2007年04月30日

「<場>の歴史性」と関係性の代替可能性について

 予告通り「関係性の再構築」に関して、<再帰的近代の課題を越えて関係性をもう一度構築することは可能か?(関係性の脱構築 / 構築)>、<その際模索する関係性はなんらかの歴史的な繋がりを前提としないと成り立たないのか>という課題について考えてみた。ってか、いくつか情報が集まってないところがあってはなはだ未正確な感じなんだけど、いつもながら「おーざっぱ」が本サイトの持ち味なのでおーざっぱに進めようと思う。

 
 で、最初の議題設定に戻って、具体的に「歴史的繋がり」として想定しているものとはどういったものか? まぁ、この辺なわけだが


福耳コラム - 街の自己模倣と矜持


 都合よく要約すると、「地元で生活する人々にとって町というのは工学的思考から行政区画的に割り振られた利便性だけではなく、そこで生活する人たちの利便性に基づいた使い勝手のようなものがある」、と。んで、そういった「使い勝手」のようなものが「生きられた経験」と合わさって歴史的に積み重なっていって「町」というものを構成していく、と。そういった感じだろうか。

 前者は「ハードウェアとしての機能を中心とした表面的な町」、それに対して後者はソフトウェア的な質感や歴史性を中心とした「生きられた町」といえるかもしれない。


 で、後者のような町の場合、前にちょっと考えた「関係性の技術的移入」ってできないんじゃないかって思うわけだけど・・


muse-A-muse 2nd: 関係性と経済合理性の協調可能性について (あるいは中間共同体の可能性)


 この辺りについてもうちょっと考えてみようかな、と。


 っつーか、場の歴史性を中心とした関係性って着脱不可能(大体不可能)な感じなんだけど、そもそも関係性とはどういうものなのだろうか? ってか、関係性への志向というのはどういった経路から出てくるものなのだろうか?

 そういったいわば関係性の源流的な部分を探ることによって、上記で設定した問題というのはhack可能なのではないか?

 これが今回のエントリの目的であり方向性となる。


 で、先日のエントリだけど


muse-A-muse 2nd: 芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)


 一見、しごく人文的問題なこれといわば社会的な問題である今回のエントリがどう絡むかというと、(先見的な結論を出すやり方で社会科学的な思考としては邪道極まりないやり方だけどおーざっぱに言えば)、ここで考えたような「ホントノジブン」っていうか、短絡的なエゴとは違う方向性をもった欲求というのはある意味「善的」というかなんらかの社会的な貢献に寄与するものではないか、と思う。つまり関係性を志向したものではないか、と。

 「pure artはエゴの表出と蓋然的なルールの緊張関係の下に成立する」ってちょっと書いたんだけど、ここで設定したようにpure artというのはなにも自分の好き勝手に欲望を吐き出せばよい、というものではなくてなんらかのルールとの緊張関係の元に生まれていく。ってか、そういった蓋然的なルールを受け手(鑑賞者)のほうが感じ取り、ルールを読み取り、作品を解釈する場においてpure artというのは成立していく。


 で、一見すると最も個人的で、エゴイスティックな場であるはずのゲージツ表現において設定されるルールというのは、自律的に発生してくるルールの限界的なものとして設定できるのではないか、と思う。

 平たく言えば、あんなワガママなゲージツ家でさえなんらかの関係性(ルール)を志向するのだから、ほかの人たちも関係性を志向して然るべきなのでは?、と。


 で、そういったルールの成立過程に関係性への志向の成立がかかわってくるのかなぁ、とかぼんやり思うわけだけど、ここでルール以前に、そういったルールを設定せざるを得ない「あーてぃすと」にならざるを得なかったジブンという問題がある。

 この人たちはなぜ「あーてぃすと」にならざるを得なかったか?

 前回の設定的には、「ホントノジブンなんかなくて、<私>ってのはいろんな他者が行き交う場なんですよ」、ってのがまずあると思うけど、そこでのホントノジブンというのは雑誌とかテレビみたいなメディアで設定されていた「リソウノブン」ってやつで、そういうのと理想像としての「あーてぃすと」ってのとはちょっと違うように思う。

 前回エントリ後段でもちょこっと言ったけど、「ならざるを得ないから仕方なくあーてぃすとになる」のであって「理想だからなる」とかいうのはちょっと違うんじゃないかと思うので。なかにはそういう人もいるかもしれないけど、モチベーションというか才能足りるのかなぁ、とか思ったり。(まぁ、元々、「あーてぃすと」になるのは「ならざるを得ない」からであり目標ではないのだから吐き出すものがなくなればやめればいいだけだろうけど)



 そんな感じで、ホントノジブン(あるいは自分に還る)的な志向というのはあると思うし、そこから派生してなんらかの自律的ルール(関係性)を模索しようとする志向というのはあるように思う。個人的見解ではこのルールというのが公的なルールの原初的なところに繋がるように思う。


 んで、こういう風に書いていくと、「それって一部の人だけじゃん?公のルールってむしろ多くの人の妥協の下に決まるのでは?」、って感じになると思う。では、多くの人の志向とはどういったものか?


 その前に、関係性への志向とかナリタイジブンへの志向以前になんらかのおぼろげな欲望への志向のようなものがあるように思う。欲望への志向というか、模倣。「あの人なんとなく好きだからあの人のようになりたい」みたいな感じのおぼろげな欲望がまず初めにあって、身近な人の模倣とその反復のようなものを繰り返すところから自己と他者というものは形作られていく。(cf.ラカン、ジェイコブセン)

 んで、模倣を通じてそういった記号操作に慣れて、自分自身で習得した語彙とかコミュニケーション作法が増えることで、自分なりの行為の分節化が行われ、内部システムがいくつかに分かれていく発展していくんだと思う。(ゲシュタルト?)



 で、本筋に戻って、関係性への志向というのはどの段階で目覚めるのか?



 いちお模倣という形での関係性への志向というのは自覚的じゃない状態でもありえるように思う。いわゆるご近所づきあいとか。

 こういうのは日常ルールの模倣だしルーチンって感じなので自律的なものではなく、関係性やそれに関連すると思われる善性への志向というものとはそれほど関係ないように思う。


 ってところでちょっと行き詰るわけだけど、ちょうど池田センセが関連エントリ出しておられたので見てみよう


池田信夫 blog なぜ人は感情をもっているのか


 刑罰を求める社会的な心情について、「合理的に考えれば刑罰を科しても死者は生き返らないはずなのに人々が刑罰を求めるのはなぜか?」、ということについて。


これはゲーム理論で、コミットメントの問題としてよく知られている。一般に刑罰は、処罰する側にとっても受ける側にとってもコストがかかるので、事後的には許すことが合理的だ。しかし処罰する側が合理的に行動することが事前に予見されると犯罪が横行するので、たとえ不合理でも処罰しなければならない。つまり秩序を維持するためには、不合理な行動へのコミットメントが必要なのだ。

このようなコミットメントを作り出すメカニズムとしていろいろな方法が知られているが、代表的なのは法律だ。どのような情状があろうと、犯罪者は同じ法律によって一律に処罰され、個別に交渉して(たとえば金をとって)釈放することはありえない。そういうことは「正義にもとる」として許されないからだ。したがって究極の問題は、人々はなぜ正義を求め、筋を通す感情をもつのかということだ。



 「秩序を守るためには必要」、と。では、「秩序>個人」「社会>個人」的な感じで関係性への志向がプログラミング(内部規律化)されているのか? エントリ後段でもちょっと出てきた「感情」の捉え方がポイントらしい。

 続きのエントリではアダム・スミス問題、あるいはシステムにおける多様性(文化)の問題に触れておられる。んで、公共善への志向は後天的な環境要因によるもの、と。


池田信夫 blog Moral Sentiments And Material Interests


当ブログでもみてきたように、愛国心や分配の公平、あるいは因果応報などの一見、論理的に説明しにくい心理も、遺伝的・文化的な進化のプロセスを想定すると論理的に説明できる。人間の場合には、社会的昆虫と同様、個体が孤立して生きることができないので、エゴイズムを制御して集団を維持することが生存競争においてきわめて重要だったと考えられる。


 サバイバル状態の中で集団を維持する際のルール設定を想定すると分かり易いように思う。資源が限られている状態では優先順位が「共同体>個人」となる。近代以前、「自然」ってやつは暴力的に強大だったのでそれに立ち向かう人類社会は一定の規律が必要だった。

 んで、そういった社会を維持するために規範が設定され、それを守らせるために強力な「アメとムチ」が設定される、と。

 で、ポイントとしては以下


こうした集団的な行動は、どこまで遺伝的に決まり、どこからが環境によるものだろうか。これについては、異なる文化的条件で同じ実験を行なった結果、社会生物学の主張するような遺伝的決定論は誤りであり、文化的な要因の影響のほうが大きいというのが本書の主張だ。基本的な欲望や感情は遺伝的に決まるが、それがどう行動に現れるかは文化や習慣によって決まるのである。



 <集団的行動、関係性への志向は遺伝子のような先天的要因というよりは社会的・家庭的な学習といった後天的要因によって決まるところが大きい>、と。(基本的なもの以外は)


 ってか、「関係性への志向の分節にはどういった種類があるか」とか「それがどのようにして根付いていくか」とかが重要なわけだけど、特に触れられていないな・・。



 仕方がないので自前で考えるとして、ここで思い浮かぶのが「マズローの欲求段階説」、いわゆる「自己実現の心理学」っていわれる例のアレだ。


〜 マズローの欲求段階説 〜


 「人間の欲求は5段階に分かれてて、精神が成長するに従って提示のものから高次のものへ移っていく。すなわち、生理的欲求 ⇒ 安全の欲求 ⇒ 親和の欲求 ⇒ 自我の欲求 ⇒ 自己実現、って感じで」

 ってやつ。それぞれの説明としてはこんな感じ


生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことです



 ここで「自我」とか「自己実現」とか不用意に入ってるのでいまからみるとちょっとアレな感じなんだけど言いたいことは分かる。本エントリ的には「親和の欲求」「自我の欲求」「自己実現の欲求」あたりが絡むか。


 っつーか、「親和の欲求」における「他人と同じにしたい」って思いは同調性を、「自我の欲求」における「集団から価値のあるものとして認められたい」というのは相互承認欲求を想起させてちょっとびみょーな感じがするんだけど、いいたいことはなんとなく分かる。


 てか、いま「マズローの心理学」(フランク・ゴーブル)ってのを緊急的に読んでてなんとなくな大略をつかんでるんだけど、どうもマズローってのはフロイト、行動心理学的なものを押さえた上で、「でも人間無意識とかリビドーとか、システマティックな合理性だけじゃ動いてないしなぁ」ってとこから「善的モチベーション」に関心を持ち、「そういったモチベーションがほかの欲求に比べて低いものだとしても開発していくことは可能なんじゃないか?」、って視点から5段階の欲求説を作っていったっぽい。なので、この説自体は終着点というよりは未完成なパフォーマティブアクションとしてみたほうがいいように思う。

 まだ全体を見たわけじゃないけど、どうもそんな感じ。


 「社会や学校・家庭教育といった後天的な要因がどのように関係性の志向に絡んでいくのか?」ということについては未だチェックしてないけど、以上のような問題設定の仕方をみるとどうもその辺のチェックもゆるいような気がする。

 やっぱ「再帰的近代」とかの問題以前だからかなぁ・・。


 まぁ、とりあえず再チェック、と。




 で、こういった「感情」みたいな曖昧な議論が出てくると警戒されるのはむしろネガティヴな感情のほうのように思う。


 「ねたみ」「そのみ」「ひがみ」「うらみ」みたいな他人貶め型ネガティブ4姉妹に加えて、「怒り」「不安」「怠惰」みたいなのもある。


 こういう「感情」は関係性(あるいは善性)の志向とどう絡むのか?



 マズローが言うように、「自己実現的段階に至った人(あるいはそれを志向することに目覚めた人)にとってはそんなのアホくさくてやってらんないよ」、って感じでまず自己実現的なものを目指せばいいのか?


 でも、さっきも言ったように誰しも自己実現的なものを目指せるわけではないし、いまの世の中はそういった志向がなくてもある程度は関係性を志向できているように思う。


 加えて言うなら、マズローの提示した欲求の関係というのはレベルではなくレイヤーで捉えたほうが良いように思う。





 まぁ、こんな感じで関係性の源流と思われる部分である関係性への志向への考察みたいなのはおーざっぱに修了されるわけだけど、しっくり来たのって言ったら、「欲望は模倣を通じて形成されていく」ってことぐらいかなぁ・・。

 自律的じゃない関係性への志向というのもそんな感じで模倣・複製されていくんだろうなぁ



 では、最初に戻って、


 そんな感じで関係性(への欲望)が模倣を通じて構築されていくとすると、場の歴史性に依存するのか?しないのか?



 模倣の場合は自律的だったり自覚的だったりしないのだろうから場の雰囲気ってけっこう大事な気がする。でも、それとは別に町を自覚的に生きている人ってのは単なる模倣ではなくてなんらかの形で自らの生活をhack(ブリコラージュ)しているように思う。その部分のマインドと合わされば、外部からの移入というのは接続可能なように思うんだけど・・その辺のマインドってのがつかみにくいんだろうな。


 そういや内田センセのとこにもそんなエントリ上がってた


「株式会社という病」を読む (内田樹の研究室)


 「零細企業の工場労働者のエートス」、それを受け入れ「あちら」と「こちら」は違うとする労働者への親和性と「あちら」側にいることの心の疼き。そして、仕事を通じて親和性が消えていく侘しさについて。


 ここでは「労働者」は機械的になにも考えず働いているのではなく、ある自律性をもって経済合理性以外のエートス(関係性、親和性)にコミットして行っている。


 そして、日々の生活(労働)を楽しむことも。



 こういうのはなんかいいなぁ、と思う





--
追記(2007.5.1):
っつーか、技術の享受の器って認知系からhack可能なの?
(行動主義心理学から認知心理って感じでアプローチ?)


天才アーキテクト神成淳司氏との共著本『計算不可能性を設計する』まもなく上梓! - MIYADAI.com Blog

技術の享受「を」可能にするのは潜在的行動連関だが、技術の享受「が」新たな潜在的行動連関を開示する。社会的全体性が技術を方向づけると同時に、技術が社会的全体性を方向づける。それに無自覚であれば技術は意図せざる帰結をもたらす



って、この「潜在的行動連関」って具体的になんなのかよくわかんないんだけど、いわゆる慣習とか生活(労働)上の無意識的なルールってやつだろうか?(暗黙知であるがゆえにhackしにくい部分みたいなの)



そして、あほーだんすでダンスを踊れ、と?(「同じアホなら」?)



posted by m_um_u at 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。