2014年09月06日

「聲の形」

聲の形(1) (講談社コミックス) -
聲の形(1) (講談社コミックス) -
聲の形(2) (講談社コミックス) -
聲の形(2) (講談社コミックス) -
聲の形(3) (講談社コミックス) -

聲の形(3) (講談社コミックス) -
聲の形(4) -
聲の形(4) -

読んでちょっと心に残ったので簡単にとどめておきたい。


アウトラインとしてはこのマンガへの興味のきっかけとなった他人様の説明を借りよう。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

少年誌のマンガでこの文学性 - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20140118/1390065423

お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 障害者いじめの一つの「形」ー「聲の形」から(番外編)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/390409491.html

【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』 - 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1

















ついったでもちょっとつぶやいたとおりこの作品のテーマというか真骨頂のようなものは「障害者だからといって特別扱いすることは却って差別していることになるのでは?」「きちんと向き合ってコミュニケーションするというのはどういうことか?」ということなのだとおもう。

そこからこのテーマをさらに深めて「きちんと向かい合う(お互いの声を聞く)とは?」というのをコミュニケーション全般に広げ、「障害者へのいじめ」からいじめ一般、この年代、あるいは、社会全体の空々しいコミュニケーション全般を考えるようにしてる。



作品の醍醐味はおためごかしではない本音のコミュニケーションというところにあるので、この先登場人物たちは何度かの事件、修羅場を通しての本気のぶつかり合いで心をひらいていくのだろう。


自分的に気になったのは主人公がかわいすぎる-ちょっと理想化があるのか?というところだったけど、その辺はこのへんでも懸念され

 たぶん「障害児」関係者が読むと、より厳しい現実もたくさん知っているだけに、いろいろと言いたいことは出てくるだろう。西宮が終盤までいかにも「健気な良い子」として描かれているのも気にかかる(「こんなにいい子なのに」いじめるのはひどい、という感想を招きかねないので。「障害者」へのいじめや差別を批判するとき、マジョリティにとって受け入れられやすい障害者像を描くことには危うさが伴う)。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

このへんでは少し拡大解釈されてるように思った。

また主人公は健常者の身でありながら手話を覚えた努力をひけらかすが、その努力は障害者の側とて、それも当然のものとして経験している。その程度のことをもって健常者が障害者と同じ目線に立ったつもりでいるなら、そうした思い上がりこそが“特権”である。主人公にとってはただの自己満足にすぎないが、聾唖者にとっては補聴器やノートと同様に、生きていく上で不可欠の技能だから習得せざるをえないのである。

『聲の形』において障害者の存在は、ただひたすら健常者に迷惑をかけ、健常者が必要としない努力を課され、その上でなおもそうした「原罪」を責め立てられることによって、はじめて健常者に“受け入れてもらう”ことを許される。

何かによく似た図式だと思ったら、レイプ被害者の女性が加害者の男性に転移し、あげくのはてに結婚までしてしまうというポルノの「レイプ・ファンタジー」そのままだ。少女が抵抗しなかったことを理由にイジメを正当化する主人公の姿は、被害者が抵抗しなかったことを理由に「和姦」を主張するレイプ犯と何も変わらない。

そんな主人公の言葉に反して、仮に少女が主人公に憎しみの言葉をぶつけ、そして最後に主人公との和解を拒絶するという選択を取ったなら、この作品は成立しない。物語を健常者の読者にとって気持ちの良いオチで締め括るためには、そのじつ障害者に健常者を憎むことはいっさい許されないのである。

【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』 - 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1



とまれ、ほかの社会問題でもそうだけど、この辺りで大切なのは単なる上からの押し付けとしての「正しいこと」 → 結果として問題を異化/聖化して隔離することではなく、良きにせよ悪きにせよ当人たちが本音でぶつかりあって相互理解を深めていき、結果的に意識を改革していくことなのだろう。

「罰則があるので表面上は『正しい』振る舞いをしつつも心のなかではどう思ってるかわからない」って面従腹背ではなく。

「差別」はカテゴライズが伴われる点に特徴があるので、一般的な「いじめ」とは区別されやすいが、全体主義的な圧力に屈しないことに対する報復という意味では同じ構造をもつ場面がある。だから「障害児」を包摂できる環境を作るために必要なのは「特別支援教育」という配慮や工夫ではなく「教育そのもの」の変容でなければならないのだ。言い換えれば「いじめを無くす努力」は「インクルーシブな教育」とも深く結びつくものである。当然と言えば当然だが「障害児にとってやさしい学校」だけを目標にしても成功しない。

「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

posted by m_um_u at 18:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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