たる。

意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児(えどっこ)の気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋(きっすい)」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消(まちびけし)、鳶者(とびのもの)は寒中でも白足袋(しろたび)はだし、法被(はっぴ)一枚の「男伊達(おとこだて)」を尚(とうと)んだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳(たつみ)の侠骨(きょうこつ)」がなければならない。


「いき」のうちには溌剌(はつらつ)として武士道の理想が生きている。「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」の心が、やがて江戸者の「宵越(よいごし)の銭(ぜに)を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴(け)ころ」「不見転(みずてん)」を卑(いや)しむ凛乎(りんこ)たる意気となったのである。


 それだけだと「男のマロンか?」ってことになって甘々な感じなんだけど、江戸の遊女的な客選び(「武佐(野暮)お断り」)みたいなのもここから来た

「傾城(けいせい)は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓(くるわ)の掟(おきて)であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初(かりそめ)にも物の直段(ねだん)を知らず、泣言(なきごと)を言はず、まことに公家大名(くげだいみょう)の息女(そくじょ)の如し」とは江戸の太夫(たゆう)の讃美であった。


 これによって、金銭によって春を売るという傾城な世界がひとつの格のようなものを獲得した、と。


 ポイントは以下だろう。

「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。


 甘々な媚態交換だけだと「相互依存的な関係と何が変わらないの?」って感じだけど、そこに上記したような潔さ(自立心)が加わることによって一種の格のようなものを醸し、それが粋のコミュニケーションの緊張感の元となる。

 で、ここに第三の要素「諦め」が絡んでくる。

 これは主に傾城のその身をやつした苦界の女たちの心情として語られていく。


「このような身の上で人に恋焦がれることができるだけでも幸せ」

「男の心が移り気なのも浮世の定め」


 そういった心情というのは現代における自己評価の低い女史の方々の心情と重なるところがあるけど、そこからの諦観へのジャンプというのは苦界の女たち独特のものではないのか?

「いき」の「諦め」は爛熟頽廃(らんじゅくたいはい)の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否(いな)み得ない事実性を示している。


 ともかくも「粋な女たちは諦観をもっている」、と。

そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相の形式と見、空無(くうむ)、涅槃(ねはん)を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない



 そういえば落語なんかに出てくる遊女達も仏教的世界観もってたな(「三千世界の烏」とか)。そこに救いと諦観(平穏)を求めたのかなぁ。


 で、ここまでの概括

以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一見相容(あいい)れないようであるが、はたして真に相容れないであろうか。さきに述べたように、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎(もたら)した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供(ていきょう)し、可能性を可能性として終始せしめようとする。すなわち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟(ひっきょう)、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依(きえ)が運命によって強要され、可能性の措定(そてい)が必然性によって規定されたことを意味している。すなわち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである


 まず「媚態」があるわけだけど、これに対して「意気」とか「諦め」ってのはベクトル違うんじゃねぇの?、と。

 「媚態」の場合は甘々で相手の方向に矢印が向いたコミュニケーションになるけど、「意気」とか「諦め」ってのは一見すると相手とは逆方向の(相手を跳ねのけるような)矢印に見える。それってどうなの?、ってことなんだけど・・

 「媚態」と「意気」の関係についてはさっきもちょっと書いたように、「意気」があるからこそ「媚態」が単なる甘々な依存関係に陥らずにある程度の緊張関係が保たれる。「意気」は自立の気持ちの表れってことだろう。これによって共依存とか相互承認みたいなウザったい圧力から免れ自由になることができる、と。

 では「諦め」の場合はどうか?

媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである


 「媚態」を「意気」によって統制することによって緊張関係が保たれるわけだけど、そういった関係ってのは緊張関係であるがゆえに壊れることもある。その損失に固執しないために諦観が必要である、ということか。

 あるいは、そういった「粋」というフィクションを蓋然的なゲームのルールとして利用することによって、「惚れたお前が悪いのよ」って気取る場合もあるわけだけど

「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙(たいじ)が明示されている。「粋と云(い)はれて浮いた同士(どし)」が「つひ岡惚(おかぼれ)の浮気から」いつしか恬淡洒脱(てんたんしゃだつ)の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増(いやま)して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託(かこ)たねばならない。「蓮(はす)の浮気は一寸(ちょいと)惚(ぼ)れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋(ひよくもん)、離れぬ中(なか)」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈(かまど)にまさる」のは「粋な小梅(こうめ)の名にも似ぬ」のである。


 そこで泣かないのが「意気」なプライドだし、忘れっちまうのが仏教的諦観(うたかた)ってやつか。それはそれで立派で強く「粋だね」って言うしかないだろうけど、なんか悲しいな。



 以上の3つ(「媚態」「意気」「諦観」)が粋を構成する要素だとすると、粋と似たようなところにあって違うものとはなにか? それらとの対比を通じて粋の性質を浮かび上がらせることができるのではないか?

 で、用意された要素が「意気 / 野暮」、「甘味 / 渋味」、「地味/ 派手」、「下品 / 上品」。


 結論を言ってしまうとこれらの要素の中庸どころを抑えている「粋人」として文句なしってことになるんだろうけど・・そううまくもいかないのが世の常っていうか(ごにょごにょ)


 まぁ、とりあえず、以下それぞれと粋の関係について、ポイントと思ったところの抜粋から。まず上品と下品の関係があるわけだけど

上品、下品の対立は、人事関係に基づいて更に人間の趣味そのものの性質を表明するようになり、上品とは高雅なこと、下品とは下卑(げび)たことを意味するようになる


 まぁ、これはそのまんま。

 これに対して、冒頭でもちょっと出たように、上品と媚態の関係ってのがある。「上品過ぎる(隙がなさ過ぎる)と異性が寄って来ないよ」、ってやつ。この辺について

「いき」と上品との関係は、一方に趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無(うむ)という差異点を有するものと考えられる。また、下品はそれ自身媚態と何ら関係ないことは上品と同様であるが、ただ媚態と一定の関係に置かれやすい性質をもっている。それ故に、「いき」と下品との関係を考える場合には、共通点としては媚態の存在、差異点としては趣味の上下優劣を理解するのが普通である。「いき」が有価値的であるに対して下品は反価値的である。そうしてその場合、しばしば、両者に共通の媚態そのものが趣味の上下によって異なった様態を取るものとして思惟(しい)される。たとえば「意気にして賤(いや)しからず」とか、または「意気で人柄がよくて、下卑た事と云(い)つたら是計(これっぱかり)もない」などといっている場合、「いき」と下品との関係が言表(いいあら)わされている。


 どうも「上品 / 下品」の中間地点に位置するのが「粋(媚態)」ということらしい。あと、「上品も度が過ぎると下品になることがある」、とか。この辺はハイソな慇懃コミュニケーションのことをさしてるのかな?


 次に「派手 / 地味」について

派手、地味の対立はそれ自身においては何ら価値判断を含んでいない非価値的のものである。対立の意味は積極的と消極的との差別に存している。


 これ自体は「善い/悪い」はないが・・むしろ派手は媚態を示しやすいので粋と親和性を持っているともいえるのだが・・

派手の特色たるきらびやかな衒(てら)いは「いき」のもつ「諦め」と相容れない。江戸褄(えどづま)の下から加茂川染の襦袢(じゅばん)を見せるというので「派手娘江戸の下より京を見せ」という句があるが、調和も統一も考えないで単に華美濃艶(かびのうえん)を衒う「派手娘」の心事と、「つやなし結城(ゆうき)の五ほんて縞(じま)、花色裏のふきさへも、たんとはださぬ」粋者(すいしゃ)の意中とには著しい隔(へだた)りがある。それ故に派手は品質の検校(けんこう)が行われる場合には、往々趣味の下劣が暴露されて下品の極印(ごくいん)を押されることがある


 媚態を過剰に演出しすぎて下品になることがあるので注意、と。反対に地味は「上品」と同じ感じで、消極的過ぎて他を寄せ付けない嫌いがあるので注意が必要、と。


 次に「意気 / 野暮」について。前者2つの区別と違って、異性間コミュニケーション(粋の領域)において「意気 / 野暮」はどちらがよいのかということについては明白。具体的には

「いき」はさきにもいったように字通りの「意気」である。「気象」である。そうして「気象の精粋」の意味とともに、「世態人情に通暁すること」「異性的特殊社会のことに明るいこと」「垢抜(あかぬけ)していること」を意味してきている。


 男女の機微を知れ、と。

 でも、敢えて野暮を自称する場合もあるらしい。

 もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価(あたい)する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択(えら)ぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。


 いわゆる「非モテ」ってやつだが。本書では「そういうのもありだよねー」としつつも「粋人の世界では通じないけどね」的な言明で終わりにしてる。たぶん江戸にも非モテはいたのだろう(っつーか春画みりゃ分かるわな)


 対して「渋味 / 甘味」の場合。これは「非コミュ / コミュ」な関係なわけだけど、これについては価値判断はないんだそうだ。

渋味―甘味は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。


対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担(にな)っていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。



 ただ、これが異性間コミュニケーションの軸に載ってくると話が違ってくる。異性間(粋の)コミュニケーションでは「甘味」がデフォルトなので。

さて、渋味と甘味とが対他性上の消極的または積極的の存在様態として理解される場合には、両者は勝義において異性的特殊性の公共圏に属するものとして考えられる。この公共圏内の対他的関係の常態は甘味である。「甘えてすねて」とか「甘えるすがた色ふかし」などいう言葉に表われている。そうして、渋味は甘味の否定である。


 「甘味」っていうか「媚態」がデフォルトってことだろう。そういうのがないとゲームが進まないということか。

 で、ここでポイントなのが「渋味」と「地味」の違いについて。「地味」は「派手」の対概念として「質素でけっこうだけど上品だから人を寄せ付けないかもね(媚態がないよね)」って欠点を持ってたんだけど、それと「渋味」の違いはどこにあるのか

渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶(つや)がある。


 あれ?さっき渋味とかは非コミュって感じで「異性的コミュニケーションの軸に属してない限りは別にいいんじゃない?」って言ってなかったっけ?・・オレの読み違いか・・・?

・・まぁいいか(うたかた)。とりあえず異性とのコミュニケーションにおいては渋味のほうが地味よりも経験値積んでるってことらしい。それで甘味を通り越した渋味には艶が出てくる、と。

荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋味に行ったに相違ない。歌沢(うたざわ)の或るもののうちに味わわれる渋味も畢竟(ひっきょう)、清元(きよもと)などのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認めているわけである。そうしてまた、この直線的関係において「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考え得る。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のような甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。国貞(くにさだ)の女が清長(きよなが)や歌麿(うたまろ)から生れたのはこういう径路(けいろ)を取っている。


 甘々な恋愛関係を卒業してそれなりに経験値を積み、恋愛あるいは人生に対して独特の観方ができるようになった人には艶が出てくるということらしい。(甘栗のような艶が?)


 以上が大体の「粋」の構成要素ということになる。


 で、ここまででちょっと不安なのはこの要素全部満たさないと「粋」じゃないの?、ってこと。特に後半。


 前半の3要素(「媚態」「意気」「諦観」)はなんとかなるとして、後半の要素ってなんかびみょーな感じがする。九鬼自身も「価値的判断じゃないから個人個人の価値って感じでいいよ」みたいなこと言ってたし・・。

 てか、個人的には内包的要素としては「媚態」のとこに自信ないし、「渋」いし「地味」だしどうなんだ?、って感じなんだけどどうなんだ?


 ここで出てくるのが有名な『「いき」の構造』図(こんなの↓ ※クリックで拡大)



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 これを見ながら「渋い?」とか「野暮?」とかてきとーに脳内演算しつつ、自分がどの位置にいるかを図で確認、それぞれの位置の性質を以下を参照することによって自分の「粋人度」が分かるらしいぞ!(さぁ、みんなもやってみよー)

「さび」とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角※(さんかくちゅう)[#「※」は「つちへん+壽」、46-2]の名称である。わが大和民族の趣味上の特色は、この三角※[#「※」は「つちへん+壽」、読みは「ちゅう」、46-2]が三角※[#「※」は「つちへん+壽」、読みは「ちゅう」、46-2]の形で現勢的に存在する点にある。


 「雅」は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。


 「味」とは、甘味と意気と渋味とのつくる三角形を指していう。甘味、意気、渋味が異性的特殊存在の様態化として直線的関係をもつごとく考え得る可能性は、この直角三角形の斜辺ならざる二辺上において、甘味より意気を経て渋味に至る運動を考えることに存している。


 「乙」とは、この同じ三角形を底面とし、下品を頂点とする四面体のうちに位置を占めているものであろう。


 「きざ」は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している。


 「いろっぽさ」すなわち coquet は、上面の正方形内に成立するものであるが、底面上に射影を投ずることがある。上面の正方形においては、甘味と意気とを結び付けている直線に平行してPを通る直線が正方形の二辺と交わる二点がある。この二つの交点と甘味と意気とのつくる矩形全体がいろっぽさである。底面上に射影を投ずる場合には、派手と下品とを結び付ける直線に平行してOを通る直線が正方形の二辺と交わる二つの交点と、派手と、下品とがつくる矩形がいろっぽさを表わしている。上品と意気と下品とを直線的に考えるのは、いろっぽさの射影を底面上に仮定した後、上品と意気と下品の三点を結んで一の三角形を作り、上品から出発して意気を経て下品へ行く運動を考えることを意味しているはずである。影は往々実物よりも暗いものである。


 chic とは、上品と意気との二頂点を結び付ける直線全体を漠然(ばくぜん)と指している。


 raffin※(アキュートアクセント付きE小文字)とは、意気と渋味とを結び付ける直線が六面体の底面に向って垂直に運動し、間もなく静止した時に、その運動が描いた矩形の名称である。





 あとは「粋(モテ)」仕草についての説明が載ってるな。(「いき」の自然的表現)

 この辺はまぁ、そのまんまなんで各自確かめてもらうとして。現代でも通じるかどうか分からないけど、シェイクスピアと演劇の関係みたいに基本構造は同じなのだろうし現代風にアレンジすればなんとでもなるのではないだろうか? っつーか和装のときはまだまだ通用するかもしれない。(「姿勢を軽く崩す」のがポイントですって、奥さん!)


 あともう一個、「芸術的表現と粋」とか言ってるけど、これはいいや。なんとなく夢二とか頭に浮かぶけど、それぞれの趣味もあるしなぁ。個人的にはJazzをもうちょっと究めないと・・。
(ってか、冒頭でも言ったように「御家人斬九郎」でFAだぁ)




 んで、最後に「結論」としてまとめが載ってる。

 最初の注意点として、これはあくまでも基本的なまとめに過ぎないからこれだけ参考にしてても仕方ないよ、と。

「いき」を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態(びたい)」といい、「意気地(いきじ)」といい、「諦(あきら)め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。


「きっかけにすぎないんだから後は各自実地で」、ってことなんだろう。あとはガイジンに説明するときに便利、とか

 意味体験としての「いき」と、その概念的分析との間にかような乖離的(かいりてき)関係が存するとすれば、「いき」の概念的分析は、意味体験としての「いき」の構造を外部より了得(りょうとく)せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適切なる位地と機会とを提供する以外の実際的価値をもち得ないであろう。



 っつーか、やっぱ「粋」なんてものは個人の生きられた経験によるものなんだからそれに勝るものはないよ、と

 しかし、さきにもいったように、「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎附けようとすることは大なる誤謬(ごびゅう)である。「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表わしているとは限らない。客観化は種々の制約の拘束の下(もと)に成立する。したがって、客観化された「いき」は意識現象としての「いき」の全体をその広さと深さにおいて具現していることは稀(まれ)である。客観的表現は「いき」の象徴に過ぎない。



 まぁ、そんな感じだろう



 最後にこんな言葉で締めている。


「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬(しょうけい)を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。


 諦観というリアリティをバネにして人生を愉しむこと。自立を通じて自信をもってできるだけの自由を獲得すること。「粋」は「生き」である。






--
関連(2007.5.3):
松岡正剛の千夜千冊『「いき」の構造』九鬼周造

※九鬼の来歴。「いき」を目指したきっかけについて。人間は既に何かを失った状態(被投性)でこの世に生を受けるわけだけど、その失われたものを埋めるためになにかを求める志向性、たとえば「恋愛」がある。

でも、その恋愛さえもいずれはお互いを縛ってしまって、失われてしまったもの(自由?)にはたどり着けなくなってしまう。

「いき」は恋愛に代表されるような衝動の過剰性を統制するための美学である、と(そして統制の中で出会う偶然に美がある)


以下、九鬼の『偶然性の問題』からの引用(の孫引き)

 松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。



松岡さんのまとめのほうが分かりやすかったな。







posted by m_um_u at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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